【68】四時の海
午前三時三十分。
宿の廊下は、まだ夜の湿り気を抱えたまま沈んでいた。板の軋みを殺しながら、わたしは厨房から出る。
保温容器の中では、さっき詰めたスープがことりと鳴った。早朝の漁は寒い。指先が冷えて網を掴めなくなる前に、温かいものくらい持っていく。
階段へ向かおうとした、その廊下の隅に人影があった。
黒髪。深く被ったフード。漁師には見えない背筋の伸び方。
「殿下……?」
「来た」
殿下は、こちらが何か言うより先に立ち上がった。厚手の上着は漁師風、足元は革の長靴、腰には短剣。身支度だけなら、今すぐ港へ転がり出せる。
「殿下、まだ三時半ですよ」
「分かっている」
「……どうして、ここに」
「お前が、四時の海に出ると聞いた」
殿下は、フードの影を深くした。顔ごと、そっぽを向く。
「俺も行く」
わたしは口を開けた。閉じた。もう一度開けかけて、やめた。
肩のネルが、喉の奥で「ふん、フン」と鳴った。猫の顔なのに、笑っているのが腹立たしいほど分かる。
「殿下、漁ですよ。海の上です。揺れます」
「問題ない」
「殿下、皇子ですよ」
「だから何だ」
「……ですよね」
わたしは保温容器の取っ手を握り直した。
ロレンツォさんは、きっと頭を抱える。下手をすれば杖で波止場を叩く。
でも、殿下の目は港の方を見ていた。止める言葉を投げても、たぶん潮風に持っていかれる。
「では、行きましょう」
殿下は頷いた。
その喉元が、息を飲みこむみたいに一度だけ動いた。……嬉しい時の殿下は、分かりにくい。
* * *
東港。
四時前。
空はまだ濃紺で、星がいくつも杭の上に引っかかっていた。
ロレンツォさんは港に立っていた。杖の先を波止場に置き、潮の匂いの中で舟を見ている。
わたしと殿下が近づくと、ロレンツォさんは目を瞬かせた。
「お前さん、その兄ちゃんは」
「あの、わたしの——」
「俺は、リーゼの護衛だ」
殿下が低く言った。
「漁にも同行する」
「兄ちゃん。漁に出たことは?」
「ない」
「……」
ロレンツォさんの視線が、わたしの額に刺さった。
わたしは背筋を折って、深く頭を下げる。
「すみません、ロレンツォさん。連れてきてしまって」
「ふん」
杖の先が、波止場の縁をこつんと叩いた。乾いた音が、まだ眠い港に落ちる。
「漁師は選ばん。海が選ぶ」
ロレンツォさんは殿下に顎をしゃくった。
「兄ちゃん。海に酔ったら舳先に座っとれ。船の中で吐かれたら、魚が全部臭くなる」
「了解した」
殿下は、軍議を受けたみたいな顔で頷いた。
「リーゼ。お前は艫だ。網の引き上げを手伝え」
「はい」
「ガキも来とんのか」
ロレンツォさんの目が、わたしの肩へ移る。
「使い魔だ。船酔いはせん」
ネルが、当然のように答えた。
ロレンツォさんは鼻で笑うでもなく、口の端だけを歪めた。
「使い魔か。古いな」
「貴様こそ、古いだろうが」
「ふん。歳相応のはずだ」
ロレンツォさんは舟へ歩いた。古い木の漁船だ。けれど船腹は磨かれ、縄は固く巻かれ、刻まれた『リーリャ号』の文字だけが朝露で濡れている。
「乗れ」
わたしたちは舟に乗った。
最後にロレンツォさんが、悪い足をかばいながらも迷いなく乗り込む。
舟は舫いを解かれ、夜明け前の海へ滑り出した。
* * *
港の防波堤を抜けた途端、海は大きくなった。
波が舟底を押し上げ、すとんと落とす。静かなのに、足の下で何か巨大なものが寝返りを打っている。
東の空が、墨を水で薄めるみたいに青くなっていく。水平線の雲の腹に、金色が滲み始めた。
「……綺麗」
息と一緒にこぼれた。
「リーゼ」
舵を取るロレンツォさんの声が飛んでくる。
「綺麗だと思ったか」
「はい」
「漁師は、綺麗だと思った時に死ぬ」
背中が冷えた。
「海が光りすぎる日は、波が立つ。空が金に焼けすぎたら、嵐の尻尾がどこかにある。海は見惚れる場所じゃない。読む場所だ」
「……はい」
「明日から、お前は海を見惚れずに読め」
ロレンツォさんの手が、舵を握ったまま半寸動いた。水面の色、舟の揺れ、風の湿りを、指先で拾っている手だった。
殿下は舳先で目を閉じていた。頬に当たる風へ、顔をわずかに向ける。
「兄ちゃん。風はどっちから吹いとる」
「東南東」
「速さは」
「弱い。秒速三メートル前後」
「……」
ロレンツォさんの眉が動いた。
「兄ちゃん、漁は初めてって言うとったな」
「初めてだ」
「だが、風は読めるんか」
「軍事訓練の一環で、風と気象を学んだ」
殿下は揺れる舟の上でも声を崩さない。
ロレンツォさんは目を細めた。
「ふん。お貴族さま、か」
殿下は答えなかった。
ロレンツォさんも、そこへ針を刺し続けることはしなかった。
舟は沖へ進んだ。船腹をなでる水音が、しばらく耳に残った。
* * *
最初の漁場で、舟が止まった。
「網を入れる。リーゼ、これを持て」
ロレンツォさんが網の端を渡してくる。
掌に縄のざらつきが食い込んだ。濡れていないのに、ずしりと海の重さがある。
「兄ちゃん、向こうの端を持て」
