表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
73/191

【73】公開仕込みの夜

「許可しない」


 殿下の返事は、刃で切ったように早かった。


「殿下」


「ヴィクトルを呼ぶのは危険すぎる」


 宿の応接室は、潮の湿り気を含んでいた。

 わたしと殿下は、テーブルを挟んで向き合っている。ネルは卓上でしっぽの先だけを左右に振り、爪をかつ、と鳴らした。


「殿下、わたしは——」


「あいつは敵国の間者だ。ほぼ確定している」


「はい」


「敵国の間者を、お前の傍にわざわざ呼ぶ。自殺行為だ」


 殿下の目は、いつもよりずっと険しい。眉間に刻まれた皺まで、剣の筋に見えた。


「殿下」


 わたしは両手を膝の上で握り直し、息を吸った。


「わたしは、料理人です」


「知っている」


「料理人は、お客さまの素性で、料理を出すか出さないかを決めません」


 殿下の唇が閉じた。


「敵国の間者でも、お腹は空きます。食べたい味もあります。料理を口に入れた瞬間だけでも、誰かを撃つ段取りを、忘れるかもしれません」


「リーゼ」


「殿下、わたしは闘いに行くつもりはありません。鍋を火にかけて、皿を出すだけです」


「料理が武器になり得る」


「武器ではなく、盾です」


 わたしは、殿下の目から逃げなかった。


「ロレンツォさんも、町の漁師たちも、東港組合の若い人も、ヴィクトルさんも。同じ食卓に座ります。わたしの料理は、その食卓を繋ぎます」


「……」


「もしヴィクトルさんが本当に悪意ある間者なら、食べた瞬間に迷いが生まれるかもしれません。それだけでもいいんです。一瞬でも、揺れれば」


 殿下は、長く黙った。

 沈黙のあいだに、窓の外で港の鎖が鳴った。


「お前は——」


「はい」


「俺の知らない領域で闘っている」


 低い声だった。


「俺は剣で敵を制圧することしか知らん。お前は料理で、敵の心を揺らそうとしている」


「殿下」


「許可する」


 殿下が顔を上げた。


「だが条件がある」


「はい」


「俺とフィンが同席する。お前の三歩以内の距離に、必ず誰かがいる。何かあれば即座に、お前を後ろに下げる」


「分かりました」


「もう一つ」


「はい」


「ヴィクトルが、お前に何かをしようとした瞬間——俺は剣を抜く。容赦しない」


 殿下の目が、冷たく光った。


 わたしは頷いた。


「お願いします、殿下」


 殿下は肩の力を抜き、短く息を吐いた。


「お前は、いつか俺の心臓を止めるな」


「え?」


「いや。何でもない」


 殿下は立ち上がった。椅子の脚が床をこすり、硬い音を立てた。


「明日、出る前にもう一度打ち合わせる」


「はい」



 * * *



 翌日の東港は、朝から人の声でざわついていた。


 ロレンツォさんの仕込み小屋の前に、東港の漁師たちが十数人、集まっている。

 潮と魚と、古い樽の匂いが混じる。若い漁師たちは腕を組み、互いの顔を横目でうかがっていた。


「じいさんが、誰にも教えてこなかった魚醤の仕込み、本当に見せてくれるのか?」


「あの娘っ子、何者だ? じいさんを説得したのか?」


「説得ぅ? 無理だろ。じいさんが勝手に腹を決めたんだよ」


 漁師たちの輪の中に、ヴィクトルさんがいた。


 他の漁師たちと距離を取りすぎず、近づきすぎず、足場の悪い砂利の上でも音を立てない。

 ……間者として訓練されている、と分かる動き方。


 でも、その目は違った。


 ヴィクトルさんは、わたしを見ていた。

 驚いたような、まだ疑っているような目で。

 まるで——「招待が本物だった」と、今になって確かめているみたいに。


 わたしはヴィクトルさんに、軽く頭を下げた。


 ヴィクトルさんは一拍遅れて、頭を下げ返した。



 * * *



 ロレンツォさんが、小屋の前に立った。

 手の甲で白い髭を撫で、漁師たちをぐるりと見渡す。


「魚醤は、三つでできとる」


 がらついた声なのに、波音の上を通った。


「塩、魚、樽。それだけだ」


 漁師たちが、息を呑む。


「塩は魚に対して三割。少なくても多くてもいかん」


 ロレンツォさんは、布袋から特別塩をひとつかみ出した。指の間で、白い粒がきらきら落ちる。


「この塩は北の村から仕入れとる。ミネラルが特殊なんだ。普通の海塩じゃ駄目だ」


「じいさん、なんでそれを今まで教えてくれんかったんだ」


 若い漁師の一人が、たまらず声を上げた。


「俺たち、何度も頼んだじゃないか」


「ふん」


 ロレンツォさんは鼻を鳴らした。


「わしが、頭が固くなっとった」


「……」


「先生は、わしにこれを伝授した時、こう言うとった、と曾じいさんは書いとる。『一人の家に閉じ込めるな。村に開け』」


 ロレンツォさんは、わたしを見る。


「わしは、それを忘れとった。お前さんに教えながら、思い出した」


 漁師たちは顔を見合わせ、誰かが喉を鳴らした。


 ロレンツォさんは塩を舐めさせ、魚の腹を見せ、樽の内側を叩かせた。

 説明はぶっきらぼうだったが、手は迷わない。量り、揉み、詰め、空気を抜く。そのたびに、漁師たちの肩が前へ出る。


 わたしは隅でノートを取っていた。

 湿った紙に、ペン先が少し引っかかる。東港の古い時間が、ここで一つ動いた気がした。


 漁師たちは、堰を切ったように質問を始めた。


「じいさん、俺の親父も毎朝、樽に話しかけとった! あれはなんだったんだ?」


