【77】族長の朝食
翌朝は、夜明けより少し早く目が覚めた。
草原の朝は冷える。
吐いた息が白くほどけた。
ゲルの中央炉に薪を組み、火を移す。
乾いた枝がぱち、と鳴り、煙の匂いが立った。
ユーリア族の女性たちは、すでに働き出していた。
羊の足元で縄を直し、馬の首を叩き、家畜の鼻面を押し戻している。
わたしに気づくと、何人かが顎を引くように会釈した。
昨日より、視線の棘は浅い。
ユーリアの娘のライラ——多分、十二歳くらい——が、馬乳酒の革袋を抱えて、わたしのゲルへ駆けてきた。
「お母さんが、これをって」
「ありがとう、ライラ」
「……わたしの名前、覚えてくれたんですか?」
「うん。昨日、ゲルの前にいたでしょう」
ライラの頬がぱっとほころんだ。
「リーゼ姉さま、何を作るんですか?」
「ライラの族の馬乳酒で、お粥を作ります」
「お粥?」
「ライラは、お粥って知ってる?」
「うちの族では、固い乾燥肉をお湯で戻して食べます」
「うん。でも、わたしのお粥はちょっと違う。お米を馬乳酒で煮込むの」
「お米?」
わたしはリヒト粒の袋を開いて見せた。
ライラが身を乗り出し、丸い目でのぞき込む。
「白い粒……」
「うちの故郷の主食です」
「初めて見ました」
「ライラも一緒に作る?」
「いいんですか?」
わたしが頷くと、ライラは革袋を抱え直した。
目だけでなく指先までそわそわしていた。
火に鍋をかけると、年齢も国もいったんほどける。
中をのぞき込みたがる子供の目は、どこでも同じ明るさをしている。
* * *
ライラと一緒に、リヒト粒を研いだ。
水で軽く洗い、濁った水を捨てる。
二度目は馬乳酒を注いだ。
指の腹で米を撫でると、酸を含んだ白い液が表面をかすかに締める。
この下拵えで、あとから馬乳酒の味が米へ入りやすくなる。
「お酒でお米を洗うんですか?」
「うん」
「もったいなくないですか?」
「もったいない。けど、このひと手間で味が変わる」
ライラはぱちくりと瞬いた。
驚きが引く前に、興味の方が前へ出てくる。
鍋に馬乳酒を注ぐ。
火は弱く、鍋底を舐めるくらいにした。
馬乳酒は沸騰させない。乳酸菌が死んでしまう。
湯気が細く上がり、指を近づけると熱がやわらかい。
六十度くらいまで温まったところで、洗ったリヒト粒を入れた。
木べらを底に沿わせて混ぜる。
米が馬乳酒を吸い始めた。
香りが、変わる。
乳酸のくっきりした酸味に、米の甘みがからむ。
白い湯気の奥で、知っているもの同士が別の顔になっていく。
* * *
米がふっくら煮上がる頃、外の足音が近づいた。
ユーリア族長だ。
ライラは肩を跳ねさせ、母親を迎えに外へ出た。
「リーゼ。料理はできたか」
ユーリアがゲルの入口で立ち止まる。
わたしは頷いた。
「中にお入りください」
ユーリアは幕を押しのけて入ってきた。
その後ろに、年配の男性が続く。
「弟のボガートだ。族の有力者でもある」
ボガートと紹介されたのは、昨日、最初に応対してくれたあの年配の男性だった。
彼はユーリアと並び、中央炉の前に腰を下ろす。
喉が少し硬くなった。
族長の弟。
そして、わたしたち外人を警戒している人物。
ここで手を止めれば、昨日の土下座まで軽くなる。
息をひとつ整え、器を取った。
炊き上がったお粥を土の器によそう。
仕上げに、ライラが持ってきてくれた乾燥チーズをすりおろし、雪のように散らした。
ゲルの隅に生えていた香草は、刃先で細かく刻んで添える。
器をユーリアとボガートの前に置いた。
「リーゼ・ヴァイスフェルトの朝食です」
ユーリアは器を見下ろした。
表情は動かない。
けれど隣のボガートが、先に鼻を鳴らした。
「これ——馬乳酒、入っとるな」
「はい」
「我らの馬乳酒を使ったか」
「ライラさんが、お母さまの許可で分けてくださいました」
ボガートがユーリアを見る。
「姉さん」
「許可した」
「外人に馬乳酒を扱わせるとは——」
「ボガート」
ユーリアの声が低く落ちた。
「客人だ。一晩だけの。気を悪くするな」
「だが——」
「食べてから言え」
ユーリアが土の器を手に取った。
木の匙で粥をすくい、口へ運ぶ。
……その手が止まった。
ユーリアの瞼が、わずかに上がる。
ボガートも怪訝そうに姉を見た。
ユーリアはまた一匙すくった。
口に入れる。
間を置かず、次の一匙。
手が止まらない。
「……」
「お味は、いかがですか」
自分の声が、炉の音に混じって聞こえた。
ユーリアは匙を置いた。
「リーゼ」
「はい」
「お前——馬乳酒の扱い方を、よく知っとる」
「はい」
「沸騰させたら菌が死ぬ。だから六十度で温めた、な」
