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【78】馬乳酒の小さな職人

 ユーリアの族で過ごす朝は、革袋の音から始まった。


 とん、とん、とん。

 眠りの残った耳に、湿った革の音が同じ間合いで届く。女たちの手に押されるたび、袋の中で馬乳酒が揺れ、小さな職人たちが目を覚ます。


 わたしも女たちの輪に入って、革袋に手を置いた。


 最初は、すぐに叱られた。


「リーゼ、力が勝っとる」


 ニーラという四十代の女性だった。ユーリアのいとこらしい。馬乳酒の仕込みをまとめている女性で、日焼けした腕で次々と仕事を片づけていく。


「強く揉むと革が傷む。傷んだところから外気が入る。そうすると悪い菌が増える。分かるな」


「はい」


「もっとやわらかく。中の小さな職人たちを叩き起こすんじゃない、揺すってやるんだ」


「揺すってやる……」


「赤子を寝かしつける時と同じだ。腕だけでやるな。息も合わせろ」


 わたしはニーラの手つきを真似て、革袋を押した。


 とん、とん、とん。


 手のひらの下で馬乳酒が揺れる。革袋の中では、数えきれない乳酸菌が、小さな職人みたいに動き出している。


 繰り返すうち、革の張りと重みが、手のひらへ言葉みたいに返ってくるようになった。


「リーゼ。お前さん、覚えるのが早いな」


 ニーラが顎を引いた。


「あなたの教え方が上手だからです」


「ふん」


 ニーラが笑った。日焼けした顔の目尻に、深い皺が寄った。



 * * *



 午後、わたしはチーズ作りを見学した。


 手を動かしていたのはユーリアだった。


 布を張った器へ馬乳酒を流すと、白い固形分が布目に残る。ユーリアはそれを革袋に移し、口を締め、掌の付け根で押した。白い汁が細く落ち、最後に残った白い塊を乾燥棚へ並べる。


