【71】旅商人ヴィクトル
午前の東港市場は、魚の脂と潮の匂いでむんとしていた。
木箱を担いだ男たちが肩で人波を割り、桶の中では銀の腹が水を跳ねる。競り声、包丁がまな板を叩く音、焼き魚の煙。あちこちから湯気まで立って、朝なのにもう厨房の奥みたいだった。
ロレンツォさんには、「今日は仕込みの仕事を覚える前に、市場を見ろ」と言われている。
魚醤に使う魚は、市場の流れを知らないと、よいものを選べない。そういう意味だ。
わたしはアリアと並んで、東港の市場を歩いた。
殿下とフィンさんは少し離れ、護衛の距離を崩さない。ソフィアさまは自分の調査で別行動だ。
「リーゼさま、これって何ですか?」
アリアが、屋台に並んだ魚を指した。
長細くて銀色で、抜き身の刀みたいに光っている。
「タチウオに似てる……ザーベルフィッシュかな」
「タチウオ……?」
「前世の魚。わたしの故郷で、刀みたいに長くて細い魚を、そう呼んでた」
「リーゼさまの故郷の話、もっと聞きたいです」
「いつかね。市場の真ん中で話すことじゃないから」
アリアは頬をふくらませた。
最近のアリアは、わたしの「前世」のことを隠しきれないほど気にしている。笑って流すたび、小骨みたいなものが胸に残った。
ちゃんと話す日を、先延ばしにしすぎている。
屋台のおじさんが、魚を布で拭きながらアリアを見た。
「お嬢ちゃん、その魚、初めて見るかい?」
「はい!」
「ザーベルフィッシュは、塩焼きが一番だ。骨が柔らかいから、丸ごと食える」
「リーゼさま、買いますか?」
「うん、二尾もらおう」
わたしが財布に手を伸ばした、その時——
「失礼。よろしいですか」
声が割り込んだ。
振り返ると、背の高い青年が人波の切れ目に立っていた。
歳は二十代半ばくらい。
黒髪を後ろで一つに束ね、緑色の旅装束を着ている。左肩には革袋、腰には短剣。どちらも旅商人なら珍しくない。珍しくない、はずだった。
顔立ちは整っている。
愛想もある。
なのに目だけが、冷めていた。
「あ、はい?」
「すみません。お嬢さんの会話が耳に入りまして」
青年はにこやかに頭を下げた。丁寧な仕草なのに、声だけ妙に乾いていた。
「『ザーベルフィッシュ』を、別の名前でも呼んでおられるようでしたが、それは——どこの呼び名ですか? わたくしも、各地の食文化に興味がありまして」
背筋が、ぴくりと震えた。
市場で、見ず知らずの人にいきなり聞く話じゃない。
魚ではなく、わたしの言葉のほうを拾っている。
「あの……すみません。古い文献で、似た魚を別の名で呼んでいた、というだけの話です。地方の方言かもしれません」
口角だけは上げた。声が硬くならないよう、息を一つ飲み込む。
「なるほど」
青年は頷いた。
納得した頷きではなかった。拾った小石を、あとで机の上に並べる人の頷きだ。
「申し遅れました。わたくし、ヴィクトルと申します。各地を巡る旅商人をしております」
「リーゼです。リーゼ・ヴァイスフェルトと申します」
「お嬢さんは、料理に詳しい御方ですか?」
「料理が好きです」
「ハーフェンシュタットには、どのくらい滞在を?」
答える前に、一拍、喉が詰まった。
この人に、わたしたちの予定を教える必要はない。
「まだ未定です。次の目的地が決まり次第、出発します」
「次の目的地は——」
「未定です」
今度は、はっきり切った。
ヴィクトルさん——とりあえず、そう呼ぶしかない——は、にこやかに頷いた。
「失礼いたしました。立ち入ったことを聞いてしまいまして」
「いえ」
