【73】公開仕込みの夜
「許可しない」
殿下の返事は、刃で切ったように早かった。
「殿下」
「ヴィクトルを呼ぶのは危険すぎる」
宿の応接室は、潮の湿り気を含んでいた。
わたしと殿下は、テーブルを挟んで向き合っている。ネルは卓上でしっぽの先だけを左右に振り、爪をかつ、と鳴らした。
「殿下、わたしは——」
「あいつは敵国の間者だ。ほぼ確定している」
「はい」
「敵国の間者を、お前の傍にわざわざ呼ぶ。自殺行為だ」
殿下の目は、いつもよりずっと険しい。眉間に刻まれた皺まで、剣の筋に見えた。
「殿下」
わたしは両手を膝の上で握り直し、息を吸った。
「わたしは、料理人です」
「知っている」
「料理人は、お客さまの素性で、料理を出すか出さないかを決めません」
殿下の唇が閉じた。
「敵国の間者でも、お腹は空きます。食べたい味もあります。料理を口に入れた瞬間だけでも、誰かを撃つ段取りを、忘れるかもしれません」
「リーゼ」
「殿下、わたしは闘いに行くつもりはありません。鍋を火にかけて、皿を出すだけです」
「料理が武器になり得る」
「武器ではなく、盾です」
わたしは、殿下の目から逃げなかった。
「ロレンツォさんも、町の漁師たちも、東港組合の若い人も、ヴィクトルさんも。同じ食卓に座ります。わたしの料理は、その食卓を繋ぎます」
「……」
「もしヴィクトルさんが本当に悪意ある間者なら、食べた瞬間に迷いが生まれるかもしれません。それだけでもいいんです。一瞬でも、揺れれば」
殿下は、長く黙った。
沈黙のあいだに、窓の外で港の鎖が鳴った。
「お前は——」
「はい」
「俺の知らない領域で闘っている」
低い声だった。
「俺は剣で敵を制圧することしか知らん。お前は料理で、敵の心を揺らそうとしている」
「殿下」
「許可する」
殿下が顔を上げた。
「だが条件がある」
「はい」
「俺とフィンが同席する。お前の三歩以内の距離に、必ず誰かがいる。何かあれば即座に、お前を後ろに下げる」
「分かりました」
「もう一つ」
「はい」
「ヴィクトルが、お前に何かをしようとした瞬間——俺は剣を抜く。容赦しない」
殿下の目が、冷たく光った。
わたしは頷いた。
「お願いします、殿下」
殿下は肩の力を抜き、短く息を吐いた。
「お前は、いつか俺の心臓を止めるな」
「え?」
「いや。何でもない」
殿下は立ち上がった。椅子の脚が床をこすり、硬い音を立てた。
「明日、出る前にもう一度打ち合わせる」
「はい」
* * *
翌日の東港は、朝から人の声でざわついていた。
ロレンツォさんの仕込み小屋の前に、東港の漁師たちが十数人、集まっている。
潮と魚と、古い樽の匂いが混じる。若い漁師たちは腕を組み、互いの顔を横目でうかがっていた。
「じいさんが、誰にも教えてこなかった魚醤の仕込み、本当に見せてくれるのか?」
「あの娘っ子、何者だ? じいさんを説得したのか?」
「説得ぅ? 無理だろ。じいさんが勝手に腹を決めたんだよ」
漁師たちの輪の中に、ヴィクトルさんがいた。
他の漁師たちと距離を取りすぎず、近づきすぎず、足場の悪い砂利の上でも音を立てない。
……間者として訓練されている、と分かる動き方。
でも、その目は違った。
ヴィクトルさんは、わたしを見ていた。
驚いたような、まだ疑っているような目で。
まるで——「招待が本物だった」と、今になって確かめているみたいに。
わたしはヴィクトルさんに、軽く頭を下げた。
ヴィクトルさんは一拍遅れて、頭を下げ返した。
* * *
ロレンツォさんが、小屋の前に立った。
手の甲で白い髭を撫で、漁師たちをぐるりと見渡す。
「魚醤は、三つでできとる」
がらついた声なのに、波音の上を通った。
「塩、魚、樽。それだけだ」
漁師たちが、息を呑む。
「塩は魚に対して三割。少なくても多くてもいかん」
ロレンツォさんは、布袋から特別塩をひとつかみ出した。指の間で、白い粒がきらきら落ちる。
「この塩は北の村から仕入れとる。ミネラルが特殊なんだ。普通の海塩じゃ駄目だ」
「じいさん、なんでそれを今まで教えてくれんかったんだ」
若い漁師の一人が、たまらず声を上げた。
「俺たち、何度も頼んだじゃないか」
「ふん」
ロレンツォさんは鼻を鳴らした。
「わしが、頭が固くなっとった」
「……」
「先生は、わしにこれを伝授した時、こう言うとった、と曾じいさんは書いとる。『一人の家に閉じ込めるな。村に開け』」
ロレンツォさんは、わたしを見る。
「わしは、それを忘れとった。お前さんに教えながら、思い出した」
漁師たちは顔を見合わせ、誰かが喉を鳴らした。
ロレンツォさんは塩を舐めさせ、魚の腹を見せ、樽の内側を叩かせた。
説明はぶっきらぼうだったが、手は迷わない。量り、揉み、詰め、空気を抜く。そのたびに、漁師たちの肩が前へ出る。
わたしは隅でノートを取っていた。
湿った紙に、ペン先が少し引っかかる。東港の古い時間が、ここで一つ動いた気がした。
漁師たちは、堰を切ったように質問を始めた。