 手順だけ見れば、難しいことはしていない。

 けれど、ユーリアの手に迷いがない。


 力は必要なところでだけ入り、すぐ抜ける。考えるより先に、指が馬乳の機嫌を拾っている。


「ユーリア」


「ん?」


「チーズを作る時、何を考えてますか?」


 ユーリアは手を止めた。


「考える……?」


「はい」


「考えとらん」


 ユーリアは首を振った。


「考えとらんが——感じとる」


「感じるって、何を?」


「乳の状態だ」


 ユーリアはぐっと革袋を絞った。白い汁がぽたりと滴る。


「今日の馬乳酒は酸が立っとる。だから絞りは弱くする。押し切ったら、酸味が勝ちすぎる」


「……」


「明日は酸が弱いだろう。今日、強いからな。その反動だ。明日のチーズは強めに絞る」


「明日の馬乳酒の状態を、どうやって予想するんですか?」


「予想じゃない」


 ユーリアが笑った。


「乳が教えてくれるんだ」


「乳が——」


「乳と話すんだ。お前さんの族では、しないか?」


 胸の奥が、ひゅっと鳴った。


 乳と話す。

 マルタばあさんは鍋に話しかけた。

 ロレンツォさんは樽に話しかけた。

 今、ユーリアは馬乳の返事を手で聞いている。


 帝都の言葉なら、エッセンスと呼ぶのだろう。

 けれどここでは、名前より先に、食材と話す手つきがあった。


「ユーリア」


「ん?」


「あなたは、エッセンス使いです」


「エッセンス?」


「食材の本質と対話する力です。あなたの族の言葉なら——『小さな職人と話す力』です」


「ふん」


 ユーリアは首を傾げた。


「我らの族には、そんな特別な力はない」


「いいえ」


 わたしは、ユーリアの手の中の白いチーズを見た。


 光っていた。

 淡い金色が、指の隙間でかすかに息づく。


「ユーリア。あなたの手の中で、チーズが光っています」


「光?」


「金色の、淡い光」


 わたしの言葉に、ユーリアの指が止まった。

 彼女の強い目が、まっすぐわたしを射る。


「リーゼ」


「はい」


「お前さん、その光が見えるんか」


「はい」


「他に、見える者は」


「ネルは見えます。あと、わたしの仲間にも何人か」


「……ふん」


 ユーリアは頷いた。


「我らの族にも、見える者はおる」


「え?」


「古老のバルダックさまだ」


 ユーリアがゲルの隅へ目を向けた。


「あの方は百歳を超えとる。族の最長老だ。あの方が若い頃、こう言うとった」


 ユーリアは目を伏せた。


「『母さまの手の中で、馬乳酒が光っとる』と」


「……!」


「子供の戯言だと、皆は片づけた。が——」


 ユーリアが目を上げた。


「我らの族では、代々それを『母の手の光』と呼んでおる」


 胸の内側から、熱が押し上げてきた。


 港にあった光が、草原にもあった。

 たぶん、世界中のどこかで、別の名をもらいながら息づいている。


 手の中で光るものは、同じ力だった。



 * * *



 夕方、わたしはユーリアと共に、古老バルダックさまのゲルを訪ねた。


 バルダックさまは毛織の絨毯の上で目を閉じていた。骨ばった顔に、白いふさふさのひげがかかっている。


 ユーリアがゲルに入ると、バルダックさまはまぶたを持ち上げた。


「ユーリアか」


「リーゼという客人を連れてきました」


「客人」


 バルダックさまの灰色の目が、わたしを見た。

 顔だけを見られている感じではない。背中の向こうまで、視線が抜けていく。


「銀の髪、紫の目」


 バルダックさまがぽつりと言った。


「異邦の料理人」


「リーゼ・ヴァイスフェルトと申します」


「お前さん、エッセンスを知っとるな」


 わたしは息を呑んだ。


「はい」


「百年前、似た問いを受けた」


 バルダックさまが目を細めた。


「『この族では、母の手の光と呼ぶのか』と。わしは、そうだと答えた」


「百年前——あなた、その時、いくつでしたか?」


「八歳」


 バルダックさまの声はしわがれていた。


「八歳の時、旅の男に出会った。背が高く、優しい目をした男だった。その男はわしらの族に半月滞在した。馬乳酒の作り方を習った、と言うとった」


 肋骨の裏で、心臓が一つ跳ねた。


「その男の名前——」


「分からん」


 バルダックさまは首を振った。


「男は自分の名前を言わんかった。わしらは彼を、ただ『先生』と呼んだ」


「……」


「先生は、わしの母さんにこう聞いた。『あなたの手の中で、馬乳が光っとる、と分かるか』。母さんは笑って答えた。『母の手の光、と言うわい』」


 バルダックさまの目尻に涙が浮かんだ。


「先生は母さんの手を握って言うとった。『あなたはエッセンスを使っている。わたしと同じ力だ』」


 ユーリアが息を呑んだ。


「バルダックさま、それは本当ですか」


「本当だ」


 バルダックさまが頷いた。


「わしは子供の頃、その光景を見て育った。だから、母の手の光が見える子供になった」


 目頭の奥がつんと熱くなる。


 エルヴィン。

 あなたは本当に、世界中を巡ったのだ。どこかの手の中にある『母の手の光』を見つけ、それに名前を与えながら。


「先生は——」


 わたしは聞いた。


「先生は、半月後、どこに向かいましたか」


「北の山に向かう、と言うとった」


 バルダックさまが答えた。


「『山にも似た光がある、と聞いた』と。それから半月後、姿を消した」


「姿を消した?」


「先生はその後、二度とわしらの族には戻ってこんかった。便りもなかった」


 バルダックさまが目を伏せる。


「母さんは、よく心配しとった。『先生は無事だろうか』と」


 わたしはネルを見た。


 ネルは目を閉じていた。

 長い、長い沈黙の後、目を開けた。


「バルダック」


「使い魔か」


「お前さんが会った『先生』は、わしの主、エルヴィンだ」


 バルダックさまが息を呑んだ。


「わしは、あの男の最後の旅の話をほとんど知っとる」


「教えてくれるか」


「あの男は——草原を出て、山に入り、その後、海に戻ってきた。最後は、辺境の修道院で死んだ」


 バルダックさまの目から涙がこぼれた。


「死ん——だ、か」


「百年前にな」


「ふん」


 バルダックさまは目を閉じた。


「母さんに伝えたかった。が、母さんは二十年前に死んだ」


「すまんな」


「いや」


 バルダックさまが目を開けた。


「先生の使い魔が、わしの族に戻ってきてくれた。それで十分だ」


 ネルが深く頷いた。


「主の代わりに礼を言う」


「ふん」


 バルダックさまが長く息を吐いた。


「リーゼ」


「はい」


「お前さんが我らの族で料理を学ぶことを、わしは許可する」


「ありがとうございます」


「先生の後継者なら、母さんも文句は言わん」


 わたしは深く頭を下げた。

 落ちた涙が、絨毯の毛に小さく吸われた。

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