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【66】頑固な老漁師

 マルタばあさんの台所で、わたしはインクの乾いたページを指で押さえた。

 湯気の名残が、まだ指先にまとわりついている。


 エッセンスは、特別な人だけのものではない。

 魚のシチューが教えてくれた答えは、胸の底で温かいままだ。


 けれど、「教科書」にするには、まだ足りない。

 もう一つ、別の手つきを見たい。


「マルタさん。この港町に、他にも料理上手な方はいませんか?」


「料理上手かい? そりゃまぁ、いるけどねぇ」


 マルタさんは、しわだらけの指で顎を撫で、炉端の灰をちらりと見た。


「魚のことなら、東港のロレンツォじいさんさ。あの人の魚醤は町一番だよ。父さんも、そのまた父さんも、みーんなロレンツォの家の魚醤を使ってきた」


「魚醤……!」


「ただねぇ」


 マルタさんの眉尻が下がった。濡れ布巾を絞る手も、そこで止まる。


「あの人、頑固でね。余所者には絶対に会わないよ。最近は孫のミカ以外、誰も小屋に入れないんだから」


 頑固な職人。

 前世の市場にも、似た背中はいた。


「それでも、訪ねてみます」


「やめときなよぉ。怒鳴られて終わるだけさ」


 わたしは椅子を引き、ぺこりと頭を下げた。


「教えていただいて、ありがとうございました」


「気をつけて行きなぁ」


 マルタさんは戸口まで来て、エプロンで手を拭きながら見送ってくれた。



 * * *



 東港は、ハーフェンシュタットの中でも一番古い港だった。


 石畳は踏まれ、磨かれ、角をなくしている。漁師たちの長靴と荷車の鉄輪が、何百年もかけて石を削ったのだろう。

 歩くたび、足裏に湿った冷たさと町の重みが返ってきた。


「リーゼ、あれだ」


 ネルが、肩の上で前足を伸ばした。


 港の端。石垣の影に、小さな仕込み小屋が張りつくように建っていた。

 屋根は古い藁葺き。塩を吹いた壁は白く滲み、扉の前には漁網が山のように積まれている。網の隙間から、乾いた海藻がはみ出していた。


 扉の上に、墨で乱暴に書かれた文字。


 『ロレンツォ』。


 ただ、それだけ。


「殿下、ここで待っていてください。一人で行きます」


「何故だ」


「怖そうな人らしいので、最初は静かに……」


「いっそう、俺が同行した方が——」


「殿下が同行したら、緊張させすぎて話にならないと思います」


 わたしが言い切ると、フィンさんが横を向いて噴き出した。


「殿下、ここはリーゼさんに任せましょう。我々はあちらの茶屋で待機しています」


 殿下は不服そうに口を引き結んだ。

 それでもフードの奥で、顎がかすかに落ちる。


「ありがとうございます」


 ソフィアさまが目だけで「気をつけて」と合図する。アリアは胸の前で小さく手を振った。

 わたしはネルだけを肩に乗せ、仕込み小屋の扉へ向かった。



 * * *



 扉を、こんこんと叩いた。


「ロレンツォさん。お忙しいところ、すみません」


 返事はない。

 中で、木桶を動かすような鈍い音だけがした。


「魚醤の——」


 扉が、内側から乱暴に開いた。


「うるさいッ!」


 怒声と一緒に、強烈な発酵の匂いが押し寄せてきた。塩と魚の濃さに、古い木と陽に焼けた縄の苦みが混じり、鼻の奥がきゅっと縮む。


 扉の向こうに立っていたのは——背が低く、肩幅の広い、皺だらけの老人だった。

 白くなった髪をぼさぼさに振り乱し、目だけが刃物みたいに光っている。


「客なら表で名乗れ。わしの仕込みの邪魔をするな」


「す、すみません! わたしはリーゼ・ヴァイスフェルトと申します。帝都から——」


「帝都?」


 ロレンツォさんの目尻に、深い皺がぎゅっと寄った。


「帝都の人間が、この小屋に何の用だ」


「あの、魚醤の作り方を、教えていただきたくて——」


 言い終わる前に、扉が閉まりかけた。


 わたしは反射で、扉の隙間に手を差し込んだ。


「お、お願いします! 一目だけでも、樽を見せて——」


「離せ」


 ロレンツォさんの声が低く沈んだ。

 怒鳴り声より、ずっと怖い。


「離せ。指が挟まる」


「…………」


「離せ、と言っている」


 わたしは——指を引いた。


 扉が勢いよく閉まった。

 古い石壁まで、ごつんと鳴った。


 扉の向こうから、ロレンツォさんの怒声が飛んでくる。


「余所者に教えるものなどない! 二度と来るな!」


 わたしは扉の前に立ったまま、息を整えた。

 ネルが肩で耳をぴくぴく動かしている。


「リーゼ。引き上げるか」


「……いや」


