【69】魚醤の樽
翌朝、ロレンツォさんは魚の内臓を処理する手つきを、わたしの指先に叩き込んだ。
魚腹に刃を入れ、刃先を寝かせたり立てたりしながら、角度を見せてくれる。
苦玉を破らず胆嚢を抜く。腹膜を裂き過ぎない切れ目で開く。血とぬめりを残さず、鮮度を落とす前に次へ回す。
「内臓を破ると、苦みと臭みが身に移る。魚醤に使う魚は、内臓を破ったらおしまいだ」
「はい」
「指で拾え。包丁の先が内臓に当たる、その前の重さをな」
わたしはロレンツォさんの手つきを追って、何尾も捌いた。
最初の三尾は、苦玉を潰した。
黄緑の匂いがふっと立つたび、ロレンツォさんは眉も動かさず魚を取り上げ、別の籠へ放った。
四尾目、五尾目、六尾目——刃の入り方が、やっと指に残りはじめた。
包丁の先が内臓の境目を、薄い膜越しにぴりっとなぞる瞬間がある。
「……分かりました」
「ようやくか」
「はい。指の関節三つ目で、分かります」
ロレンツォさんは、わたしの手元を見た。ふん、と鼻を鳴らす。
「飲み込み、早いな」
「前世——」
言いかけた言葉を、口の中で止めた。
ここで広げる話ではない。
「指が、覚えてました」
「ふん」
それきり、ロレンツォさんは聞かなかった。
* * *
午後になって、ようやく樽の話が出た。
ロレンツォさんは八つの樽の前に立ち、節くれた指で樽板を一つずつ叩いた。
「全部で八樽。一番古いのは百年。一番若いのは三年前に仕込んだやつだ」
わたしは樽に刻まれた年号を追った。
百年。八十年。六十年。四十年。二十五年。十二年。六年。三年。
数字は木肌に深く食い込み、塩と潮で黒ずんでいた。
この家の時間が、樽の腹にそのまま沈んでいる。
「百年の樽——これは、おじいさまの代の?」
「いや」
ロレンツォさんが首を振った。
「父さんの代でもない。じいさんの代でもない。曾じいさんが、まだ若い時に、ある男から仕込み方を教わった」
「ある男……?」
胸の奥が、こつんと鳴った。
「百年前。この港に、旅の男が来た。背が高くて、優しい目をした男だった、と曾じいさんは言うとった」
「……」
肩の上で、ネルの耳がぴくりと立った。爪が、わたしの服を細く掴む。
「その男は、しばらく港に滞在しとった。漁師らと一緒に魚を捌いて、船に乗って、同じ飯を食ってな」
ロレンツォさんは百年の樽の縁に、手を置いた。
「ある日、男は曾じいさんに、新しい魚醤の仕込み方を教えた。それまでの港の魚醤は、もっと粗い、塩漬けに近いもんだった。男のやり方は——繊細で、深くて、別物だったらしい」
樽板を撫でる手が、そこで止まった。
「『この樽は、お前さんの孫の孫まで、生かしてやれ』。男はそう言って、町を去ったそうだ」
「その男の名前——」
声が喉で震えた。
「分からん」
ロレンツォさんは首を振った。
「曾じいさんも、聞かんかったらしい。聞いても、男は答えんかった、とも言われとる。だが曾じいさんは、その男をずっと『先生』と呼んどった」
わたしはネルを見た。
ネルは目を固く閉じていた。
小さな肩が、かすかに震えている。
「ネル……」
「リーゼ」
ネルが、喉の奥から押し出すように言った。
「わしには、分からん。エルヴィンは、百年前のあの旅で、何処を巡り、何をしていたか——わしも全部を知っとるわけじゃない」
ネルが目を開けた。
翡翠色の瞳は、樽から離れない。
「が、エルヴィンが旅の途中で、その土地の漁師や猟師に魚醤や燻製の作り方を教えていた、という話は——あの男から、何度も聞いた」
「……ネル」
「リーゼ。この樽の中身を、舐めさせてくれんか」
わたしはロレンツォさんを見た。
「あの——」
「ガキ、舐めるか」
ロレンツォさんはネルを見下ろした。
「お前さんも、エルヴィンとやらいう男のことを、知っとるんか」
「……うむ」
ネルは口を結んだ。
