【89】合作の一皿
病んだ熊の一件のあと、ハンスさんの沈黙の質が少し変わった。
それまでも「教える」とは言ってくれていた。ただ、踏み込ませない線があった。必要なことを短く投げ、火加減を見るように黙る。その人が、熊の調査のあとから——わたしを隣に立つ者として扱いはじめた。
「リーゼ。今日は、合作をやる」
「合作?」
「お前の料理と、わしの燻製を、一つの皿にする」
胸の奥で、小さく何かが鳴った。
「いいんですか」
「お前の鼻は信用できる。薪の煙を嗅ぎ分けた時に分かった。お前なら、わしの燻製肉を殺さずに使える」
ハンスさんは燻製小屋へ入り、布に包んだ肉を三つ抱えて戻ってきた。
鹿の腿肉(ブナの煙で二週間)。
兎の背肉(サクラの煙で五日)。
猪の脂身(ナラの煙で一ヶ月)。
「三つを使え。お前の知恵で、一皿にまとめろ」
三つの肉から、別々の煙の匂いが立つ。手を近づけると、鹿は赤身の奥に深い木の香りを沈ませていた。これは皿の芯になる。兎は甘いサクラが軽く、強く火を入れれば消えてしまう。猪の脂身は、ナラの煙を抱き込んで重い。鍋底でほどけば、出汁になる。
「猪の脂身を出汁に使います。薄く切って弱火で溶かして、煙の旨味をスープへ移します」
「ふん」
「鹿肉は厚めに。表面だけ炙ります。中の燻製は残して、外だけ香ばしく」
「……なるほど」
「兎肉は裂いて、最後に散らします。サクラの甘さを、上からふわっと」
ハンスさんが腕を組む。顎だけで鍋を示した。
「やってみろ」
わたしは鍋を火にかけた。
猪の脂身を薄く削ぎ、鍋底に並べる。弱い火を当てると、白い脂が端から汗をかき、じりじりと透き通っていった。木の皮を焦がしたような匂いが、脂の甘さに混ざって上がる。
山の湧き水を注ぐ。鍋の中が淡く白く濁ったところへ、乾燥茸を指で砕いて落とした。茸の旨味が脂を受け止める。理屈で言えば、グルタミン酸とイノシン酸。けれど今は、匙の先に絡む濃さで見るほうが早い。
鹿肉は暖炉の直火へ近づけた。脂がはぜ、じゅう、と短く鳴る。赤茶の表面に褐色の焼き目が走り、香ばしさが鼻を刺した。中は燻製の色を残したまま、熱だけを少し入れる。
兎肉は手で細く裂いた。繊維がほぐれるたび、サクラの煙の甘い香りが指先に移る。
器にスープを張る。鹿肉を中央へ置き、兎肉を周りに落とした。仕上げに、山のハーブを一葉。緑が煙の色の中で、きりっと立った。
「できました」
器をハンスさんの前へ差し出す。
ハンスさんは湯気を嗅いだ。眉間がかすかに動く。それから匙でスープをすくい、一口含んだ。
手が止まった。
ロレンツォさんの時とも、ユーリアの時とも違う。しばらく、小屋の火の爆ぜる音だけが残った。
ハンスさんは目を閉じた。
もう一匙。鹿肉を噛む。兎肉を少しのせ、また口に運ぶ。
器は、気づけば空になっていた。ハンスさんは底を見てから、ことりとテーブルに置いた。
「……お前」
「はい」
「わしの燻製を、こんなふうに使った人間は、初めてだ」
「ハンスさん——」
「親父でも、こうはしなかった」
顔を上げたハンスさんの目が、まっすぐこちらを捉える。驚きがあり、敬意があり、その奥に、火の陰みたいな寂しさが残っていた。
「燻製は、保存食だ。長く持たせるための技だ。だが——お前は、保存食を料理にし直した。煙の味を、飾りじゃなく、味の一部として扱った」
「はい。燻製は保存だけじゃなくて、それ自体が独立した味の体系だと——」
「そんな難しい言い方はいい」
ハンスさんの口角が、わずかに上がった。
「美味かった。それで十分だ」
返事をしようとして、息だけが熱くなった。
寡黙な猟師の「美味かった」。そのひと言は、ロレンツォさんの怒鳴り声や、ユーリアの笑顔と同じくらい、重かった。
* * *
夕食には、合作の一皿を皆で分けた。
殿下は一口含むなり、匙を止めて目を閉じた。
「——深い。煙が、層になっている。三種類の、違う深さの煙が、一つに」
以前の殿下なら、味の強さに身を固くしたかもしれない。今は湯気の向こうで、口の中の変化を追い、言葉を探している。
「殿下、ありがとうございます」
「リーゼの料理と、ハンスの燻製が合わさると——こうなるのか」
「合作です」
「ああ」
殿下は、もう一口スープをすくった。
「一人の力では、生まれない味だな」
わたしは、椀の縁を両手で包んで頷いた。
港の魚醤も、草原の馬乳酒も、山の燻製も、誰かの手と土地をくぐって、わたしの鍋に届いた。旅のあいだ、わたしはそれを何度も受け取ってきたのだ。
エッセンスは、わたし一人の中に閉じているものではない。
人と人の間で、火が移るように育つものなのだ。
* * *
夜、暖炉の火が落ちかけたころ、ハンスさんがぽつりと言った。
「リーゼ。お前は、エッセンスを——本に書くと言ったな」
「はい」
「今日の一皿を、本にどう書く」
「三種の燻煙を用いた合作スープ——とか」
「違う」
ハンスさんは即座に首を振った。
「それじゃ、技術しか伝わらん」
「……」
「今日のスープは、わしの三代分の技と、お前の旅の経験が、一つの器に入ったものだ。技術だけ書いても、それは伝わらない」
ハンスさんは火へ目を戻す。薪が崩れ、赤い芯をのぞかせた。
「心を書け。技術は後からついてくる」
わたしはノートを膝に置いたまま、しばらく鉛筆を握っていた。
心を書く。
料理の本に、心を書く。
前世の食品科学者だった自分なら、きっと欄外へ追いやった言葉だ。再現性。客観性。数値。条件。それらを揃えるために、心は邪魔な揺らぎとして扱われる。
でも、この世界の料理は、火をつける前に人がいる。受け継ぐ手があって、食べる顔があって、そこへ技術が追いついてくる。
「ハンスさん。教えてくれて、ありがとうございます」
「ふん」
「明日は、何を?」
「保存食の仕込みだ。冬が来る前に、やっておくことがある」
ハンスさんは立ち上がり、寝床へ向かった。
暖炉の火が、小屋の中を赤く染める。
窓の外では、北風が鳴っていた。




