【67】明日も
翌日。
午前の漁が引け、濡れた網が港に干されはじめた頃、わたしはロレンツォさんの小屋へ向かった。
「ロレンツォさん。リーゼです」
「来るな」
「差し入れです。温かい味噌汁、置いていきます」
「いらん」
戸板は、びくともしない。
わたしは保温容器を抱え直し、扉の前に置いた。蓋越しの熱が、指の腹に残る。
中身は、ゾンネ豆の味噌に、海藻と豆腐に似たヴァイスケーゼ。前世でいう一番出汁を思わせる、角のない味にした。
「冷めないうちに、どうぞ」
「……」
返事はない。
ただ、戸の向こうで、息を吸い込む音が針ほどかすれた。気のせいかもしれない。
「では、また明日」
頭を下げ、小屋を離れる。
角を曲がりかけて振り返ると、扉の前の容器が、するりと内側へ消えた。
……飲んでくれた。
多分、飲んでくれた。
わたしは、胸の前で小さく拳を握った。
* * *
その次の日は、白い粥を持っていった。
味覚が過敏な人にも、口を開きたがらない人にも負担にならない、殿下に最初に出したあの粥だ。
「ロレンツォさん。リーゼです」
「うるさい」
「今日は粥です。喉が、楽になります」
「うるさいと言ったろうが」
扉は開かない。
それでも声の底に、ざらついた疲れが混じっていた。
昨夜も仕込みだったのか。海が荒れたのか。
わたしは粥を置き、敷居から手を離した。
「お体に、お気をつけて」
その時。
扉の向こうから、ロレンツォさんの低い声が落ちた。
「……お前さん、誰の差し金だ」
わたしは、足を止めた。
「誰の差し金でもありません。わたしが来たいから来ています」
「帝都の——どっかの家の紐付きだろう。商人か、料理ギルドか」
「いいえ」
扉に向かって、背筋を伸ばす。
「わたしは、料理人です。あなたの魚醤の作り方が、知りたい。それだけです」
「……」
返事はない。
扉は開かない。ただ、蝶番がかすかに軋んだ。
ロレンツォさんが、すぐ向こうに立っている気配がした。
「明日も、伺います」
もう一度頭を下げ、小屋を離れた。
* * *
四度目に小屋へ向かった日、ロレンツォさんは漁に出ていなかった。
港の若い漁師に聞くと、「じいさん、足を痛めたらしい。今朝は出てこなかった」と教えてくれた。
なら、なおさら、体に優しいものがいい。
宿の厨房で、魚介スープを仕込んだ。
地元のフリュスクレープスの殻で出汁を取り、白身魚の身はほろほろになるまで火を入れる。塩を振り、マルタさんから分けてもらった魚醤をひと垂らし。湯気の香りを確かめて、火を落とした。
仕上げに刻んだ香草を散らし、レモンに似た果実の汁を搾る。
保温容器に移し、小屋へ向かった。
* * *
「ロレンツォさん。リーゼです」
「……」
「今日は、魚介スープを持ってきました。フリュスクレープスの殻で出汁を取って、白身魚で——」
扉が、ぎぃ、と開いた。
わたしは、息を呑んだ。
隙間から、ロレンツォさんが顔を出す。
昨日までより目の下のクマが濃い。頬の影が深く、唇が乾いている。
それでも目だけは、刃物のように鋭いままだった。
「フリュスクレープスの殻……?」
「はい。殻には、アスタキサンチンやキチン質という——殻ならではの旨味があります。地元の人は身ばかり食べて殻を捨てると聞きました。もったいないので、出汁にしました」
「…………」
ロレンツォさんは、長いこと、わたしの顔を見つめていた。
目だけで鍋の底まで覗くような沈黙だった。
やがて、ぼそりと言う。
「中に入れ」
「……え」
「立ち話は、嫌いだ」
扉が、大きく開いた。
わたしは、震える手で容器を抱え直した。
ネルが、肩の上で身を低くする。
「お邪魔します」
* * *
仕込み小屋の中は、想像していたよりずっと片づいていた。
壁際には、大きな樽が八つ。
木肌は飴色に黒ずみ、年季を吸っている。それでいて、縁にも床にも汚れはない。樽の側面には、それぞれ年号が彫られていた。
一番古い樽は、百年前のもの。
部屋の中央に、古い木のテーブル。
壁の隅には、寝床と思しき粗末なベッド。
窓は一つきり、北向きで、塩風に強い造りだ。
そして、空気。
外で嗅いだ発酵の匂いが、ここでは喉の奥にまで届く。
けれど「臭い」のではない。酸っぱさの向こうに旨味が沈み、蛋白質の分解した甘苦い香りが、樽の湿った木肌にまとわりついている。
名前を並べる前に、体が腹を空かせる。
息が漏れた。
「……何だ、その顔は」
「あ、すみません。あの——」
「うちの匂いが、嫌か」
「いいえ! 逆です。すごい匂いです。深くて、層があって、何十年もかけて育ってきた発酵だって、すぐに分かります。樽の中で、たくさんの微生物たちが、ずっと働き続けてきた——」
「もういい」
ロレンツォさんが、ぴしゃりと言った。
けれど、刃みたいだった目の端が、わずかにほどけた。
「テーブルに置け。スープ」
「あ、はい」
わたしは保温容器をテーブルに置き、蓋を開けた。
湯気が、樽の匂いの中へ白く立ち上る。
ロレンツォさんが椅子に腰を下ろした。足をかばったせいか、木の椅子が、ぎぃ、と鳴いた。
「お前さんは、立っとれ」
「はい」
ロレンツォさんは、スープの皿を引き寄せた。
木の匙ですくい、口に運ぶ。
匙が離れ、顎が一度動いた。
