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【79】チーズの七十二色

 草原で一週間が過ぎたころ。


 ユーリアが、わたしを族の共同チーズ蔵へ連れていってくれた。


 地面を深く掘り抜いた土の倉庫で、踏み固められた階段を降りるたび、靴底に湿った土が吸いつく。肩のあたりから空気が冷え、鼻の奥へ、乳の甘さと塩、古い木、青いカビの匂いがいっぺんに押し寄せた。


 壁は棚で埋まり、その棚板の上に、何百ものチーズが眠っていた。


 丸いもの、平たいもの、革袋の形を残したもの。白く粉を吹いた塊の隣で、黄色く締まった輪が眠っている。灰色の皮をまとったものもあれば、緑のカビをふわりと浮かせたもの、青い斑点を星みたいに散らしたものもあった。


「すごい……」


 声が、冷えた蔵の中で小さくこぼれた。


「七十二種類」


 ユーリアが言った。


「我らの族で作るチーズは、七十二種類。季節、乳の状態、熟成の長さ、塩の加減で変わる」


「七十二種類……」


「これでも減ったほうだ」


 ユーリアは棚の奥へ目を細めた。


「百年前、先生が来た時は九十六種類あったと、母から聞いた」


「減った——」


「世代が変わるごとに、忘れられた種類がある」


 淡々とした声の底に、土蔵の冷気とは別の寂しさが沈んでいた。


「忘れられた二十四種類は、戻らない。レシピも感覚も知っとったばあさんたちは、皆、死んでしまった」


 わたしは唇を噛んだ。

 鉄の味がした。


 料理は、生きている。

 紙へ移すか、手から手へ渡すかしなければ、ある朝ふっと途切れてしまう。


「ユーリア」


「ん?」


「残りの七十二種類を——書き残しても、いいですか」


「書き残す?」


「全部です。チーズの作り方も、手の感覚も。もし、ユーリアたちが次の世代のために忘れたくないなら——わたしが、本にできます」


 ユーリアが、わたしを見た。


 蔵の天井から水滴がひとつ落ち、土に吸われた。

 長い沈黙だった。


 やがて彼女は、顎を引くように頷いた。


「リーゼ」


「はい」


「お前さんは——いい娘だな」


 ユーリアが笑った。

 目尻の深い皺が、干した草のように刻まれる。


「我らの族で二十四種類が忘れられた時、誰も、その意味を考えなかった。皆、忙しすぎた。子を育て、馬を世話し、冬を越える。書き残す暇なんぞ、なかった」


「ユーリア」


「お前さんが書き残してくれるなら——わたしは感謝する」


「お礼を言うのは、わたしの方です」


 わたしは深く頭を下げた。


「ありがとうございます。あなたの族の知恵を、わたしに預けてくださって」


 ユーリアの手が、わたしの肩をぽんと叩いた。厚くて温かい手だった。


「同志、というのは、こういう関係を言うんだろうな」


「同志……」


「お前さんは外人だが——同志だ」


 目の奥が熱くなった。


 遠い土地で、違う言葉や暮らしの中にいても。

 料理を挟めば、誰かと同じ火の前に立てる。


 旅に出た足の裏が、少し報われた気がした。



 * * *



 その日から、わたしは毎日、ユーリアの隣でチーズを作った。


 七十二種類のレシピをノートに書きつける。季節、乳の状態、塩の加減、寝かせる日数。けれど肝心なところは、数字だけでは逃げてしまう。

 革袋を握る指の沈み方。乳の匂いが甘いか、酸に傾くか。布から落ちる雫の速さ。

 そこは、自分の手で作って覚えるしかなかった。


 それでもユーリアは、何度でも付き合ってくれた。


「リーゼ。今日の馬乳の酸度を、舐めてみろ」


「はい」


 指先にすくった乳を舌へ乗せる。甘い。けれど奥で、舌の脇をきゅっと刺す酸がある。


「強いか、弱いか」


「……強い、です」


「正解。今日のチーズは、絞りを弱めにする」


 わたしはユーリアの隣で革袋を絞った。

 力を入れすぎると乳が痩せる。抜きすぎると水っぽさが残る。手首を返し、袋の腹を押し、布から落ちる白い雫を見ながら、ちょうどいい所を探した。


「リーゼ」


「はい」


「お前さんも、見えるようになってきとる」


「光が、ですか」


「いや、状態だ」


 ユーリアは、わたしの手元を見ていた。


「お前さんの絞り方が、今日の馬乳にちょうど合っとる。乳が、お前さんに応えとる」


