表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/187

【64】帝国を巡る旅の始まり

 研究所が復旧して、一ヶ月が過ぎた。


 煤の匂いは薄れたのに、机の上では『食材の本質』の原稿が前より高い山になっている。端に朱を入れ、ページをめくり、帝国学術院へ出すための体裁を整えていく。

 ページの途中で、指が止まった。


 食材が——足りない。


「帝都で手に入る食材だけだと、本の中身が帝都の舌に寄ってしまいます。帝国には地方ごとの食文化があるでしょう。南方の港町には海産物があり、東部の山地には山菜がある。北方の辺境には、寒さの中で育った保存食がある。そこを知らないまま『食材の本質』なんて、胸を張って言えません」


 話を聞いていたソフィアさまは、カップの縁に指を添えたまま頷いた。


「つまり——旅に出たいのね」


「うん。帝国各地を巡って、地方の食材と料理法を自分の目で確かめたいんです。鍋の前で試して、本に戻す。そうすれば、帝都の厨房だけで通じる知識じゃなく、帝国全土で使える教科書になると思う」


「それだけ?」


 ソフィアさまの口元が、ふっとやわらぐ。笑われたというより、見透かされた。


「……それだけじゃありません。旅先で、エッセンスの知識も広めたい。地方の料理人たちにも、食材の本質を引き出す技術を伝えたいんです。帝都の研究所に閉じこもっていたら、エッセンスは広がりません」


