【72】塩、魚、樽
「魚醤は、三つでできとる」
ロレンツォさんは、テーブルに手を伸ばし、布を一枚ずつはがした。
白く乾いた特別塩が、皿の縁できらりと光る。
今朝の網で揚がった青魚――イワシに似たザルディーネは、まだ腹に海の匂いを残していた。
新しい白木の樽からは、削ったばかりの木肌の甘い匂いが立つ。
「塩、魚、樽。それだけだ」
「……それだけ、ですか」
「それだけだ。余計なもんを入れると、樽がへそを曲げる」
ロレンツォさんは椅子を引き、ぎしりと腰を下ろした。
わたしも向かいに座る。膝の上で、まだ魚の脂が指先に残っていた。
「塩は、魚に対して三割」
「三割」
「三割を超えたら、しょっぱくて発酵が動かん。三割を切ったら、雑菌が勝って腐る。そこが塩の壁だ」
「壁……」
「いい菌は通す。悪い菌は止める。壁を作るのは、塩の量だ」
わたしは頭の中で、数字を並べ直した。
魚に対して三割の塩。塩分十八%。
……前世で知っていたナンプラーや魚醤の標準と、ぴたりと重なる。
四代の手と舌で、ここまで削り出してきた数値だった。
「魚は、何でもいいわけじゃない」
ロレンツォさんはザルディーネを一尾つまみ上げた。銀の腹が、ランプの明かりを細く返す。
「青魚に限る。脂が多すぎるやつは駄目だ。脂が酸化して、古くさくなる。白身魚も駄目だ。蛋白が単純で、底の味が出ん」
「青魚の複雑な蛋白質と、適度な脂……」
「お前さんの言葉だと、そうなるんだろうな」
ロレンツォさんは、口の端だけで笑った。
「漁師の言葉なら、こうだ。青魚は、海の苦労を知っとる魚だ。樽の中で、その苦労が味になる」
数字で聞くより、その言い方のほうが舌に残った。
科学的には、乱暴な言い方かもしれない。けれど、外れていない。
外洋を群れで泳ぐ青魚は、よく動く。筋肉に酵素を抱え、旨味になるものを複雑に溜める。
ロレンツォさんの言う「苦労」は、その運動と蓄積を、漁師の舌でつかまえた言葉だった。
科学と漁師の感覚が、別々の道から、同じ樽の前に来ている。
「樽は――」
ロレンツォさんは白木の胴を撫でた。節のところで、太い指が止まる。
「北の山の、トランバウムという木で作る。他の木じゃ駄目だ。年輪が細かい。細かいくせに、微生物の住みつく隙間がある」
「微生物が、住む……」
「樽が生きとる、ってことだ」
ロレンツォさんの目が、樽の内側を覗くように細くなった。
「先生は、こう言うとった、と曾じいさんはノートに書いとる」
革表紙のノートが開かれる。乾いた紙が、ぱり、と鳴った。
『樽は、住人のいる家である。住人を大切にすれば、樽は、よい料理を産む』
樽の中の微生物が、発酵を担う「住人」。
木の選び方ひとつで、その住み心地が変わる。
……エルヴィン。
あなたは本当に、前世の知識を持っていたんだろうか。
それとも、前世なんてなくても、ここまで歩いてきた人だったんだろうか。
「リーゼ」
「はい」
「また遠い顔をしとる」
「先生の――エルヴィンのすごさを、考えていました」
「ふん。考えるのは後だ」
ロレンツォさんはノートを閉じ、樽の縁を指で叩いた。
「始めるぞ」
* * *
仕込みの工程は、静かで、手元だけが忙しかった。
魚を一尾ずつ取り、塩で軽く拭う。銀の鱗が手のひらに冷たく、塩の粒が腹のぬめりをさらっていく。
内臓は、さっきわたしが処理したものを使う。
頭は別の樽に回す。そこからは、また違う旨味が出るらしい。
樽の底に特別塩を薄く撒く。指の間から落とすと、白い砂のように木肌へ広がった。
その上へ魚を並べる。腹を押し、尾を寄せ、頭の向きを一尾ずつ替える。
魚が落ち着いたら、また塩をかぶせる。
塩、魚、塩。
層が重なって、樽の底から湿った匂いが上がってくる。
「リーゼ。雑だ」
「あ、すみません」
「ここだ。魚と魚の間に隙間がある。空気が残ると酸化して、不味くなる」
「もっと詰めます」
「それと、頭を同じ向きに揃えるな。樽の中の流れが偏る。一尾置きに、反対へ振れ」
「……はい!」
わたしは並べた魚を外し、塩で濡れた指を拭って、やり直した。
ロレンツォさんは腕を組み、黙って見ている。
じっと見ているのに、不思議と刺さらない。火加減を見る鍋番の目に近かった。
誰かの目の前で、手を動かす。
間違えたところを、その場で直される。
悔しいのに、腹の底がむずむずするほど楽しい。
「ロレンツォさん」
「ん?」
「これ、楽しいです」
「楽しい?」
「はい。教わるの、楽しいです」
ロレンツォさんは、ふん、と鼻を鳴らした。
それから樽の端を爪でこすり、聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「教えるのも、悪くない」