「ユーリア——」


「乳と話せるようになってきたんだ、お前さん」


 胸の中で、湯気のようなものがふくらんだ。


 乳と話す。

 ロレンツォさんの言葉と、ユーリアの言葉は違う。けれど、どちらもわたしの手に、同じものを触らせてくれる。



 * * *



 夕方、わたしはゲルに戻った。


 殿下が待っていた。火のそばに腰を下ろし、馬具に残った草の屑を指で払っている。


「殿下」


「楽しそうだな」


「え?」


「最近のお前は、いつも笑っとる」


 殿下が目を細めた。


「ユーリア族の中で——お前は輝いている」


 耳が熱くなった。


「殿下も、楽しんでますか」


「俺か」


「はい」


「俺は——」


 殿下は払った草の屑を火皿の端へ寄せた。


「俺は、馬の世話を覚えた」


「え?」


「ボガートが教えてくれた」


 思わず、まばたきが止まった。


「殿下、ボガートさんとお話しを?」


「最初は警戒されとった。だが、馬を扱う技を見せたら——」


「殿下、皇宮では馬をどれくらい扱っていたんですか?」


「俺は、騎馬の達人と言われている」


 殿下がぽつりと言った。


「だが、ここの馬は皇宮の馬とは違う。野生に近い。乗りこなすには、別の技が要る」


「殿下が、ボガートさんから新しい技を習った——?」


「そうだ」


「お互い、教え合った?」


「ああ」


 口が開いたままになった。


 皇宮で第二皇子と呼ばれ、氷の魔術師とも剣の天才とも見られてきた人が、草原の遊牧民に頭を下げ、馬の技を習った。

 その姿を想像すると、胸のあたりが妙に温かい。


 殿下が付け加えた。


「ボガートは、いい男だ」


「……はい」


「最初は、無骨で口数の少ない男かと思っとった。だが馬の話になると、別人のように語る」


「殿下も、料理の話の時は別人ですよ」


「そうか」


「はい」


 殿下が苦笑した。


 その表情を、最近よく見る。

 帝都にいた頃の氷みたいな顔ではない。草原の風に角を削られたような、柔らかい顔だ。


「リーゼ」


「はい」


「この旅は——いいな」


「殿下も、そう思いますか」


「ああ」


 殿下が頷いた。


「俺は皇宮で十八年生きた。ずっと、誰かを警戒する場所だった。誰も信じられない場所だった」


 声が低くなる。


「だが、ここでは違う」


「はい」


「俺はボガートを信じる。ユーリアを信じる。族の誰も、俺を騙そうとはしない」


 殿下がわたしを見た。


「お前のおかげだ」


「殿下——」


「お前がいるから、俺も——人を信じることができる」


 心臓が、忙しく鳴った。


 殿下の言葉はいつも不器用だ。

 削りたての木みたいに角が残っている。でも、だからこそ嘘がない。


 わたしも、返したかった。


「殿下」


「ん?」


「わたしも——殿下がいるから、旅に出られました」


「……」


「殿下がいなければ、わたしは帝都の研究所で止まっていたと思います」


 殿下が、わたしを見つめた。


 ゲルの真ん中で炎が揺れ、天窓へ細い煙が昇っていく。夕暮れの空が、その向こうで青く冷えていた。


「リーゼ」


「はい」


「俺は——」


 殿下が口を開きかけた。


 その時——


 ゲルの外で、子供たちの笑い声が弾けた。足音が近づく。


 ライラだった。


「リーゼ姉さま! お母さまが、明日の宴のことで話したいって!」


「あ、はい! 今、行きます!」


 わたしはライラに応えて、殿下を見た。


 殿下は口を結んでいた。


「行け」


「殿下——」


「行け。お前の仕事だ」


 殿下が言った。


「いつか——話す」


「はい」


 わたしは殿下に頭を下げ、ゲルを出た。


 夕暮れの空気が頬に当たる。乳の甘い匂いと、焚き火の煙と、遠くの草の青い匂いが混じっていた。

 風が、わたしの銀白の髪をさらった。


 いつか、殿下が話してくれること。


 それが何なのか、薄々分かっている気がした。

 でも、言葉にしてしまうには、まだ早い気もした。


 わたしは両手で頬を押さえた。


 ユーリアのゲルへ走る。

 足元の草がしなり、靴先に湿り気が跳ねた。

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