「はい」
「米に馬乳酒を吸わせる間合いもよかった。酸で米の表面が僅かに変わって、味が奥へ入る」
ユーリアは目を細めた。
「お前、前にも馬乳酒で料理を作ったことがあるんか」
「いいえ」
「初めてか」
「はい」
「では、何故ここまで扱える」
「乳酸の性質を知っているからです」
胸の奥まで息を吸った。
「酪酸菌、乳酸菌、酵母菌。馬乳酒の中で何が働いているか。どの熱なら働き、どこで動きを止めるか。それが分かれば——火の入れ方も、待つ時間も見えてきます」
「酪酸菌、乳酸菌、酵母菌……」
ユーリアはわたしの言葉を舌の上で転がすように繰り返した。
「お前さん、そんなものを目で見えるみたいに語るな」
「目では見えません。でも、料理の中で彼らが働いていることは確かです」
「我らの族では、こう教えとる」
ユーリアは目を閉じた。
「『馬乳酒の中には、たくさんの小さな職人がおる。彼らにちょうどいい家を与えれば、彼らは最高の仕事をする』」
息が喉で止まった。
菌、と、職人。
呼び名は違う。
けれど見ているものは同じだ。
「ユーリアさま」
「何だ」
「あなたの族の知恵は、わたしの知識と同じものを、別の言葉で表現しています」
「それは当たり前だ」
ユーリアが目を開ける。
「乳は乳だ。馬は馬だ。発酵は発酵だ。違う土地の違う人間が、同じものを見ている。同じ結論に辿り着く」
「はい」
「だが——お前さんの知識は深い」
ユーリアの視線が、まっすぐわたしに刺さった。
「外人の中で、ここまで馬乳酒の本質を見ている者は稀だ」
「光栄です」
ユーリアは粥をもう一匙、口へ運んだ。
「ボガート。お前も食べろ」
「姉さん」
「食べろ、と言っとる」
ボガートは不本意そうに器を持った。
匙を粥へ沈める。
口へ運ぶ。
……動きが止まった。
無骨な顔が、二度、三度と瞬く。
ボガートは長いこと器の中を見つめ、それから低く漏らした。
「美味い……」
「ふん」
ユーリアがにやりと笑った。
「ボガート。お前も認めただろう」
「だが、姉さん、これは——」
「分かっとる」
ユーリアはわたしを見た。
「リーゼ。お前さんの料理は、技術が深い。我らの族の知恵を奪う気はない、と言ったな」
「はい」
「では——交換しよう」
「交換?」
「我らが、馬乳酒の知恵をお前に教える」
ユーリアは膝に置いた手を軽く握った。
「お前は、我らにお前の世界の料理の知識を教える」
「……!」
「対等な交換だ。それなら族としても納得できる」
わたしは深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「ボガート」
「……」
「異存はないな」
ボガートは粥をもう一口すくった。
飲み込んで、長く息を吐く。
「姉さんが決めたなら、従う」
ボガートがようやくわたしを見た。
警戒はまだ残っている。
それでも、最初に向けられた刃のような視線ではない。
* * *
午後、ユーリア族長は、わたしを自分のゲルへ招いた。
ユーリアのゲルは、他のものよりずっと大きい。
壁では鹿の頭骨の下に剣が鈍く光り、傍らには古い楽器が吊られていた。
中央には厚い毛織の絨毯が敷かれている。
「リーゼ」
「はい」
「お前さん、何故、料理人になった?」
ユーリアは絨毯の上に腰を下ろして聞いた。
わたしも隣に座る。
「魔力ゼロで生まれたからです」
「魔力ゼロ……」
「魔法が使えませんでした。聖女試験にも落ちました。料理しか、できることがありませんでした」
「ふん。魔力ゼロは災いか、と言われたな」
「ええ。災い扱いされて、家からも追い出されました」
「だが、今は」
「今は——魔力ゼロが、わたしの力です」
わたしはユーリアの目を見た。
「魔力に頼らず、食材の本質と向き合う。その目を、わたしは得ました」
「ふん」
ユーリアが頷いた。
「我らの族にも、似た者がおる」
「え?」
「魔力で馬を呼び寄せる者。魔力で火を起こす者。便利だが——」
ユーリアは自分の掌を見下ろし、指を一度、握った。
「魔力に頼った者は、自分の手で馬を扱う術を忘れる」
「……」
「我らの族長は、代々、魔力を使わん。族の長は自分の手で馬を扱い、自分の手で料理を作り、自分の手で剣を握る、と決まっとる」
ユーリアがわたしを見る。
「お前さんの『魔力ゼロが力だ』という言葉。我らの族長の在り方と似とる」
わたしは深く頷いた。
「ユーリアさま」
「呼び方は、ユーリアでいい」
「ユーリア。あなたから、学べることがたくさんありそうです」
「ふん」
ユーリアが笑った。
「お前さんからも、学べることは山ほどありそうだ」




