【64】帝国を巡る旅の始まり
研究所が復旧して、一ヶ月が過ぎた。
煤の匂いは薄れたのに、机の上では『食材の本質』の原稿が前より高い山になっている。端に朱を入れ、ページをめくり、帝国学術院へ出すための体裁を整えていく。
ページの途中で、指が止まった。
食材が——足りない。
「帝都で手に入る食材だけだと、本の中身が帝都の舌に寄ってしまいます。帝国には地方ごとの食文化があるでしょう。南方の港町には海産物があり、東部の山地には山菜がある。北方の辺境には、寒さの中で育った保存食がある。そこを知らないまま『食材の本質』なんて、胸を張って言えません」
話を聞いていたソフィアさまは、カップの縁に指を添えたまま頷いた。
「つまり——旅に出たいのね」
「うん。帝国各地を巡って、地方の食材と料理法を自分の目で確かめたいんです。鍋の前で試して、本に戻す。そうすれば、帝都の厨房だけで通じる知識じゃなく、帝国全土で使える教科書になると思う」
「それだけ?」
ソフィアさまの口元が、ふっとやわらぐ。笑われたというより、見透かされた。
「……それだけじゃありません。旅先で、エッセンスの知識も広めたい。地方の料理人たちにも、食材の本質を引き出す技術を伝えたいんです。帝都の研究所に閉じこもっていたら、エッセンスは広がりません」
「壮大ね」
「うん。ちょっと壮大すぎるかな」
「いいえ。あなたらしいわ」
ソフィアさまは紅茶を受け皿へ戻した。磁器が小さく鳴って、表情から茶目っ気が消える。
「わたしも同行するわ。研究記録の担当として。それに——クラインヘルツ家の名前があれば、各地の有力者への紹介状が書ける。父に頼めば、宿の手配もできるでしょう」
「ソフィアさま……!」
「一人で行かせるわけないでしょう」
* * *
地図を机に広げ、旅の計画を立てた。
地図の南に、港町ハーフェンシュタットの名を丸で囲む。リヒト粒(米)が手に入った場所で、海産物が豊富だ。
そこから東部の山岳都市ベルクハイムへ向かう。薬草と山菜の産地で、アリアの故郷にも近い。
北へ回れば辺境伯領。厳しい寒さの中で、保存食の文化が育っている。
全行程で約二ヶ月。学院は夏季休暇に入るから、期間だけ見れば問題ない。
地図より揉めたのは、誰と行くかだった。
「俺が同行する」
カイゼル殿下が、開口一番にそう言った。
研究所で地図を広げたまま話していたら、殿下はいつの間にか、いつもの椅子に腰を下ろしていた。扉の音すら記憶にない。
「殿下、お忙しいのでは——」
「夏季は公務が減る。フィンに一部を任せれば、二ヶ月の外遊は可能だ」
「外遊って、そんな大げさな——」
「皇子が地方を視察するのは、公務として認められている。食文化の調査も、立派な視察理由になる」
書類に書ける建前まで、きっちり用意済みだった。
エレナさまから入れ知恵されたのか、それとも殿下が自分で考えたのか。
「それに——」
殿下の視線が、まっすぐわたしを捉えた。
「保守派の妨害があり得る。護衛が必要だ」
護衛。喉まで出かけた反論が、そこでしぼんだ。研究所は火をつけられたばかりだ。旅先で同じようなことが起きない保証はない。
「殿下が護衛なんて、大げさすぎませんか……」
「俺以上の護衛がいるなら、言ってみろ」
——いない。帝国第二皇子にして氷の魔術師。これ以上の護衛は、たぶん帝国中を探しても見つからない。
「……分かりました。よろしくお願いします」
殿下の口角が、一瞬だけ持ち上がった。見間違いにするには、近すぎた。
* * *
「では、わたくしも参ります」
フィンさんが、にこやかに名乗りを上げた。
「殿下のお世話は、わたくしの務めですので。それに、旅の手配なら得意ですよ」
「フィンさん、ありがとうございます」
「いえいえ。殿下とリーゼさんの旅に同行できるなんて、光栄です」
穏やかな笑顔の端が、ちらりと殿下へ流れる。何かを飲み込んだような表情だった。
