【76】草原の風、白い天幕
ハーフェンシュタットを発って、六日目の朝。
馬車が最後の丘にかかった。車輪が石を噛み、車体がひとつ大きく揺れる。
次の瞬間、窓の外がぱっと開けた。
草原だった。
地平線まで草の海が続いていた。
風が走るたび、緑の穂先がざあっと腹を返す。空は青すぎて、海より遠く見えた。
「うわぁ……!」
アリアが窓枠に手をかけ、鼻先まで外へ出しそうになった。
「リーゼさま! 草原って、本当にこんなに広いんですね!」
「うん」
「海より広い、気がします」
「うん。わたしも、そう思った」
初めて見る光景に、しばらく声が出なかった。
ハーフェンシュタットの海は、青くて、平らだった。
草原は緑で、波のように揺れる。どちらも果てがないのに、触れた時の色も、匂いも、まるで違う。
肩の上で、ネルが目を細めた。
「百年ぶりだな」
「ネル、来たことが?」
「エルヴィンに連れられて、二度ほどな。あの男も、草原の食文化に興味を持っとった」
わたしは胸の奥まで風を吸い込んだ。
エルヴィン。
あの人も、ここを見たんだろうか。
この、緑の海を。
* * *
馬車が丘を下り、平原の道へ入った。
遠くに、白い点がいくつも見えた。
「天幕です」
御者の青年——フィンさんが交渉して雇った、現地の青年——が、手綱を握ったまま振り返った。
「ユーリア族の夏の野営地です。族は季節ごとに移動します」
「白い、丸い天幕ですね」
「ゲル、と呼んでいます。羊毛のフェルトで作ります。組み立ても解体も、半日あれば済みます」
わたしはゲルの並びを見つめた。
二十、三十——もっとあるかもしれない。
その数だけ家族がいる。
その数だけ、火と鍋がある。
胸が勝手に跳ねた。
あの白い丸屋根の下で、朝ごとの火が起きる。
まだ知らない鍋の匂いが、点の数だけある。
* * *
野営地の入口で、馬車が止まった。
ゲルの周りを子供たちが駆けていた。女性たちは膝の上の革袋を押し、男たちは馬の脚や鞍を見ている。
けれど、わたしたちの馬車に気づいたとたん、空気がきゅっと締まった。
子供たちは母親の背へ回り、男たちが馬車の方へ集まってくる。女性たちは革袋を揉む手を止めなかったが、視線だけはこちらに刺さっていた。
「殿下」
「ああ」
殿下が馬車から降りた。
わたしも続く。ソフィアさま、フィンさん、アリアも足を下ろした。
男たちの中から、年配の一人が前へ出てきた。
日に焼けた顔。長く編んだ髪。革の上着の襟元には、銀の留め金が光っている。
「外人。何の用だ」
短く、硬い声だった。
ソフィアさまが一歩前に出た。
「失礼します。わたしたち、ユーリア族長にお話があってまいりました」
「族長は忙しい」
「お時間は長く取りません。お取り次ぎいただけますか」
「お前たち、外国人だな」
男はわたしたちの服を、肩から裾まで量るように見た。
「貴族か、商人か、軍人か。どれだ」
ソフィアさまが、にこりと笑った。
「商人ではありません。料理を学ぶための、旅の一行です」
「料理?」
「はい」
「料理を、習いに来たのか」
「はい」
男はわたしたちを見回した。眉間の皺が、深くなる。
「外人が、草原の料理を習いに来る、と」
「はい」
「ふん」
男は振り返り、子供の一人に低い声で何か告げた。
子供は草を蹴って走り、奥のゲルに消えた。
しばらくして、子供が戻ってきた。
その後ろから、女性が歩いてくる。
ユーリア族長。
わたしはすぐに分かった。
他の女性たちとは、纏っている空気が違った。
歳は、三十代前半。
長く編んだ髪を肩に流し、革の上着を着て、刺繍のついたブーツで草を踏んでいる。首には、貝殻のネックレス。
顔立ちは——美しい、というより、強い。
草原の風で削られたような頬と、こちらの嘘を見逃さない目をしていた。
「外人」
ユーリアが立ち止まった。
「わたしの族の料理を習いたい、と」
「はい」
「何故」
わたしは深く頭を下げた。
「リーゼ・ヴァイスフェルトと申します。帝都から参りました。料理人です」
「リーゼ」
ユーリアは、舌の上で確かめるように、わたしの名前を繰り返した。
「料理人なら、自分の料理を磨けばよかろう。何故、わたしの族の料理を欲しがる」
「あなたの族の料理には——わたしの料理にない知恵があります」
「我らの知恵は、外人に教えるものではない」
ユーリアの言葉は、刃物の背みたいに硬かった。
「我らの族は、何百年もこの草原で生きてきた。その知恵は族の財産だ。外人が簡単に奪えると思うな」
「奪う気はありません」
「では、何だ」
「学ばせていただきたいのです。あなたの族の知恵を——」
乾いた草が、靴の下で鳴った。
わたしは膝を折り、緑の地面に両手をついた。
「いつか、別の誰か、必要としている人に届けるためです」
「リーゼ!」
ソフィアさまがわたしを止めようとした。
けれど、ここで止まれば、さっきの言葉が嘘になる。
「あなたが今日、わたしを追い返してもいい。それがあなたの族の意思なら、従います。でも——一度だけ、聞いてください。わたしの料理を、一度だけ食べてください」
