【65】南方の港町
帝都を発って四日目の昼前、馬車は南の丘に差しかかった。
南方の港町ハーフェンシュタットは、風のほうから先にやってくる町だった。窓の隙間を抜けて、潮の匂いが頬を撫でる。
丘の上で車輪がきしみ、視界がひらけた。
青い海。砕ける白い波。港に身を寄せる漁船。石造りの家並みの上に、赤い屋根がぎっしり重なっている。
「海だ……!」
アリアが窓枠に両手をかけた。鼻先が硝子につきそうだ。内陸のヴァルトハイム村で育った彼女にとって、これが初めての海だった。
「すごい、すごい! リーゼさま、海って本当に青いんですね!」
「うん。……本当に、綺麗」
わたしも、この世界で海を見るのは初めてだった。
前世では海の近くで育った。舌の奥に残る塩気、濡れた砂の匂い、遠くでほどける波音。そんなものが一度に胸へ押し寄せて、指先が窓枠を強く握った。
「リーゼ。あの港の匂いを嗅げ。何か分かるか」
ネルが肩の上で耳をぴくりと動かした。
窓を開け、風を吸い込む。
潮の匂いの底に、別のものが沈んでいた。
焼いた魚の脂。干物の乾いた旨味。それから、鼻の奥をくすぐる発酵の匂い。
「魚醤だ」
「正解。この港町では、魚を塩漬けにして発酵させた調味料を作っている。お前の世界で言う——」
「ナンプラー。いや、もしかしたら魚醤よりも醤油に近い……?」
ネルが満足そうに目を細めた。
「エルヴィンは、この町の魚醤に大きな可能性を見出していた。旨味の宝庫だ、とな」
胸の奥が跳ねた。
ここに来てよかったと、丘の上でもう思ってしまった。
* * *
宿に荷物を降ろすなり、わたしたちは港へ向かった。
殿下は外套のフードを深く被っている。第二皇子だとばれれば市場どころではない。身分を隠しての視察だ。
フィンさんは平服。ソフィアさまも、侯爵令嬢には見えない質素な旅装に身を包んでいた。
港は、声と水音で満ちていた。
漁師たちが船べりから魚箱を下ろすたび、板がどんと鳴る。銀色の魚体は陽をはじき、まだ生きているように身を跳ねさせていた。
市場の台には、帝都では見ない海の幸がずらりと並ぶ。
「リーゼさま、これ何ですか?」
アリアが、奇妙な形の生き物を指した。
手のひらほどの甲殻類。殻は赤い。前世でいうエビに近いけれど、色はもっと深く、触角が糸みたいに長い。
「フリュスクレープスだよ」
横から魚屋のおかみさんが教えてくれた。日焼けした頬に、人懐こい笑みが浮かぶ。
「この辺の名物さ。茹でても焼いてもいい。殻ごと煮出すとね、いい味が出るんだよ」
「殻ごと出汁……」
甲殻類の殻には、煮出してこそ出る香りがある。赤い色素と旨味、焦がした時の甘い匂い。前世のフランス料理なら、ビスクの土台になる味だ。
「一かご、ください」
「あいよ! 旅の人かい? 珍しいねえ、こんな若い子が料理の話するなんて」
「料理が好きなんです」
「いい子だねえ。じゃあ、おまけも入れとくよ」
おかみさんは手早く口の広い袋を開き、青黒い二枚貝を足してくれた。艶のある殻が、ころころと音を立てる。ムール貝に似ている。
「シュヴァルツムッシェルっていうんだ。白ワインで蒸してごらん。汁まで飲みたくなるよ」
「ありがとうございます!」
市場を歩き回るうち、魚、貝、海藻、干物が籠に積み上がっていった。乾いたものは軽いが、貝と魚は容赦なく重い。
フィンさんは涼しい顔で荷物持ちに徹してくれている。殿下は無言で、一歩後ろからついてきた。
「殿下、重くないですか?」
「問題ない」
殿下の両腕には、大きな魚の包みが抱えられていた。
第二皇子が、港の市場で、魚の荷物持ちをしている。
宮廷の人間が見たら、きっと卒倒する。
「殿下……やっぱり荷物はフィンさんに——」
「いい。これくらいは持てる」