わたしは樽に向かって、笑った。
* * *
最後の塩を敷き終え、樽の蓋を軽く乗せた。
まだ完全には閉めない。
最初の数日は、わずかに空気を通し、表面の余分な水分を飛ばす。
「これで二日寝かせる」
「はい」
「二日後に蓋を本締めする。それから一年、待つ」
「一年!」
「短いほうだ。深い味は三年待つ」
胸の中で、時間がどんと重くなった。
一年。三年。
料理なのに、畑よりも気が長い。
「リーゼ」
「はい」
「樽は、待つ場所だ」
ロレンツォさんは、蓋に置いた自分の手を見下ろした。
「漁師は海で魚を待つ。職人は樽の前で味を待つ。いちばん難しいのは、待つことだ」
「待つ……」
「お前さんは若い。待てん時もあるだろう。だが、待つ術を覚えろ。料理人にはいる」
わたしは樽の蓋に手を置いた。
白木はまだ冷たい。でも、その下に魚と塩と、見えない住人たちがいる。
何百年もの漁師たちの、待つ時間。
その重さが、木を通って手のひらに移ってくる気がした。
「ロレンツォさん」
「ん?」
「わたし、いつか、もう一度ここに来てもいいですか」
「来い」
即答だった。
「お前さんが仕込んだ、この樽の蓋を開けに来い。一年後でも、二年後でも、三年後でもいい」
「……はい」
「その時、お前さんは、もっと料理人になっとるだろう。樽が、お前さんを試す」
わたしは樽の前で頷いた。
九番目の樽。
わたしが自分の手で仕込んだ、最初の樽。
いつか、蓋を開けに戻ってくる。
* * *
仕込みを終えて小屋を出ようとした時、ロレンツォさんに呼び止められた。
「リーゼ」
「はい」
「お前さん、明日、町の漁師たちを集めてくれんか」
「町の漁師?」
「東港の、若いやつらだ」
ロレンツォさんは、顎の髭を指でしごいた。目は樽の方へ逃げている。
「最近、わしは頭が固くなりすぎとった。誰にも技を教えとらんかった。若い連中に、見せといた方がいい技がある。そう……お前さんに教えとって、思った」
「……ロレンツォさん」
「お前さんに教えるなら、町の若いやつにも教えるべきだ。でないと、お前さんに不公平だろう」
唇の内側を、ぐっと噛んだ。
熱が目頭まで上がってくる。
「分かりました。明日、わたしが声をかけて回ります」
「ふん」
「ロレンツォさん」
「ん?」
「ありがとうございます」
ロレンツォさんは、そっぽを向いた。
「ふん。早く行け」
わたしは深く頭を下げ、小屋を出た。
扉を閉める寸前、ロレンツォさんが自分の樽へ、ぼそりと話しかける声が聞こえた。
『今日は、変わった日だったな』。
樽が、きっと答えた。
誰にも聞こえない、樽の言葉で。
* * *
宿に戻ると、ソフィアさまが待っていた。
卓上の紅茶は、ほとんど冷めている。
「リーゼ。ヴィクトルのことで、新しい情報があるわ」
「はい」
「彼、毎日、鳩を飛ばしているの」
「鳩?」
「伝書鳩よ。北へ。一日に一回、必ず」
背筋に、冷たいものが走った。
「報告書を、誰かに送っているということですか」
「そう。北方向の、特定の地点に」
「北は――」
「帝国北端を超えて、ゼルギウス領の方角」
ソフィアさまの声は淡々としていた。
だから余計に、言葉の重さが落ちた。
「殿下に報告します」
「すでにフィンに伝えてあるわ」
わたしは息を吐いた。胸の奥はまだ固い。
ヴィクトル。
敵国の間者——そう見て、もう間違いはない。
それでも、あの人の目だけが引っかかった。
わたしに選べる手は、まだ残っている。
「ソフィアさま」
「何?」
「明日、町の漁師全員をロレンツォさんの小屋に集めることになりました。仕込みの公開講習です」
「……あなた、何を考えてるの」
「ヴィクトルさんも、招待します」
ソフィアさまの目が、ぱっと見開かれた。
「リーゼ」
「はい」
「あなた、危ないことを考えてない?」
「危なくはないです。ただ――」
わたしは紅茶のカップを握った。冷えた陶器が、手の熱を吸っていく。
「あの人にも、料理を食べてもらいたいんです。仕込みを見てもらいたい」
「目的は?」
「分かりません」
そこは、嘘をつけなかった。
「でも、あの人の目がずっと引っかかっています。間者の目だけじゃない。別のものを、抱えている気がします」
「リーゼ」
「料理人ですから」
わたしは、なんとか笑った。
「お客さまの顔は、よく見ます」
ソフィアさまは長いこと、わたしを見ていた。
逃がしてくれない目だった。
やがて、ぽつりと言う。
「殿下に許可を取りなさい」
「はい」
「断られても、知らない」
「殿下なら、最終的には許可してくださると思います」
「あなた、最近、殿下のこと、よく分かるようになってきたわね」
耳が熱くなった。
ソフィアさまが、にやりと笑った。




