表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/192

【65】南方の港町

 帝都を発って四日目の昼前、馬車は南の丘に差しかかった。


 南方の港町ハーフェンシュタットは、風のほうから先にやってくる町だった。窓の隙間を抜けて、潮の匂いが頬を撫でる。


 丘の上で車輪がきしみ、視界がひらけた。

 青い海。砕ける白い波。港に身を寄せる漁船。石造りの家並みの上に、赤い屋根がぎっしり重なっている。


「海だ……!」


 アリアが窓枠に両手をかけた。鼻先が硝子につきそうだ。内陸のヴァルトハイム村で育った彼女にとって、これが初めての海だった。


「すごい、すごい! リーゼさま、海って本当に青いんですね!」


「うん。……本当に、綺麗」


 わたしも、この世界で海を見るのは初めてだった。

 前世では海の近くで育った。舌の奥に残る塩気、濡れた砂の匂い、遠くでほどける波音。そんなものが一度に胸へ押し寄せて、指先が窓枠を強く握った。


「リーゼ。あの港の匂いを嗅げ。何か分かるか」


 ネルが肩の上で耳をぴくりと動かした。


 窓を開け、風を吸い込む。


 潮の匂いの底に、別のものが沈んでいた。

 焼いた魚の脂。干物の乾いた旨味。それから、鼻の奥をくすぐる発酵の匂い。


「魚醤だ」


「正解。この港町では、魚を塩漬けにして発酵させた調味料を作っている。お前の世界で言う——」


「ナンプラー。いや、もしかしたら魚醤よりも醤油に近い……?」


 ネルが満足そうに目を細めた。


「エルヴィンは、この町の魚醤に大きな可能性を見出していた。旨味の宝庫だ、とな」


 胸の奥が跳ねた。

 ここに来てよかったと、丘の上でもう思ってしまった。



 * * *



 宿に荷物を降ろすなり、わたしたちは港へ向かった。


 殿下は外套のフードを深く被っている。第二皇子だとばれれば市場どころではない。身分を隠しての視察だ。

 フィンさんは平服。ソフィアさまも、侯爵令嬢には見えない質素な旅装に身を包んでいた。


 港は、声と水音で満ちていた。


 漁師たちが船べりから魚箱を下ろすたび、板がどんと鳴る。銀色の魚体は陽をはじき、まだ生きているように身を跳ねさせていた。

 市場の台には、帝都では見ない海の幸がずらりと並ぶ。


「リーゼさま、これ何ですか?」


 アリアが、奇妙な形の生き物を指した。


 手のひらほどの甲殻類。殻は赤い。前世でいうエビに近いけれど、色はもっと深く、触角が糸みたいに長い。


「フリュスクレープスだよ」


 横から魚屋のおかみさんが教えてくれた。日焼けした頬に、人懐こい笑みが浮かぶ。


「この辺の名物さ。茹でても焼いてもいい。殻ごと煮出すとね、いい味が出るんだよ」


「殻ごと出汁……」


 甲殻類の殻には、煮出してこそ出る香りがある。赤い色素と旨味、焦がした時の甘い匂い。前世のフランス料理なら、ビスクの土台になる味だ。


「一かご、ください」


「あいよ! 旅の人かい? 珍しいねえ、こんな若い子が料理の話するなんて」


「料理が好きなんです」


「いい子だねえ。じゃあ、おまけも入れとくよ」


 おかみさんは手早く口の広い袋を開き、青黒い二枚貝を足してくれた。艶のある殻が、ころころと音を立てる。ムール貝に似ている。


「シュヴァルツムッシェルっていうんだ。白ワインで蒸してごらん。汁まで飲みたくなるよ」


「ありがとうございます!」


 市場を歩き回るうち、魚、貝、海藻、干物が籠に積み上がっていった。乾いたものは軽いが、貝と魚は容赦なく重い。

 フィンさんは涼しい顔で荷物持ちに徹してくれている。殿下は無言で、一歩後ろからついてきた。


「殿下、重くないですか?」


「問題ない」


 殿下の両腕には、大きな魚の包みが抱えられていた。

 第二皇子が、港の市場で、魚の荷物持ちをしている。

 宮廷の人間が見たら、きっと卒倒する。


「殿下……やっぱり荷物はフィンさんに——」


「いい。これくらいは持てる」