言い切った耳の先が、わずかに赤い。
……持ちたいのだ。持てるからではなく、持ちたくて持っている。
わたしは籠の縁を握り直した。たぶん、こちらの顔も熱い。
* * *
午後、宿の厨房を借りて、買ってきた食材を広げた。
フリュスクレープスの殻を鍋へ入れ、弱火で炒める。
木べらで押すと、殻がぱきりと割れた。赤い油がにじみ、香ばしい匂いが湯気より先に立ち上る。
「この匂い……すごい」
アリアが鍋を覗き込み、目を丸くする。
「殻の中に、旨味が詰まっているの。この油には、陸の食材とは違う厚みがある。海の旨味って、舌への乗り方が違うんだよ」
「旨味に種類があるんですか?」
「あるよ。ゼーベルや野菜の甘い旨味、肉や魚の身の太い旨味、干し茸や海藻の底から支える旨味。別々でも美味しいけど、鍋の中で重なると——」
「相乗効果!」
「正解」
アリアは胸を張った。わたしの授業にも、すっかり慣れてきたらしい。のみ込みが早い。
殻の出汁を取った鍋に、シュヴァルツムッシェルと白ワインを加えて蓋をする。
貝が開く音を待ち、仕上げに地元の魚醤を数滴落とした。
蓋を開けた瞬間——部屋中に、海の香りが広がった。
「これは……」
殿下が、珍しく身を乗り出す。
「味見、しますか?」
スプーンを渡すと、殿下はスープを一口含んだ。
喉が小さく動く。それから、目を閉じた。
数秒、誰も動かなかった。
「深いな」
「え?」
「味に、深さがある。いつもの料理とは違う次元の旨味だ」
殿下が、味の感想を言葉にした。
「悪くない」でも「もう一杯」でもなく、味そのものについて話している。
それは、わたしには大事件だった。
食事が苦痛だった殿下が、味を確かめ、自分の言葉で表してくれたのだ。
「殿下、その感想——すごく嬉しいです」
「別に、感想ではない。事実を述べただけだ」
「それが感想っていうんですよ」
殿下は、ふいとそっぽを向いた。
ソフィアさまとフィンさんが、こっそり視線を交わして笑っている。
* * *
次の朝、地元の漁師に紹介され、港の裏通りに住むおばあさんを訪ねた。
マルタさんは七十三歳。漁師の妻として五十年、この港で魚料理を作り続けてきた人だ。
家は小さな石造りで、台所が家の真ん中にあった。
竈には黒ずんだ鉄鍋。壁には干物が吊られ、窓辺には束ねたハーブが乾いている。
「おや、遠くからお客さんかい」
しわの深い顔が、くしゃりと和らいだ。
「マルタさん、お魚のシチューの作り方を教えていただけませんか。港の人たちが、マルタさんのシチューが町一番だって」
「あらまぁ。大した料理じゃないよ。漁師のかかあが作る、普通のシチューさ」
そう言いながら、マルタさんの手は動き始めていた。
わたしは隣に立ち、まな板の上を見つめる。
ゼーベルを刻む刃先が、こつこつと鳴った。
普通のみじん切りではない。大きい欠片と小さい欠片が、わざとではないように混じっていく。
「マルタさん、切り方にこだわりはありますか?」
「こだわりなんてないよ。ばあちゃんがこう切ってたから、わたしもこう切るだけさ」
でも、鍋に入った瞬間に分かった。
細かい欠片は溶けて、とろみと甘味になる。大きい欠片は口に残る。ひとつの包丁仕事で、スープの土台と食感を同時に作っている。
包丁は魚へ移った。
身を外し、骨と頭を別にして、先に鍋へ落とす。水面が揺れ、白い泡がふつふつと寄ってくる。
「骨を先に煮るんですね」
「そうだよ。骨からいい味が出るからね。母さまも、ばあちゃんも、みんなそうしてた」
魚のアラ出汁だ。コラーゲンとアミノ酸が溶け出して、深い旨味のスープになる。
経験で積み上げられた手順が、理論にもぴたりとはまっていた。
台所の空気が魚とハーブの匂いで満ちたころ、マルタさんは不思議なことをした。