「あれは、エッセンスだ」


 ロレンツォさんはわたしを見た。


「リーゼ。お前さんが説明してくれ」


 わたしは立ち上がった。

 漁師たちの視線が、一斉にわたしへ集まる。潮で荒れた手、日に焼けた額、その全部がこちらを向いた。


 ヴィクトルさんも見ていた。

 まばたきも少なく、じっと。


 わたしは深く息を吸い、話し始めた。



 * * *



 わたしは、エッセンスのことを話した。


 魚をただの材料として扱わないこと。

 塩を振る手、火を見る目、鍋を洗う指先まで、作る人の気持ちは料理に残ること。

 無意識の手つきでも、何代も繰り返されれば、やがて力として立ち上がること。


 マルタばあさんのスープに宿っていた光。

 ロレンツォさんの樽で、百年生きてきた光。


 漁師たちは、最初は眉をひそめていた。

 それでも、誰も帰らなかった。


 ロレンツォさんが百年の樽の蓋に手をかけ、ぎい、と開けた時——


 漁師たちの喉から、声にならない息が漏れた。


「光っとる……」


「俺の目にも見える」


「父ちゃんが言うとったのは——これか」


 ぽつぽつと声が上がる。

 薄く、けれど確かに、樽の底から光が揺れていた。多くの漁師がそれを見ていた。


 ヴィクトルさんも見ていた。

 表情は人の肩に隠れて、わたしからはよく見えない。

 でも、椀を持つ前の彼の手が、かすかに震えたのは分かった。



 * * *



 仕込みのデモンストレーションの後、わたしは皆のために料理を作った。


 今朝の漁の魚で、海のスープ。

 フリュスクレープスの殻を砕き、白身魚の身をほぐし、シュヴァルツムッシェルを鍋に落とす。

 仕上げに、ロレンツォさんの百年の樽の魚醤を数滴。


 大鍋で煮込んだスープを、漁師たち全員の椀へよそった。

 椀の縁から湯気が立ち、潮の匂いより濃い出汁の香りが小屋の前に広がる。


 漁師たちは椀を受け取り、一口含んだ。


 動きが止まった。


 誰もしゃべらない。

 ただ、食べていた。

 木の匙が椀に当たり、温かいスープが喉を通る音だけが残った。


 やがて、年配の漁師が椀から顔を上げた。


「……このスープは」


「はい」


「俺の——母さんの味だ」


 その漁師の目に涙が滲んだ。


「俺の母さんは、二十年前に亡くなった。母さんが、よくこんなスープを作ってくれた。同じ味じゃない。だが——同じ温度だ」


 他の漁師たちも、椀を握ったまま頷いた。


「俺も、思い出した」


「俺もだ」


「父ちゃんが夜遅く、漁から帰ってきた時、母さんが——」


 湯気の向こうで、荒れたまぶたが赤くなっていた。


 わたしは鍋の前で、息を吐くのに手間取った。


 味は、ときどき乱暴なくらい過去へ手を伸ばす。

 椀の湯気の向こうで、しまい込まれていた記憶がほどけていく。



 * * *



 ヴィクトルさんも、椀を持っていた。


 彼はスープを一口飲んだきり、固まっている。

 目を伏せ、長いこと椀の中の湯気を見つめていた。


 わたしは、彼に近づいた。


「ヴィクトルさん」


 彼は顔を上げた。

 その目には、揺れがあった。


「お味は、いかがでしたか」


「……美味しい」


 ヴィクトルさんは、落とすように言った。


「美味しい、です。とても」


 声がかすれていた。


「ありがとうございます」


「リーゼさん」


「はい」


「あなたは——」


 ヴィクトルさんは言葉を探し、唇を一度結んだ。


 わたしの後ろで、殿下とフィンさんの気配が硬くなる。


「いえ。何でもありません」


 ヴィクトルさんは首を振った。


「ご馳走さまでした」


 彼は深々と頭を下げ、椀を返した。

 それから他の漁師たちの背中に紛れ、人混みの中へ消えた。


 肩のネルが、ぽつりと言った。


「あの男——揺れとる」


「はい」


「あいつの仕事に、ひびが入った。今日のスープで」


 わたしは頷いた。


 そこから先は、ヴィクトルさん自身のものだ。

 空になった鍋の底に、薄い金色の脂が輪を作っていた。



 * * *



 漁師たちが帰った後、ロレンツォさんがわたしを呼んだ。


「リーゼ」


「はい」


「お前さんは——変な娘だ」


「はい」


「が、いい娘だ」


 ロレンツォさんは、わたしの肩をぽんと叩いた。大きな手は塩と魚の匂いがした。


「曾じいさんも、わしも、これで肩の荷が下りた」


「ロレンツォさん」


「明日、もう一度来い」


「はい」


「最後の話をする」


 ロレンツォさんは目を細めた。

 疲れと安堵が、同じ皺の中に沈んでいた。



 * * *



 夜、宿の屋上。


 殿下が、わたしと並んで海を見ていた。

 昼の熱を残した石床の下で、宿が小さくきしむ。沖の灯りが、黒い水の上で滲んでいた。


「殿下、今日は——」


「お前は、すごかった」


 殿下が、ぽつりと言った。


「漁師たちの目」


「はい」


「あの目は、戦士の目より強かった」


 殿下は海を見つめていた。


「俺の剣ではできんことを、お前はする」


「殿下も、同じです」


 わたしは殿下を見た。


「殿下が傍にいてくださるから、わたしはあの場で料理を作れます」


「……」


「ありがとうございます、殿下」


 殿下は海を見つめたまま、低く言った。


「礼を言うのは、俺の方だ」


 潮風が、二人の髪を揺らした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