「実は、わたくしも近いうちに出発の予定でして。同じ方角でしたら、ご一緒できればと思ったまでです」
「……お気持ちだけ、ありがたく」
わたしは頭を下げた。
ヴィクトルさんは、もう一度丁寧に礼をして、人波を滑るように屋台の方へ歩いていった。
その背中を見送る。
肩のネルが、耳元で低く言った。
「あいつ、危ない」
「やっぱり」
「目が、商人の目じゃない」
振り返った。
いつの間にか、殿下がすぐ後ろに立っていた。
「殿下」
「あいつ、誰だ」
声が低い。市場のざわめきに沈むくらい低いのに、背中に届く。
「『ヴィクトル』と名乗りました。旅商人だと」
「商人ではないな」
殿下は視線だけで、ヴィクトルさんの歩き去った先を追った。
「肩の革袋に筆記用具、地図、折りたたんだ書状が入っとる。歩き方も違う。脚の筋肉が、荷運びの商人よりずっと強い」
「殿下、そんなことまで——」
「軍事訓練だ」
殿下は淡々と言った。
「暗殺者の動きではない。だが、間者。一番有り得るのは、それだ」
背筋に、冷たいものが走った。
「敵国の——?」
「分からん。だが、要警戒だ」
殿下は、ヴィクトルさんが消えた方角から目を離さない。
「リーゼ。市場では、二度と一人になるな。アリアか、フィンか、俺か——必ず誰かと一緒にいろ」
「はい」
「いいか」
「はい」
念押しは短かった。短いぶん、刃のように鋭かった。
* * *
昼には、宿の食堂の空気まで硬くなっていた。
わたしと殿下、ソフィアさま、フィンさん、アリアが卓を囲む。皿の上のパンはまだ温かいのに、誰も先に手を伸ばさない。
「ヴィクトル」
報告を聞いたソフィアさまの目が、すっと細くなった。
「ハーフェンシュタットの商人組合に、その名前は登録されていないわ」
「やはりか」
「正規の商人なら、町に入る時に組合への申請が必要よ。それを通していないなら、闇商人か、別の身分ね」
「殿下は、間者じゃないかと」
「同意するわ」
ソフィアさまは紙を引き寄せ、ペン先を走らせた。
「東港組合と西港組合の対立に、レーマンの動き。そこへ外部から来た、身元不明の『商人』でしょう。別々に見えるものが、どこかで噛み合っているかもしれない」
「ソフィアさま、調査をお願いしてもいいですか」
「もちろん。そのために、わたしがいるんでしょう」
その一言で、肩の力が少し抜けた。
わたしは深く頷いた。
「リーゼ」
殿下が口を開いた。
「魚醤の習得を急げ」
「え?」
「ヴィクトルが何者か、まだ分からん。だが奴の目的が、リーゼ——あるいはエッセンスの情報——なら、お前がここに長居するほど危険は増す」
「……はい」
「予定では、ハーフェンシュタットの滞在は、あと二週間だったな」
「はい」
「一週間で終わらせろ」
ロレンツォさんに、無理を言うことになる。
それでも、殿下の判断は的確だ。わたしは膝の上で指を組み、頷いた。
「分かりました」
「俺は引き続き警戒する」
殿下はフィンさんを見た。
「フィン、ヴィクトルの動向を追え」
「畏まりました」
フィンさんが頭を下げた。
いつものにこやかな顔の下で、別の表情が一瞬だけ覗く。研いだ刃みたいな目だった。
「アリア」
「はい!」
「お前は、市場で一人になるな。常に、リーゼかソフィアさまと一緒にいろ」
「はい!」
テーブルの下で、拳を握った。
魚の脂が残る指に、爪が食い込む。
目を逸らしている場合ではない。
この旅は、思っていたより深い水へ入っている。
* * *
午後、仕込み小屋に戻った。