 言い切った耳の先が、わずかに赤い。

 ……持ちたいのだ。持てるからではなく、持ちたくて持っている。


 わたしは籠の縁を握り直した。たぶん、こちらの顔も熱い。



 * * *



 午後、宿の厨房を借りて、買ってきた食材を広げた。


 フリュスクレープスの殻を鍋へ入れ、弱火で炒める。

 木べらで押すと、殻がぱきりと割れた。赤い油がにじみ、香ばしい匂いが湯気より先に立ち上る。


「この匂い……すごい」


 アリアが鍋を覗き込み、目を丸くする。


「殻の中に、旨味が詰まっているの。この油には、陸の食材とは違う厚みがある。海の旨味って、舌への乗り方が違うんだよ」


「旨味に種類があるんですか?」


「あるよ。ゼーベルや野菜の甘い旨味、肉や魚の身の太い旨味、干し茸や海藻の底から支える旨味。別々でも美味しいけど、鍋の中で重なると——」


「相乗効果!」


「正解」


 アリアは胸を張った。わたしの授業にも、すっかり慣れてきたらしい。のみ込みが早い。


 殻の出汁を取った鍋に、シュヴァルツムッシェルと白ワインを加えて蓋をする。

 貝が開く音を待ち、仕上げに地元の魚醤を数滴落とした。


 蓋を開けた瞬間——部屋中に、海の香りが広がった。


「これは……」


 殿下が、珍しく身を乗り出す。


「味見、しますか?」


 スプーンを渡すと、殿下はスープを一口含んだ。

 喉が小さく動く。それから、目を閉じた。


 数秒、誰も動かなかった。


「深いな」


「え?」


「味に、深さがある。いつもの料理とは違う次元の旨味だ」


 殿下が、味の感想を言葉にした。

 「悪くない」でも「もう一杯」でもなく、味そのものについて話している。


 それは、わたしには大事件だった。

 食事が苦痛だった殿下が、味を確かめ、自分の言葉で表してくれたのだ。


「殿下、その感想——すごく嬉しいです」


「別に、感想ではない。事実を述べただけだ」


「それが感想っていうんですよ」


 殿下は、ふいとそっぽを向いた。

 ソフィアさまとフィンさんが、こっそり視線を交わして笑っている。



 * * *



 次の朝、地元の漁師に紹介され、港の裏通りに住むおばあさんを訪ねた。


 マルタさんは七十三歳。漁師の妻として五十年、この港で魚料理を作り続けてきた人だ。


 家は小さな石造りで、台所が家の真ん中にあった。

 竈には黒ずんだ鉄鍋。壁には干物が吊られ、窓辺には束ねたハーブが乾いている。


「おや、遠くからお客さんかい」


 しわの深い顔が、くしゃりと和らいだ。


「マルタさん、お魚のシチューの作り方を教えていただけませんか。港の人たちが、マルタさんのシチューが町一番だって」


「あらまぁ。大した料理じゃないよ。漁師のかかあが作る、普通のシチューさ」


 そう言いながら、マルタさんの手は動き始めていた。


 わたしは隣に立ち、まな板の上を見つめる。


 ゼーベルを刻む刃先が、こつこつと鳴った。

 普通のみじん切りではない。大きい欠片と小さい欠片が、わざとではないように混じっていく。


「マルタさん、切り方にこだわりはありますか?」


「こだわりなんてないよ。ばあちゃんがこう切ってたから、わたしもこう切るだけさ」


 でも、鍋に入った瞬間に分かった。

 細かい欠片は溶けて、とろみと甘味になる。大きい欠片は口に残る。ひとつの包丁仕事で、スープの土台と食感を同時に作っている。


 包丁は魚へ移った。

 身を外し、骨と頭を別にして、先に鍋へ落とす。水面が揺れ、白い泡がふつふつと寄ってくる。


「骨を先に煮るんですね」


「そうだよ。骨からいい味が出るからね。母さまも、ばあちゃんも、みんなそうしてた」


 魚のアラ出汁だ。コラーゲンとアミノ酸が溶け出して、深い旨味のスープになる。

 経験で積み上げられた手順が、理論にもぴたりとはまっていた。


 台所の空気が魚とハーブの匂いで満ちたころ、マルタさんは不思議なことをした。


 スープが煮立つころ、鍋の蓋をずらし、湯気の向こうへ「ありがとうね」と呟いた。


