【70】先生からの伝言
翌朝の漁を終え、潮でごわつく袖を気にしながら宿へ戻ると、ソフィアさまがロビーの窓際で待っていた。
「リーゼ。報告があるわ」
「はい」
わたしは手を拭き、ソフィアさまの向かいに腰を下ろした。
ソフィアさまは、畳んでいた紙を一枚、テーブルへ滑らせる。
港町ハーフェンシュタットの地図だった。商人と漁師の組合関係が、ソフィアさまの細い字と線でびっしり書き込まれている。
「東港組合と西港組合。思ったより、根が深い対立ね」
「はい」
「東港は、ロレンツォさんみたいな昔気質の漁師たちが中心。量で押すより、目利きと仕込みで食べさせる。土地の魚を、土地の味のまま守ろうとしている」
ソフィアさまの指先が、地図の東側をとん、と叩いた。
「西港は、新しく力を持った商人の組合よ。網にかかった分をどんどん金に替えて、帝都や外国へ箱ごと流すつもり。頭は、レーマンという男」
「レーマン……」
知らない名前なのに、舌に乗せただけで硬い響きが残った。
「ハーフェンシュタットいちの大商人。三十代後半、やり手ね。最近は東港組合への締めつけを強めているわ」
「締めつけって、具体的には?」
「ロレンツォさんのような独立の漁師に、漁獲枠を売れと迫っているらしいの。断れば、市場での販売ルートを細らせる、と」
胸の奥が、いやな音を立てた。
「ロレンツォさん、応じてないんですか」
「応じてない。だから、台所事情はかなり厳しいはずよ。市場へ流す口が減って、自家消費分くらいしか売れていない」
……ロレンツォさんの足の怪我。
貧しい食卓。
今朝の漁で獲れた魚も、いつもよりずっと少ない量しか市場に出していなかった。あれは、獲れなかったからではない。ロレンツォさんの売り口が、絞られているのだ。
「ソフィアさま。わたしたちが買い上げる、というのは——」
「考えたわ。でも、それでは一時しのぎ。根は残る」
ソフィアさまは、紙の端を押さえた。
「東港の漁師全体を支える、新しい売り口を作るのが筋ね。たとえば——」
「たとえば?」
「リーゼの教科書よ」
ソフィアさまが、にこり、と笑った。
「あなたが書いている『食材の本質』。その中で、ハーフェンシュタットの魚醤とフリュスクレープスを、はっきり推すの」
「……!」
「帝都の有力者にお披露目すれば、東港の魚醤に買い手がつく。レーマンの圧力に屈しない、別の流通ルートを作れる」
わたしは、ソフィアさまを見つめた。朝の潮気が、まだ指の間に残っている気がした。
「ソフィアさま、それは——」
「あなたのためにじゃないわ」
ソフィアさまは紅茶を一口飲み、カップを音もなく戻した。
「ハーフェンシュタットの食文化を守るためよ。結果として、あなたの教科書の信頼性も高まる。それだけ」
「……ありがとうございます」
「礼はいらないわ。わたしは、わたしの仕事をしているだけよ」
ソフィアさま。
わたしの侯爵令嬢の親友。
料理ではなく、政治と経済で、世界に包丁を入れる人。
「で、リーゼ」
「はい」
「ロレンツォさんに、この話、いつする?」
わたしは、膝の上で指を組んだ。
「魚醤を、最後まで教えてもらってからにします」
「なるほど」
「先に話したら——『余所者の銭で買うのか』って、絶対に断られます」
ソフィアさまが、ふっと笑った。
「あなた、よく人を見ているわ」
「皿の前の顔を見る癖がついていますから」
* * *
午後、わたしは仕込み小屋に戻った。
湿った木と魚醤の甘い匂いの奥で、ロレンツォさんがテーブルにノートを広げていた。
古い革表紙のノート。角は擦り切れ、文字はところどころ潮に食われたように薄い。
「ロレンツォさん、それは」
「曾じいさんのノートだ」
ロレンツォさんが、厚い指でページをめくった。紙が乾いた音を立てる。
「先生が、曾じいさんに教えた仕込み方が、ここに書いてある。わしは、こいつを暗記して覚えとる」
「……読ませていただいても?」
「読め」
ロレンツォさんが、ノートをわたしの前に置いた。
わたしは——息を呑んだ。
ノートには達筆で、けれど癖の強い文字が詰まっていた。
魚を切る順。塩の比率。寝かせる日数。仕込み月を選ぶための印。
そして——ノートの隅に、小さな書き込み。
『塩は海から。魚も海から。樽は森から。
三つが、ひとつになる時、エッセンスが生まれる』
……エッセンス。
その単語が、逃げ場なく、そこにあった。
「ロレンツォさん。この『エッセンス』という単語、ご存知でしたか?」
「ん? ああ、それか」