殿下が反対側を握る。
「合図で海に下ろす。急ぐな。落とすな」
「はい」
「了解」
ロレンツォさんが片手を上げた。
「下ろせ」
わたしと殿下は、網を海へ送った。指の間から縄が滑り、冷たい飛沫が袖に散る。
網は音を立てずに開いていく。ロレンツォさんが舵を小刻みに切り、「右」「そこで止めろ」と短く飛ばす。
「網は魚を脅かさんように下ろせ。一気に落とすと逃げる」
「はい」
「今日は水深十二メートル。今の潮なら、広がるまで十五秒だ」
ロレンツォさんの唇は動かない。けれど、身体のどこかで秒を刻んでいる。
「——十五秒。引け」
「はい」
わたしは縄を掴み直した。殿下の腕が隣で張る。せーの、と言わなくても、引く瞬間が揃った。
最初は軽い。
すぐ、底から誰かに引き返されるような重さが来た。
網の下で、魚がぴちゃぴちゃと暴れた。
「来とる」
ロレンツォさんが低く言った。
「リーゼ。最後の三メートルで気を抜くな。船縁に当たった瞬間に跳ねる。腰を落とせ」
「はい!」
膝を曲げ、歯を食いしばる。縄の繊維が手のひらを擦った。
殿下が隣でぐっと引く。力強いのに、こちらの速度を乱さない。
網が水面を割った。
飛沫が舳先へ跳ねる。
銀の魚体が、夜明けの光を弾いてばらばらにきらめいた。
網の腹いっぱいに、魚がいる。
「……すごい」
「上等な引きだ」
ロレンツォさんが頷いた。
「お前さんたち、息が合っとる」
網の水を落としながら、ぽつりと言う。
「息が合わん二人で網を引いたら、絶対こんなには取れん」
「あの、それは——」
「いい。それでいい」
ロレンツォさんは目を細めた。夜明けの光が皺の奥まで入り、ほんの一瞬だけ、若い漁師の目を覗かせた。
* * *
その日、網は二回入れた。
二回目も大漁だった。
港へ戻る頃には、空はすっかり明るい。潮を含んだ朝の声が、波止場のあちこちで起き始めていた。
若い漁師たちが、わたしたちの舟を見て口を開ける。
「ロレンツォじいさん、足を痛めて休んでたんじゃ……」
「そっちの兄ちゃん、見ない顔だぞ……」
「あの娘っ子、本当に網引いたのか……?」
ロレンツォさんは一つも拾わなかった。
「リーゼ。魚を選別しろ。鮮度のいいやつを別の籠に。残りは市場に回す」
「はい」
わたしは濡れた手を振って、魚を掴んだ。指がまだ震えている。
ぎんぎんに冷えた水で締めた魚は、ほとんどが上物だった。腹に張りがあり、目が澄んでいる。
傷ついた魚と、小さすぎる稚魚は分ける。迷うものは、身の硬さと鱗の乱れを見る。
「稚魚はどうする」
ロレンツォさんが聞いた。
「海に帰します」
わたしは即答した。
「来年、また育って帰ってきてもらいます」
「……ふん」
ロレンツォさんの口の端が上がる。
「ガキは、知っとるか」
「亡き祖母が、教えてくれました」
……前世の祖母のことだ。
でも、ロレンツォさんは詮索せずに頷いた。
「いいばあさんだったろう」
「……はい。とても」
わたしは稚魚を両手で掬い、海へ戻した。銀色の小さな背が、水の中でひるがえって消える。
* * *
昼前。
ロレンツォさんの仕込み小屋で、わたしと殿下は温かいスープを飲んでいた。漁の代金代わりだ、と彼が出してくれたものだ。
マルタさんの魚のシチューを、ロレンツォさん流に寄せた味だった。
塩は強い。
でも、五時間ほど海の上で働いた身体には、その塩気がしみた。喉を通るたび、冷えた胃がほどける。
「兄ちゃん」
ロレンツォさんが殿下を見た。
「あんた、漁が初めてとは思えん動きをしとった」
「飲み込みは、早い方だ」
「ふん。だがな」
ロレンツォさんはスープをすすり、椀を膝の上で止めた。
「あんたの剣ダコ、見たぞ。網を引く手を、よく見たから」
殿下の指が、椀の縁で止まる。
「あんた、剣士だな。それも、相当な使い手」
「……」
「軍属なら、そうと言え。漁師の頭は嘘が嫌いだ」
殿下はしばらく黙っていた。小屋の外で、干された網が風に擦れる。
やがて、声を落とした。
「俺は、軍人ではない。だが、剣は使う」
「貴族か」
「……それは、答えられない」
「ふん」
ロレンツォさんは、それ以上踏み込まなかった。
「だがな、兄ちゃん。一つだけ覚えとけ」
椀を置く音がした。
「漁師の前で、剣で身分を語るな。漁師の前では、網を引いた腕で語れ。あんたは今朝、いい仕事をした。それで十分だ」
殿下は背を正し、深く頷いた。
「肝に銘じる」
* * *
小屋を出る時、ロレンツォさんが背中へ言った。
「リーゼ。明日の朝も来い」
「はい」
「次は内臓の処理を教える。それを覚えんと、樽の話はせん」
「はい!」
わたしは深く頭を下げた。
殿下と並んで、小屋を後にする。
道すがら、殿下が言った。
「リーゼ」
「はい」
「漁は——いいな」
殿下の目には、夜明けの海を見た時の光がまだ残っていた。
わたしは笑った。
「ええ。……手のひら、まだ網の形ですけど」
殿下の口元が、ごくわずかに緩んだ。
潮風が吹きつける。わたしは髪を押さえ、殿下はフードを指で引いた。