それから観念したように、顎を引いた。
「わしは、その男の使い魔だった。百年前から」
「百年前から……?」
ロレンツォさんは目を見開いた。
けれど、すぐに息を整えて頷いた。
「使い魔か。ふん、長生きだな」
「ああ」
「では、舐めてみるがいい。お前さんの主が、本当にここに来たかどうか、舌が答えるだろう」
ロレンツォさんは、百年の樽の蓋に手をかけた。
湿った木が軋み、濃い塩気と熟れた魚の香りが、小屋の空気を満たす。
褐色の液体——金色の光を湛えた、底の見えない魚醤。
ロレンツォさんは木の匙を沈め、ひと匙だけすくった。
それをネルの皿へ落とす。
ネルはわたしの肩から飛び降り、テーブルに乗った。
皿に鼻先を近づけ——一舐めした。
……動きが止まった。
ネルの体が震えた。
翡翠色の瞳から、光の粒が、ぽつ、ぽつ、と落ちる。
「ネル……」
「リーゼ」
ネルの声は、ひどくかすれていた。
「これは——エルヴィンの仕込みだ。わしは知っとる。間違いない。あの男の、独特の——塩の打ち方、魚の選び方、寝かせる時間。全部、エルヴィンの流儀じゃ」
わたしは息を忘れた。
百年前、わたしと同じように前世の知識を持っていた——かもしれない男。
エルヴィン。
その手が、この港の小屋に確かに触れ、今も樽の中で生きている。
「リーゼ」
ロレンツォさんが、わたしを見た。
「お前さん、そのエルヴィンとやらの——なんだ。弟子か」
「弟子じゃありません」
わたしは首を振った。
「わたしは、エルヴィンに会ったことがありません。でも——」
樽の縁に手を置くと、冷たい木目が掌に当たった。
「あの人が仕込んだものを、引き継ぎたい人間です。あの人が、何のためにこの樽を百年残したのか——きっと、誰かに繋ぐためです。今度は、わたしの手で繋ぎたいです」
ロレンツォさんは、長いことわたしの顔を見ていた。
それから、ふん、と息を吐く。
「ややこしい話だな」
「すみません」
「ふん。だが——」
ロレンツォさんは樽の蓋を閉めた。木と木が噛む、低い音がした。
「曾じいさんが、わしに残した遺言が、一つだけある」
「遺言?」
「『いつか、わしらを訪ねてくる、銀の髪の小娘がいるかもしれん。その時は、樽を見せてやれ』」
息が詰まった。
「曾じいさんは、夢に見たんだそうだ。その夢の中で、先生が、そう言っとったらしい」
ロレンツォさんの視線が、わたしの髪に落ちる。
「銀の髪の、小娘だ」
頬の内側を、そっと噛んだ。
夢の中の、エルヴィン。
百年前から、わたしを待っていた——?
「……ロレンツォさん」
「ガキ」
「はい?」
「先生に伝えてくれ。お前さんが、伝言する側だろうが」
ネルがしっぽを揺らした。
「無論だ」
ネルの目からは、まだ光の粒が落ちていた。
それでもその瞳の奥で、百年分の埃を払うように、何かが動き出していた。
* * *
その日の夕暮れ。
わたしと殿下は、宿の屋上に上がった。
潮風が足元を抜け、港を一望できる。漁船の灯火が、黒くなりかけた海に揺れていた。
「殿下」
「何だ」
「百年って、長いですね」
殿下は答えず、海を見ていた。
「百年前のエルヴィンが、こうして港に来て、漁師に魚醤を教えて——そして、樽だけを残して、いなくなった」
「ああ」
「わたしも、いつか——百年残るような何かを、残せるんでしょうか」
殿下が、わたしを見た。
「お前は、すでに残しているだろう」
「え?」
「俺の中に、お前が、すでに——」
殿下はそこで口をつぐんだ。
風が強く吹いた。
殿下の黒髪が乱れ、わたしの肩を掠める。
「……何でもない」
殿下は海へ視線を戻した。
胸の内側で、さっきの言葉が潮のように寄せたり引いたりしている。
返す言葉を探す代わりに、わたしも海を見た。
港の灯火が、波にちぎれて揺れる。
魚と塩の匂いを含んだ風が、しばらく二人の間を抜けていった。