ロレンツォさんが、肩越しにノートを覗き込んだ。
「曾じいさんは、それを『先生の言葉』と呼んでおった。意味は、誰も知らんかった」
「……」
「お前さん、この言葉を知っとるのか」
「知っています」
わたしは、ノートの上からロレンツォさんを見た。
「百年前、禁忌とされた力の名前です。今は、帝国議会で一時的に解禁されています」
「禁忌?」
ロレンツォさんの目が、細くなった。
「先生は、禁忌の魔法使いだったのか」
「正確には、違います。エッセンスは魔法というより、食材の本質を引き出す力です。魔力ではなく、心と知識で発動します。だから、魔力ゼロのわたしにも使えます」
「ふん」
ロレンツォさんは、並んだ樽へ視線を流した。
「わしの樽からも、その光が出るって言うとったな」
「はい。あなたは、無意識にそれを使っています」
「気のせいだろう」
「気のせいじゃありません」
わたしは立ち上がり、百年の樽の前に立った。
「ロレンツォさん。あなたの仕込みには、技術だけでは届かないものがあります。樽の蓋に手をかける前、必ず声を落としますね。塩を打つ指の間合いも、乱れない」
わたしは、ノートの古い文字を見下ろした。
「曾じいさまからお父さまへ、お父さまからあなたへ——手の動きと一緒に伝わった『心の習慣』があります」
ロレンツォさんは、黙ってわたしを見ていた。
「それは——」
わたしは、ノートを指した。
「『塩は海から。魚も海から。樽は森から』——という、感謝の言葉です」
「……」
「曾じいさまは、毎朝、樽に向かってこの言葉を呟いていませんでしたか?」
「父さんも、呟いとった」
「ロレンツォさんも、呟いていますか?」
「……知らんうちにな」
ロレンツォさんが、まぶたを伏せた。
「子供の頃、父さんが樽に話しかけとったのが、頭に焼き付いとる。気がついたら、わしも同じことを呟いとった」
「それです」
わたしは、息を整えた。
「その言葉が四代分、樽に染みています。それが、光っています」
ロレンツォさんは、長いこと自分の樽を見ていた。
やがて、ぼそりと言った。
「……ばかばかしいな」
「ロレンツォさん」
「先生は、何のために、こんな面倒なことを四代もかけて、わしらにやらせとったんだ」
「四代後の誰かに、繋ぐためです」
「お前さんか」
「いいえ」
わたしは首を振った。
「これからの人たちです。あなたの曾孫の子供。マルタさんの娘さんの娘さん。この港町の、まだ生まれていない未来の漁師たちです」
ロレンツォさんは黙ったまま、樽の蓋に手を置いた。
しわだらけの、固い手。
その手のひらの下で、樽が——確かに、淡い金色を灯していた。
「リーゼ」
「はい」
「お前さんは、その『エッセンス』とやらを、誰でも使えるように本にすると言うとったな」
「はい。そのつもりです」
「ふん」
ロレンツォさんが、鼻から息を吐いた。
「なら——わしの樽の話も書け。書いていい」
「……!」
「曾じいさんは先生から教わった。父さんは曾じいさんから教わった。わしは父さんから教わった。次の代が誰になるかは知らん。が、お前さんが本に残せば——少なくとも、誰かが繋ぐかもしれん」
わたしは、目頭が熱くなるのをこらえた。
ロレンツォさんは、目を細める。
「だが、勘違いするなよ、ガキ」
「はい」
「わしの仕込み方をそのまま真似ても、本物にはならん。本物は、心が継いでこそだ。本に書くなら、心も書け」
「はい。書きます。心も、ちゃんと書きます」
「ふん」
* * *
夕方。
ネルが、樽の前に座っていた。
しっぽの先だけが、床を払っている。
「ネル」
「リーゼ」
ネルは、樽を見つめたまま言った。
「わしはな、エルヴィンが、自分が死んだ後の世界をどう想像しとったか、長いこと考えていた」
「……」
「あの男は、自分の名前が忘れられることを、何より望んどった。『エッセンスを発見した者』ではなく、『食を愛した名もない誰か』として記憶されたかった、と言うとった」
「ネル」
「だから、あの男は樽の話をしながら、自分の名前を伏せた」
ネルが、こちらを振り返った。
「だが、樽はここにある。技術も、心も、四代続いた」
「はい」
「ようやく、わしにも、エルヴィンの願いの形が見えてきた」
ネルが、樽の縁にしっぽの先を触れさせた。
「あの男は——名を残す気なんぞ、なかった。残したかったのは、種だ」
夕日が、樽に差し込んでいた。
褐色の液体の表面で、金色の光がひとつ、波紋のように揺れた。