スープが煮立つころ、鍋の蓋をずらし、湯気の向こうへ「ありがとうね」と呟いた。
「マルタさん、今——何を?」
「ん? ああ、おまじないさ。母さまがね、『料理する時は食べ物に感謝しなさい。そうすると、味が良くなるから』って言ってたんだよ。まぁ、気持ちの問題さ」
わたしは鍋を覗き込んだ。
スープの表面で、光が揺れた。
金色の、淡い光。
息が止まる。
「マルタさん! 今、スープが光りませんでしたか!?」
「光る? 何言ってるんだい。お日さまが窓から差し込んでるだけだよ」
マルタさんは笑って、木べらでスープをかき混ぜた。
光は見えなくなった。
でも、わたしは確かに見た。
エッセンスの光を。
食材への感謝。心を込めた調理。
マルタさんは意識していない。それでも、その手は自然にエッセンスへ届いていた。
ネルが、わたしの肩の上で低く唸る。
「……やはりな」
「ネル、今のは——」
「エッセンスだ。無意識の、微弱な。だが、確かにエッセンスだ」
体の芯が震えた。
エッセンスは、特別な技術だと思っていた。
エルヴィンが発見し、わたしが前世の知識で再現した、限られた人だけの力だと。
違う。
ずっとここにあったのだ。
港町のおばあさんの台所に。
母から娘へ渡る、素朴な手つきの中に。
「ありがとうね」と食材に声をかける、小さな習慣の中に。
名前がなかっただけ。
理論がなかっただけ。
人が心を込めて料理する限り、どこの土地にも、いつの時代にも、エッセンスは息づいていた。
「マルタさん」
「なんだい?」
「あなたの料理は——すごいです。本当に」
「大げさだねぇ。ただの魚のシチューだよ」
マルタさんが、完成したシチューを皿に盛ってくれた。
一口、食べる。
温かくて、優しい。なのに底が深い。
魚の旨味とゼーベルの甘味、名も知らないハーブの香りが、湯気の中でひとつに溶けている。
宮廷料理のような華やかさはない。けれど、五十年の台所が作り上げた、揺るぎない味だった。
「美味しいです。すごく、美味しい」
「そうかい。よかったねぇ」
マルタさんは、しわだらけの顔をくしゃっとさせた。
* * *
宿に戻ると、わたしはすぐノートを開いた。
まだ手が震えている。けれど、書かずにはいられなかった。
『エッセンスは、特別な技術ではない。
人が食材に心を向けた時、自然に生まれる力である。
名前のないまま、土地ごとの台所に、時代ごとの食卓に、静かに存在してきた。
わたしたちがやるべきことは、新しい力を作ることではない。
すでにある力に、名前と理論を与えることだ。
そうすれば——魔力がなくても、特別な才能がなくても、食材を愛する心さえあれば、誰もが意識的にエッセンスを使えるようになる。』
ペン先を紙から離した。
「これだ」
わたしの教科書に、まだ足りなかったもの。
第一章の扉に置かなければならない、いちばん大切な考え。
エッセンスは、誰の中にもある。
港町のおばあさんが教えてくれた。
マルタさんのシチューが、教えてくれた。
「リーゼ」
殿下が窓辺に立っていた。
夕日が海を赤く染め、窓硝子の端まで朱色に光っている。
「今日、お前は大事なことに気がついたな」
「殿下も——あの光、見えました?」
「微かにだが。俺の目は、光に敏感だからな」
味覚だけではない。殿下の過敏な感覚は、こういう時にも確かに力になる。
「この旅——来て良かった」
「ああ」
殿下が、珍しく素直に頷いた。
「……魚のシチュー、美味かった」
それは、マルタさんの料理への——殿下なりの、最大の賛辞だった。
窓の外で、夕日が海へ沈んでいく。
明日もきっと、新しい匂いに足を止める。
潮の匂いに、発酵の深い香りが混じっていた。
港町の風は、まだ何かを隠している。