「じいさん、俺の親父も毎朝、樽に話しかけとった! あれはなんだったんだ?」
「あれは、エッセンスだ」
ロレンツォさんはわたしを見た。
「リーゼ。お前さんが説明してくれ」
わたしは立ち上がった。
漁師たちの視線が、一斉にわたしへ集まる。潮で荒れた手、日に焼けた額、その全部がこちらを向いた。
ヴィクトルさんも見ていた。
まばたきも少なく、じっと。
わたしは深く息を吸い、話し始めた。
* * *
わたしは、エッセンスのことを話した。
魚をただの材料として扱わないこと。
塩を振る手、火を見る目、鍋を洗う指先まで、作る人の気持ちは料理に残ること。
無意識の手つきでも、何代も繰り返されれば、やがて力として立ち上がること。
マルタばあさんのスープに宿っていた光。
ロレンツォさんの樽で、百年生きてきた光。
漁師たちは、最初は眉をひそめていた。
それでも、誰も帰らなかった。
ロレンツォさんが百年の樽の蓋に手をかけ、ぎい、と開けた時——
漁師たちの喉から、声にならない息が漏れた。
「光っとる……」
「俺の目にも見える」
「父ちゃんが言うとったのは——これか」
ぽつぽつと声が上がる。
薄く、けれど確かに、樽の底から光が揺れていた。多くの漁師がそれを見ていた。
ヴィクトルさんも見ていた。
表情は人の肩に隠れて、わたしからはよく見えない。
でも、椀を持つ前の彼の手が、かすかに震えたのは分かった。
* * *
仕込みのデモンストレーションの後、わたしは皆のために料理を作った。
今朝の漁の魚で、海のスープ。
フリュスクレープスの殻を砕き、白身魚の身をほぐし、シュヴァルツムッシェルを鍋に落とす。
仕上げに、ロレンツォさんの百年の樽の魚醤を数滴。
大鍋で煮込んだスープを、漁師たち全員の椀へよそった。
椀の縁から湯気が立ち、潮の匂いより濃い出汁の香りが小屋の前に広がる。
漁師たちは椀を受け取り、一口含んだ。
動きが止まった。
誰もしゃべらない。
ただ、食べていた。
木の匙が椀に当たり、温かいスープが喉を通る音だけが残った。
やがて、年配の漁師が椀から顔を上げた。
「……このスープは」
「はい」
「俺の——母さんの味だ」
その漁師の目に涙が滲んだ。
「俺の母さんは、二十年前に亡くなった。母さんが、よくこんなスープを作ってくれた。同じ味じゃない。だが——同じ温度だ」
他の漁師たちも、椀を握ったまま頷いた。
「俺も、思い出した」
「俺もだ」
「父ちゃんが夜遅く、漁から帰ってきた時、母さんが——」
湯気の向こうで、荒れたまぶたが赤くなっていた。
わたしは鍋の前で、息を吐くのに手間取った。
味は、ときどき乱暴なくらい過去へ手を伸ばす。
椀の湯気の向こうで、しまい込まれていた記憶がほどけていく。
* * *
ヴィクトルさんも、椀を持っていた。
彼はスープを一口飲んだきり、固まっている。
目を伏せ、長いこと椀の中の湯気を見つめていた。
わたしは、彼に近づいた。
「ヴィクトルさん」
彼は顔を上げた。
その目には、揺れがあった。
「お味は、いかがでしたか」
「……美味しい」
ヴィクトルさんは、落とすように言った。
「美味しい、です。とても」
声がかすれていた。
「ありがとうございます」
「リーゼさん」
「はい」
「あなたは——」
ヴィクトルさんは言葉を探し、唇を一度結んだ。
わたしの後ろで、殿下とフィンさんの気配が硬くなる。
「いえ。何でもありません」
ヴィクトルさんは首を振った。
「ご馳走さまでした」
彼は深々と頭を下げ、椀を返した。
それから他の漁師たちの背中に紛れ、人混みの中へ消えた。
肩のネルが、ぽつりと言った。
「あの男——揺れとる」
「はい」
「あいつの仕事に、ひびが入った。今日のスープで」
わたしは頷いた。
そこから先は、ヴィクトルさん自身のものだ。
空になった鍋の底に、薄い金色の脂が輪を作っていた。
* * *
漁師たちが帰った後、ロレンツォさんがわたしを呼んだ。
「リーゼ」
「はい」
「お前さんは——変な娘だ」
「はい」
「が、いい娘だ」
ロレンツォさんは、わたしの肩をぽんと叩いた。大きな手は塩と魚の匂いがした。
「曾じいさんも、わしも、これで肩の荷が下りた」
「ロレンツォさん」
「明日、もう一度来い」
「はい」
「最後の話をする」
ロレンツォさんは目を細めた。
疲れと安堵が、同じ皺の中に沈んでいた。
* * *
夜、宿の屋上。
殿下が、わたしと並んで海を見ていた。
昼の熱を残した石床の下で、宿が小さくきしむ。沖の灯りが、黒い水の上で滲んでいた。
「殿下、今日は——」
「お前は、すごかった」
殿下が、ぽつりと言った。
「漁師たちの目」
「はい」
「あの目は、戦士の目より強かった」
殿下は海を見つめていた。
「俺の剣ではできんことを、お前はする」
「殿下も、同じです」
わたしは殿下を見た。
「殿下が傍にいてくださるから、わたしはあの場で料理を作れます」
「……」
「ありがとうございます、殿下」
殿下は海を見つめたまま、低く言った。
「礼を言うのは、俺の方だ」
潮風が、二人の髪を揺らした。