殿下は黙って、視線を逃がした。
……何だろう、この空気。
「わたしも行く!」
アリアが、ぴんと手を挙げた。
「リーゼさまのそばで勉強したいです! それに、東部のベルクハイムはわたしの故郷の近くです。道案内できます!」
「アリア、でもご家族に——」
「お手紙を書きます! 家にはお兄ちゃんがいるから、大丈夫です」
十歳の弟子は、目をきらきらさせている。旅支度の話なのに、今にも靴ひもを結びそうな勢いだ。
「ネルは?」
肩の上のネルに聞いた。
「聞くまでもない。お前のいる場所が、わしの場所だ」
「ありがとう、ネル」
「礼はいらん。腹が減ったら魚を買え」
こうして、旅の一行が決まった。
紙の端に、決まった役目を書き込んでいく。所長兼料理人はわたし。殿下の欄は、護衛兼……護衛、としか書きようがない。
ソフィアさまは記録と渉外。フィンさんは旅の手配と殿下の世話。アリアには見習い研究生兼道案内を頼む。ネルは使い魔兼ご意見番——横で本人が、当然だと言いたげに鼻を鳴らした。
「研究所は、グスタフさんとヴェルナー教授に任せます。マルクスさんにも声をかけて、学院側の管理をお願いしてあります」
「万全だな」
殿下が頷いた。
「出発はいつだ」
「来週の月曜日。準備ができ次第——」
「明後日にしろ」
「え、早くないですか?」
「善は急げだ」
殿下の指が、肘掛けを一度だけ叩いた。急かしているというより、待ちきれない人の癖に見えた。
旅が楽しみなのだろうか。
氷の皇子の横顔に、ほんの少しだけ少年めいたものが混じって見えた。
「……分かりました。明後日」
* * *
出発の朝は、よく晴れた。
帝都の東門に、馬車が二台停まっていた。蹄が石畳を掻き、御者が革紐を引き直している。
一台は人用。もう一台は荷物用——というか、わたしの調理器具と食材用だ。
「リーゼ、荷物多すぎない?」
見送りに来たミーナが、積み荷を見上げて呆れた顔をした。
「だって、旅先でも料理するもん。鍋は三種類必要だし、包丁は五本持っていくし、出汁用の鶏骨も——」
「料理人の旅荷って、こうなるのね……」
グスタフも見送りに来ていた。
「リーゼ。各地の塩を必ず調べてこい。塩の質は地域で全く違う。宮廷の料理にも活かせるはずだ」
「はい。サンプルを持って帰ります」
「それと——体に気をつけろ。お前は無茶をする癖がある」
「気をつけます」
グスタフは、ぶっきらぼうに手を振った。
ヴェルナー教授が、分厚い手帳をわたしに渡した。革表紙が手にずしりと重い。
「各地の歴史的な食文化の概要をまとめておいた。参考にしなさい」
「教授、ありがとうございます!」
「よい旅を、リーゼ君。帝国の食の姿を、その目で見てきなさい」
馬車に乗り込む。
ソフィアさまとアリアが先に座っていた。フィンさんが御者台の横で、準備完了の合図を短く送る。
殿下は——もう一台の馬車に乗ると思ったら、わたしたちの馬車に乗り込んできた。
「殿下?」
「こちらの方が都合がいい」
何の都合かは聞かなかった。
聞いたら、たぶん赤くなる。
ネルがわたしの膝の上で丸くなった。
「行くか」
「うん。行こう」
馬車が動き出した。
車輪が石畳を叩き、帝都の門をくぐる。窓の外で街並みが後ろへ流れていった。
やがて、広い平原が夏の光を抱えて広がる。
車輪の音に合わせて、胸の奥が少しずつ浮き立つ。
まだ見たことのない食材の匂い。知らない台所の火加減。そこで暮らす人たちの手つきと、食卓の声。
前世で叶わなかった夢——世界中の食文化を、この目で見て回ること。
今はそれを「帝国の調査」と呼びながら、わたしは道の揺れに身を任せていた。
「殿下」
「何だ」
「お腹が空いたら、言ってください。お弁当、作ってきましたから」
「……おにぎりか」
「はい。三種類。鮭と、梅と、ゼーベルの甘味噌」
殿下は窓の外を見たまま、短く言った。
「鮭から頼む」
——旅は、おにぎりから始まった。