 わたしは扉に向かって、深く頭を下げた。


「お忙しいところ、申し訳ありませんでした! また、明日伺います!」


「来るなと言ったろうがッ!」


「明日! また伺いますッ!」


 もう一度叫び、わたしは小屋から離れた。

 歩き出してから、ふくらはぎが震えていることに気づいた。



 * * *



 茶屋に戻ると、殿下が険しい顔で椅子から身を乗り出していた。


「断られたか」


「はい。完膚なきまでに」


 わたしが答えるなり、殿下が立ち上がりかけた。


「俺が——」


「だめです、殿下」


 わたしは慌てて殿下の前に回り込んだ。


「殿下が出ていったら、ロレンツォさんは絶対に話してくれません。あの人は、権威で押されるのが何より嫌いです」


「何故そう分かる」


「目を見ました」


 口にしてから、胸の奥が跳ねた。

 けれど、あの目は権威に頭を下げる目ではない。

 百回叩かれても折れない、職人の意地が刺さっていた。


「あの人は、頭を下げて来た相手にしか心を開かない種類の人です。だから、頭を下げ続けます」


「……お前は」


 殿下が眉を寄せた。


「お前は、たまに——驚くほど人を見ている」


「鍋だけ見ていても、味付けは間違えますから」


 ソフィアさまが紅茶を一口飲み、カップを皿に戻した。


「で、リーゼ。明日も行くの?」


「はい」


「明後日も?」


「もちろん」


「明々後日も?」


「行きます」


 ソフィアさまは短く息を吐き、それから口元だけで笑った。


「わたしは知っているわ。あなたが『行きます』と言ったら、本当に行くということを」


「……はい」


「なら、わたしは別行動で、町の市場と魚介の流通を調べてみる。わたしはわたしで役に立つわ」


「ソフィアさま、ありがとうございます」


 返事をすると、ソフィアさまはもう次に動く顔になっていた。

 頼もしい親友は、慰めるより先に、自分の手を動かしてくれる。



 * * *



 宿に戻る道すがら、ネルがぽつりと言った。


「リーゼ。あの仕込み小屋から、何が立ち上っていたか分かるか」


「発酵の匂いです」


「それだけか」


 ネルが目を細めた。


「光だ」


「光?」


「お前の目には、見えなかったか」


 わたしは足を止めた。石畳の溝に、夕方の潮水が細く光っている。


 光。

 マルタさんのスープに見えた、あの金色の光。

 ロレンツォさんの仕込み小屋からも——出ていた?


「気がつかなかった……扉が乱暴に閉まって、それで……」


「微弱だが、確かにあった。あの老人は、無意識にエッセンスを使っている。それも、五十年以上の歳月をかけて」


 わたしは足元の石畳を見つめた。


 マルタさんが「ありがとうね」と鍋に話しかけたときの光。

 ロレンツォさんの樽の中で、何十年も塩と魚に染みてきた光。


 マルタさんだけではなかった。

 もっと深く、もっと古い、無意識の使い手。


「ネル。わたし、絶対にあの人に話を聞かないと駄目です」


「だろうな」


 ネルは、肩の上で丸まった。


「百年待てば、わしらの力が町を変えるとは思っていなかった。だが、町の方が、勝手にわしらに追いついていた、ということか」


 夕日が港を赤く染めていた。

 潮の匂いの中に、発酵の深い香りが確かに混じっている。胸の奥まで、じんわり塩辛い。



 * * *



 翌日。


 わたしは、また東港の小屋を訪ねた。


「ロレンツォさん。リーゼです。昨日の」


「帰れ」


「お忙しいところ、すみません。差し入れを持ってきました」


「いらん」


 扉は開かなかった。


 わたしは扉の前に、小さな包みを置いた。

 マルタさんから分けてもらった香草入りのパン。それと、宿の厨房で焼いた出汁巻き卵。包み紙越しに、卵の甘い湯気が指へ移る。


「明日も、伺います」


 扉の向こうで、何かがこつりと鳴った。

 扉は開かない。


 わたしはもう一度頭を下げて、小屋を後にした。


 帰り道、振り返ると——

 扉の前から、置いてきた包みが消えていた。


 口の端が、勝手に緩んだ。


「ネル」


「うむ」


「あの人、差し入れは食べてくれたみたい」


「やれやれ。手強い相手だな」


 ネルがしっぽを揺らした。


「だが、面白くなってきたぞ、リーゼ」


 潮風が、わたしの銀白の髪を撫でた。

 扉の前に立つ自分の足音を、もう一度、思い浮かべる。

 明日も、ここに来る。何度でも。


 わたしは——あの人の樽の中の光を、必ず見る。

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