「壮大ね」


「うん。ちょっと壮大すぎるかな」


「いいえ。あなたらしいわ」


 ソフィアさまは紅茶を受け皿へ戻した。磁器が小さく鳴って、表情から茶目っ気が消える。


「わたしも同行するわ。研究記録の担当として。それに——クラインヘルツ家の名前があれば、各地の有力者への紹介状が書ける。父に頼めば、宿の手配もできるでしょう」


「ソフィアさま……!」


「一人で行かせるわけないでしょう」



 * * *



 地図を机に広げ、旅の計画を立てた。


 地図の南に、港町ハーフェンシュタットの名を丸で囲む。リヒト粒(米)が手に入った場所で、海産物が豊富だ。

 そこから東部の山岳都市ベルクハイムへ向かう。薬草と山菜の産地で、アリアの故郷にも近い。

 北へ回れば辺境伯領。厳しい寒さの中で、保存食の文化が育っている。


 全行程で約二ヶ月。学院は夏季休暇に入るから、期間だけ見れば問題ない。


 地図より揉めたのは、誰と行くかだった。


「俺が同行する」


 カイゼル殿下が、開口一番にそう言った。


 研究所で地図を広げたまま話していたら、殿下はいつの間にか、いつもの椅子に腰を下ろしていた。扉の音すら記憶にない。


「殿下、お忙しいのでは——」


「夏季は公務が減る。フィンに一部を任せれば、二ヶ月の外遊は可能だ」


「外遊って、そんな大げさな——」


「皇子が地方を視察するのは、公務として認められている。食文化の調査も、立派な視察理由になる」


 書類に書ける建前まで、きっちり用意済みだった。

 エレナさまから入れ知恵されたのか、それとも殿下が自分で考えたのか。


「それに——」


 殿下の視線が、まっすぐわたしを捉えた。


「保守派の妨害があり得る。護衛が必要だ」


 護衛。喉まで出かけた反論が、そこでしぼんだ。研究所は火をつけられたばかりだ。旅先で同じようなことが起きない保証はない。


「殿下が護衛なんて、大げさすぎませんか……」


「俺以上の護衛がいるなら、言ってみろ」


 ——いない。帝国第二皇子にして氷の魔術師。これ以上の護衛は、たぶん帝国中を探しても見つからない。


「……分かりました。よろしくお願いします」


 殿下の口角が、一瞬だけ持ち上がった。見間違いにするには、近すぎた。



 * * *



「では、わたくしも参ります」


 フィンさんが、にこやかに名乗りを上げた。


「殿下のお世話は、わたくしの務めですので。それに、旅の手配なら得意ですよ」


「フィンさん、ありがとうございます」


「いえいえ。殿下とリーゼさんの旅に同行できるなんて、光栄です」


 穏やかな笑顔の端が、ちらりと殿下へ流れる。何かを飲み込んだような表情だった。

 殿下は黙って、視線を逃がした。


 ……何だろう、この空気。


「わたしも行く!」


 アリアが、ぴんと手を挙げた。


「リーゼさまのそばで勉強したいです! それに、東部のベルクハイムはわたしの故郷の近くです。道案内できます!」


「アリア、でもご家族に——」


「お手紙を書きます! 家にはお兄ちゃんがいるから、大丈夫です」


 十歳の弟子は、目をきらきらさせている。旅支度の話なのに、今にも靴ひもを結びそうな勢いだ。


「ネルは?」


 肩の上のネルに聞いた。


「聞くまでもない。お前のいる場所が、わしの場所だ」


「ありがとう、ネル」


「礼はいらん。腹が減ったら魚を買え」


 こうして、旅の一行が決まった。


 紙の端に、決まった役目を書き込んでいく。所長兼料理人はわたし。殿下の欄は、護衛兼……護衛、としか書きようがない。

 ソフィアさまは記録と渉外。フィンさんは旅の手配と殿下の世話。アリアには見習い研究生兼道案内を頼む。ネルは使い魔兼ご意見番——横で本人が、当然だと言いたげに鼻を鳴らした。


「研究所は、グスタフさんとヴェルナー教授に任せます。マルクスさんにも声をかけて、学院側の管理をお願いしてあります」


「万全だな」


 殿下が頷いた。


「出発はいつだ」


「来週の月曜日。準備ができ次第——」


「明後日にしろ」


「え、早くないですか?」


「善は急げだ」


 殿下の指が、肘掛けを一度だけ叩いた。急かしているというより、待ちきれない人の癖に見えた。

 旅が楽しみなのだろうか。

 氷の皇子の横顔に、ほんの少しだけ少年めいたものが混じって見えた。


「……分かりました。明後日」



 * * *



 出発の朝は、よく晴れた。


 帝都の東門に、馬車が二台停まっていた。蹄が石畳を掻き、御者が革紐を引き直している。

 一台は人用。もう一台は荷物用——というか、わたしの調理器具と食材用だ。


「リーゼ、荷物多すぎない?」


 見送りに来たミーナが、積み荷を見上げて呆れた顔をした。


「だって、旅先でも料理するもん。鍋は三種類必要だし、包丁は五本持っていくし、出汁用の鶏骨も——」


「料理人の旅荷って、こうなるのね……」


 グスタフも見送りに来ていた。


「リーゼ。各地の塩を必ず調べてこい。塩の質は地域で全く違う。宮廷の料理にも活かせるはずだ」


「はい。サンプルを持って帰ります」


「それと——体に気をつけろ。お前は無茶をする癖がある」


「気をつけます」


 グスタフは、ぶっきらぼうに手を振った。


 ヴェルナー教授が、分厚い手帳をわたしに渡した。革表紙が手にずしりと重い。


「各地の歴史的な食文化の概要をまとめておいた。参考にしなさい」


「教授、ありがとうございます!」


「よい旅を、リーゼ君。帝国の食の姿を、その目で見てきなさい」


 馬車に乗り込む。


 ソフィアさまとアリアが先に座っていた。フィンさんが御者台の横で、準備完了の合図を短く送る。

 殿下は——もう一台の馬車に乗ると思ったら、わたしたちの馬車に乗り込んできた。


「殿下?」


「こちらの方が都合がいい」


 何の都合かは聞かなかった。

 聞いたら、たぶん赤くなる。


 ネルがわたしの膝の上で丸くなった。


「行くか」


「うん。行こう」


 馬車が動き出した。


 車輪が石畳を叩き、帝都の門をくぐる。窓の外で街並みが後ろへ流れていった。

 やがて、広い平原が夏の光を抱えて広がる。


 車輪の音に合わせて、胸の奥が少しずつ浮き立つ。

 まだ見たことのない食材の匂い。知らない台所の火加減。そこで暮らす人たちの手つきと、食卓の声。


 前世で叶わなかった夢——世界中の食文化を、この目で見て回ること。

 今はそれを「帝国の調査」と呼びながら、わたしは道の揺れに身を任せていた。


「殿下」


「何だ」


「お腹が空いたら、言ってください。お弁当、作ってきましたから」


「……おにぎりか」


「はい。三種類。鮭と、梅と、ゼーベルの甘味噌」


 殿下は窓の外を見たまま、短く言った。


「鮭から頼む」


 ——旅は、おにぎりから始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