草原の風が髪をさらい、額に冷たい影を作った。
「それで、わたしの目的が嘘ではないと思ってくださったら——その時、あなたの族の料理を教えてください」
ユーリアは長いこと、わたしを見ていた。
口元は動かない。
目だけが、わたしの奥を探るように沈んでいる。
肩のネルが、ぽつりと言った。
「外人のガキが、土下座しとるぞ。族長」
「使い魔」
ユーリアの目がネルに移った。
「お前、古いな」
「百年は生きとる」
「ふん」
ユーリアが短く息を吐いた。
「外人の使い魔がこれほど古いのは——主が面白い人間か、危険な人間か。どちらかだ」
「主は——面白い、と思うが」
「ふん」
ユーリアは、草に手をついたままのわたしを見下ろした。
「立ちなさい、リーゼ」
わたしは膝についた草を払い、立ち上がった。
「客人として受け入れる。一晩だけ」
「ありがとうございます」
「明朝、お前の料理を食べる。それで、わたしが判断する」
「はい」
「ゲルを用意させる。荷を運び込みなさい」
ユーリアは振り返り、族員たちへ短く命じた。
子供たちは、母親の腕の隙間からわたしを見ている。
大人たちの目は、まだ警戒を解いていなかった。
* * *
用意されたゲルの中は、外から見た丸さよりずっと落ち着く場所だった。
円形のフェルトの壁が風をやわらげ、中央の木の柱が天井を支えている。その上の円い天窓から、切り抜いたような空が見えた。
足元には厚い毛織の絨毯。壁には革の鞍と、楽器のようなものが掛かっていた。奥には銅製の中央炉があり、灰の奥にまだ赤い火が残っている。
羊毛と革、燃える木の煙。発酵した乳の甘酸っぱさが、その奥でゆっくり漂っていた。
「リーゼさま、ここ、すごいですね!」
アリアがゲルの中でくるりと回り、天窓を見上げた。
「初めて見ました、ゲル!」
「うん。すごいね」
わたしも、指先で絨毯の毛を撫でながら頷いた。
ソフィアさまが地面に座った。
「リーゼ、明朝の料理、何を作るの?」
「考え中です」
「考えるなら急いで」
「はい」
わたしはゲルの中を見回した。
ユーリアの族の食材を、まだ知らない。
市場や台所を見て回らないと、判断できない。
「ソフィアさま、フィンさん、アリア——一緒に野営地を回りませんか」
「もちろん」
「外人として警戒されるかもしれません。慎重に」
「分かっとる」
* * *
午後、わたしたちは野営地を回った。
女性たちは、革袋を揉み続けていた。
腕で抱え込み、膝で押さえ、拳で何度も押す。そのたびに、甘酸っぱい独特の匂いが革の口から漏れる。
「あれは、何でしょう」
「馬乳酒の仕込みでしょう」
御者の青年が教えてくれた。
「革袋に馬の乳を入れて、毎日揉み続けます。揉むことで、乳酸菌の発酵が進みます」
「馬乳酒……」
わたしは舌にまだない味を、頭の中で組み立てた。
馬乳はラクトースが多い。乳酸菌がそれを分解して乳酸を生み、同時に酵母菌も働いて、わずかなアルコールを作る。
……前世でいう、クミス。
モンゴルや中央アジアの、伝統的な発酵乳製品。
「いい」
わたしは頷いた。
「これは、絶対に見たい知恵だ」
* * *
別のゲルでは、女性が革の袋を開け、白い塊を取り出していた。
チーズだ。
けれど、わたしの知っているチーズとは違う。固く乾いていて、鼻の奥に酸っぱさが残る。
女性はわたしを見ると身構えた。
その視線が、隣のアリアで止まる。頬の力が、少し抜けた。
「お子さんですね」
「あ、はい! わたしです!」
アリアが胸に手を当てて答えた。
「お母さんと、旅を?」
「先生と、です! 先生はリーゼさまっていって、料理の——」
「アリア」
わたしは慌てて止めた。
女性の警戒を刺激したくなかった。
でも、女性は笑った。
「子供は、嘘をつかんね」
女性が、白い塊を手のひらに乗せて見せた。
「これは、アロル。乾燥チーズ。冬の保存食」
「すごい」
わたしは、女性の手にある白い塊を見つめた。
その表面が——
息が止まった。
光っていた。
淡い。けれど、確かに金色の光だった。
肩のネルが目を見開いた。
「リーゼ。あれ——」
「はい」
「ロレンツォの樽より淡いが、間違いない」
無意識のエッセンス。
草原にも、ある。
背筋の奥が、ひやりと熱くなった。
この族の中に、ユーリア族長を含めて、何人かは——間違いなく、無意識にエッセンスを使っている。
* * *
夕方、ゲルに戻って、わたしは明朝の料理を決めた。
「ソフィアさま、明朝、馬乳酒を少しだけ分けてもらえますか」
「料理に使うの?」
「はい。族の馬乳酒と、わたしの帝都の食材を組み合わせます」
「面白いわね」
「相手の誇りに触れるなら、こちらの手も見せます。それが、明朝のお返しです」
ソフィアさまが、にこりと笑った。
「あなた、商人になっても成功するわよ」
「料理人でいいです」
わたしはノートを開き、膝の上で紙を押さえた。
明朝の器には、馬乳酒のリゾット風お粥。
仕上げに乾燥チーズをすりおろし、香草で爽やかさを足す。
最後の点を、鉛筆の先で強めに打った。
……勝負だ。