そこで、止まった。
マルタさんに料理を褒められた時とも、殿下が初めて「美味しい」と言った時とも、違う沈黙が小屋に降りた。
ロレンツォさんは、目を閉じている。
眉間の皺だけが、深い。
怒っているのではない。
味を追っている。
「……お前さん」
「はい」
「これは、何の出汁だ」
「フリュスクレープスの殻と、白身魚の身です。あと、地元の魚醤を、ひと垂らし——」
「魚醤……マルタんとこのか」
「はい」
「ふん」
ロレンツォさんは、また匙を口へ運んだ。
皿の縁に、木の匙が当たる。
ひと口、またひと口。
手が、止まらない。
最後の一口を飲み終えると、ロレンツォさんは空の皿を見下ろして、低く呟いた。
「殻……か」
「はい?」
「殻のことを、お前さんはよく知っとる。誰に教わった」
「あの——」
わたしは、迷った。
前世のことを、初対面の人にどう説明するか。喉の奥で言葉が引っかかる。
けれど、目の前のロレンツォさんの目を見て、決めた。
この人には、雑な嘘をつきたくない。
「実は、わたしには、特殊な記憶があります。生まれる前の——別の世界の記憶です」
ロレンツォさんは、眉を上げた。
でも、笑わなかった。
「ほう」
「その記憶の中に、料理の知識があります。殻の使い方も、出汁の取り方も、その世界で学びました」
「ふん」
ロレンツォさんは、空の皿を見つめた。
「変な娘だ」
「……はい。よく言われます」
「だが、嘘をつく目じゃない」
ロレンツォさんが、ぐい、と顔を上げた。
「お前さん。樽を見たいか」
わたしの心臓が、一拍、喉元へ跳ねた。
* * *
ロレンツォさんは、立ち上がった。
足を引きずっている。やはり、痛めているらしい。
「ちょっと、見てやる。一番古い樽だけだぞ」
「あ、ありがとうございます!」
ロレンツォさんは、一番奥の樽の前に立った。
樽の側面には、刻まれた年号。百年前。
大きな木の蓋を、ロレンツォさんが両手で慎重に持ち上げる。
わたしは、息を呑んだ。
樽の中。
褐色の液体の表面に、金色の光が揺れていた。
はっきりと、見えた。
マルタさんの時よりも、ずっと強い光。
樽の表面全体が、淡く、けれど確かに輝いている。
「……エッセンス」
無意識に、声がこぼれた。
「何?」
ロレンツォさんが、振り返った。
「エッセンスです、ロレンツォさん。あなたの樽は、光ってます」
「光る?」
「金色に。すごく、はっきりと」
ロレンツォさんは、わたしの顔を、長いこと見つめた。
それから、自分の樽を見下ろす。
そして、ぽつりと呟いた。
「……父さんも、似たようなことを言っとった」
「え?」
「父さんはな。樽の蓋を開ける時、いつも『お、今日は機嫌がええな』とか『今日は怒っとるな』とか、樽に向かって独り言を言っとった」
ロレンツォさんが、樽の縁に手を置いた。
しわだらけで、固く、厚い手だった。
「父さんの父さんも、そうだった。代々、そうだったらしい」
「……」
「わしには見えん。が、見えるって人間は、何人かおった。マルタの家のばあさんも、見えるって言っとったらしい」
ロレンツォさんが、目を細めた。
「お前さん、その——光ってのは、何だ」
「食材への敬意です」
わたしは、まっすぐ答えた。
「魚の状態に目を凝らして、塩を加減して、樽の声を聞く。毎日同じようで、毎日少し違う手つきの積み重ねです。そういう手から料理に移る力を、わたしは『エッセンス』と呼んでいます」
「ふん」
ロレンツォさんは、樽の蓋をもとに戻した。
ぱたん、と、優しい音がした。
「気取った言い方だな」
「……はい。すみません」
「だが——」
ロレンツォさんは、わたしを見た。
「百年、ここで魚と話してきたわしには、悪い気はせんな」
目頭が熱くなった。
わたしは、ぎゅっと唇を結ぶ。
「ロレンツォさん。教えてください。あなたの魚醤の作り方を」
「ふん」
ロレンツォさんは、ベッドの方を見た。
「この足じゃあ、明日の漁は無理だ」
「……」
「明日の朝、四時。来い。お前さんが、わしの代わりに漁に出るんだ」
わたしは、目を見開いた。
「漁、ですか」
「魚醤を作る前に、魚を知らんといかん。海を知らんといかん。樽の中の話は、その後だ」
「……はい!」
深々と頭を下げる。
「明日、四時に伺います。お願いします」
「……無理するな」
ロレンツォさんが、顔を背けながら、ぼそりと言った。
「足を痛めるなよ。わしの代わりに、海に出るんだ。怪我したら、わしの責任になる」
ぶっきらぼうな言葉なのに、冷えた指先まで少し温まった。
* * *
小屋を出ると、夕日が港を赤く染めていた。
ネルが、わたしの肩で耳を立てる。
「四日かかったな」
「……はい」
「が、これは大きな進展だ」
「はい」
わたしは、深く息を吐いた。
潮の匂いが、肺に染み入る。
「ネル。明日、四時起きですよ」
「わしは早起きだ。問題ない」
「殿下に、伝えないと」
「あの皇子も、漁に出るとごねるぞ」
「……出させてもいいかな」
「は?」
「皇子が漁の手伝いをする物語、面白いと思いません?」
「お前は、たまに肝が据わりすぎとる」
ネルが、呆れたように、しっぽを揺らした。
わたしは笑って、冷えはじめた港の空気を吸い込んだ。
明日は、四時の海だ。