ロレンツォさんはテーブルの前で、新しい樽を準備していた。
九つ目の樽だ。
白い木肌から、削りたての青い匂いがする。
「ロレンツォさん。今日、ヴィクトルという男に、市場で会いました」
「ヴィクトル?」
ロレンツォさんの手が止まった。樽の縁に当てていた刃物が、木屑を一筋ぶら下げる。
「ヘン魚を仕入れに来とる商人か。背の高い、黒髪の」
「あ、知ってるんですか」
「三日前から市場をうろうろしとる。買うものは少ない。全部の屋台を見て回って、漁師に話を聞いて、結局買うのはザーベルフィッシュ二尾と、塩を一袋。それだけだ」
商人にしては、確かに不自然だ。
「ロレンツォさん。あの人、何者だと思いますか」
「ふん」
ロレンツォさんは返事のかわりに、樽の縁を刃物で削った。乾いた木屑がくるりと丸まり、床に落ちる。
「商人なら、わしには分かる。三十年見とるんだ、市場の人間は。あいつは、商人じゃない」
「では、何でしょう」
「分からん。が、目だけは分かる」
ロレンツォさんが、わたしを見た。
「あいつの目は、お前さんの料理が出来上がるところを、ずっと見たがっとる目だ」
「……」
「気をつけろ、ガキ」
「はい」
ロレンツォさんは樽を手のひらで叩いた。こん、こん、と乾いた音が小屋に返る。
「魚醤の仕込みを、わしはできるだけ早くお前さんに教える」
「ロレンツォさん、それは——」
「必要ない、と言うな」
ロレンツォさんが、まっすぐわたしの目を見た。
「今、教える。一週間で、全部だ」
小屋の隅から、ロレンツォさんが小さな袋を持ってきた。
「中を見ろ」
袋の口を開ける。
中には、細かい白い結晶がぎっしり詰まっていた。
塩。
でも、市場で売られている塩より白く、粒が細かい。指先にのせると、粉雪みたいに肌へ吸いついた。
「これは……」
「特別な塩だ。岩塩でも海塩でもない。地下水を煮詰めて結晶化させた塩。海から少し離れた北の村で、年に一度だけ作られる」
「特別な、お塩」
「先生が、曾じいさんに教えた塩だ。わしの代まで、毎年、北の村から仕入れとる」
袋の中の塩を、指でつまむ。
舐めてみる。
最初に塩味が舌を刺した。
すぐ後から、丸い甘みと、かすかな苦みがほどける。角がないのに、輪郭は強い。
まるで、たくさんの星が舌の上で咲くような味。
「ミネラル組成が、独特ですね」
「ふん」
「マグネシウムとカリウムが、絶妙な比率で——」
「お前さんは、いつも難しい単語を使うな」
「あ、すみません」
「が」
ロレンツォさんは、口の端を緩めた。
「言うとることは、合っとる、と思う」
わたしはロレンツォさんの目を見た。
四代続いた職人の誇り。その奥で、誰かに技を渡せる嬉しさが、火種みたいに灯っていた。
「ロレンツォさん」
「ん?」
「教えてください。あなたの全部を」
「ふん」
ロレンツォさんは、塩の袋をわたしの手に握らせた。
「塩から始めるぞ」
* * *
夕暮れ、宿の屋上。
港の塀の影に、ヴィクトルがこちらを見ているのが見えた——気がした。
目を凝らしても、塀の影と荷車の暗がりが重なり、確かめようがなかった。
わたしは海に視線を戻す。
明日も、ロレンツォさんの小屋へ行く。
影を探すより、魚と塩と樽を見るしかない。
潮風が髪を乱した。唇に、昼に舐めた塩の味が戻る。
ネルが肩で低く言った。
「リーゼ。海風には、二種類ある」
「二種類?」
「優しい風と——何かを運ぶ風だ」
「今日は、どっちですか」
「……後者だ、たぶん」
わたしは海を見つめた。
肩のネルの爪が、服地をかすかに掴んでいた。