「マルタさん、今——何を?」


「ん? ああ、おまじないさ。母さまがね、『料理する時は食べ物に感謝しなさい。そうすると、味が良くなるから』って言ってたんだよ。まぁ、気持ちの問題さ」


 わたしは鍋を覗き込んだ。


 スープの表面で、光が揺れた。


 金色の、淡い光。


 息が止まる。


「マルタさん! 今、スープが光りませんでしたか!?」


「光る? 何言ってるんだい。お日さまが窓から差し込んでるだけだよ」


 マルタさんは笑って、木べらでスープをかき混ぜた。

 光は見えなくなった。


 でも、わたしは確かに見た。

 エッセンスの光を。


 食材への感謝。心を込めた調理。

 マルタさんは意識していない。それでも、その手は自然にエッセンスへ届いていた。


 ネルが、わたしの肩の上で低く唸る。


「……やはりな」


「ネル、今のは——」


「エッセンスだ。無意識の、微弱な。だが、確かにエッセンスだ」


 体の芯が震えた。


 エッセンスは、特別な技術だと思っていた。

 エルヴィンが発見し、わたしが前世の知識で再現した、限られた人だけの力だと。


 違う。


 ずっとここにあったのだ。


 港町のおばあさんの台所に。

 母から娘へ渡る、素朴な手つきの中に。

 「ありがとうね」と食材に声をかける、小さな習慣の中に。


 名前がなかっただけ。

 理論がなかっただけ。

 人が心を込めて料理する限り、どこの土地にも、いつの時代にも、エッセンスは息づいていた。


「マルタさん」


「なんだい?」


「あなたの料理は——すごいです。本当に」


「大げさだねぇ。ただの魚のシチューだよ」


 マルタさんが、完成したシチューを皿に盛ってくれた。


 一口、食べる。


 温かくて、優しい。なのに底が深い。

 魚の旨味とゼーベルの甘味、名も知らないハーブの香りが、湯気の中でひとつに溶けている。

 宮廷料理のような華やかさはない。けれど、五十年の台所が作り上げた、揺るぎない味だった。


「美味しいです。すごく、美味しい」


「そうかい。よかったねぇ」


 マルタさんは、しわだらけの顔をくしゃっとさせた。



 * * *



 宿に戻ると、わたしはすぐノートを開いた。


 まだ手が震えている。けれど、書かずにはいられなかった。


 『エッセンスは、特別な技術ではない。

  人が食材に心を向けた時、自然に生まれる力である。

  名前のないまま、土地ごとの台所に、時代ごとの食卓に、静かに存在してきた。

  わたしたちがやるべきことは、新しい力を作ることではない。

  すでにある力に、名前と理論を与えることだ。

  そうすれば——魔力がなくても、特別な才能がなくても、食材を愛する心さえあれば、誰もが意識的にエッセンスを使えるようになる。』


 ペン先を紙から離した。


「これだ」


 わたしの教科書に、まだ足りなかったもの。

 第一章の扉に置かなければならない、いちばん大切な考え。


 エッセンスは、誰の中にもある。


 港町のおばあさんが教えてくれた。

 マルタさんのシチューが、教えてくれた。


「リーゼ」


 殿下が窓辺に立っていた。

 夕日が海を赤く染め、窓硝子の端まで朱色に光っている。


「今日、お前は大事なことに気がついたな」


「殿下も——あの光、見えました?」


「微かにだが。俺の目は、光に敏感だからな」


 味覚だけではない。殿下の過敏な感覚は、こういう時にも確かに力になる。


「この旅——来て良かった」


「ああ」


 殿下が、珍しく素直に頷いた。


「……魚のシチュー、美味かった」


 それは、マルタさんの料理への——殿下なりの、最大の賛辞だった。


 窓の外で、夕日が海へ沈んでいく。

 明日もきっと、新しい匂いに足を止める。


 潮の匂いに、発酵の深い香りが混じっていた。

 港町の風は、まだ何かを隠している。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