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【63】灰の中から

 朝の光は容赦がなかった。

 研究所の惨状を、隅まで白々と照らしていた。


 壁は煤で黒く汚れ、焦げた紙と濡れた木の匂いが鼻の奥に張りつく。書架は半分が焼け落ち、天井からは氷柱が何本も垂れていた。殿下の消火の痕だ。床は灰と水を吸って、踏むたびに靴底の下でぐちゃりと鳴った。


 作業台だけは、殿下の氷魔法に守られたのか、かろうじて形を残していた。

 実験ノートが数冊。食材サンプルが一部。助かったものを拾い上げる指が、灰で黒くなる。


 それでも——失くしたものの方が、ずっと多い。


 食材の標本コレクションは、札だけを残して崩れていた。エルヴィンの研究ノートの断片も、ヴェルナー教授が見つけた百年前の文献も、端から炭になっている。

 そして、『食材の本質』の原稿。約四割。


 特に第五章だった。ネルが口述してくれた、エルヴィンの食魂理論。

 あの章は、ネルの百年間の記憶そのものだった。


「ネル」


 研究所の入口に腰を落として、ネルは黙ったまま室内を見つめていた。灰の匂いを吸い込むたび、喉がざらつく。


「もう一度、できる? 第五章。口述」


 ネルはすぐには答えなかった。焼けた梁の先から、水滴が落ちる。ぽたり、と灰に滲んだあとで、ようやく口を開いた。


「……全てを正確に思い出せるかは、分からん。百年前の記憶だ。一度言葉にした時は、記憶を手繰り寄せることができた。だが、同じ精度でもう一度できるかは——」


「完璧じゃなくていい。思い出せる分だけでいい」


「……分かった」


 ネルの翡翠色の目が、こちらを射た。

 悔しさで濁っていた。けれど、沈んではいない。


「やるぞ。馬鹿弟子」


「うん。やろう、ネル」



 * * *



 復旧作業は、その日の午前中から始まった。

 真っ先に駆け込んできたのは、ミーナだった。


「リーゼ! 大丈夫なの!? 怪我、どこ!?」


 寮で朝一番に聞いて、飛んできたらしい。肩で息をして、髪も上着も乱れていた。


「大丈夫。火傷だけ」


「だけって言わない! 手、見せて!」


 ミーナはわたしの右手をつかみ、包帯をほどいて巻き直してくれた。

 殿下の氷魔法で冷やしてもらったおかげで、火傷は軽い。


「ミーナ、ありがとう。でも今はそれより、掃除を——」


「任せて!」


 ミーナは泣きそうな顔で、無理やり笑った。

 それからモップとバケツをつかみ、灰の水たまりへ突っ込んでいった。


 モップの水が二杯目になるころ、ソフィアさまが到着した。


「原稿の被害状況を確認するわ。見せて」


 ソフィアさまは焦げた原稿を一枚ずつめくった。崩れそうな端を爪で押さえ、読めるページと読めないページを仕分けていく。


「第一章と第二章は、ほぼ無事ね。第三章は後半が焼けているけれど、序盤は読める。第四章は……半分。第六章のレシピ集は、奇跡ね。ほとんど残っているわ」


「第五章は……」


「三ページだけ。残りは、全て灰ね」


 ソフィアさまの声は事務的だった。けれど、紙を押さえる指先だけがわずかに震えていた。

 あの原稿を、一字一字清書したのは彼女だ。


「ソフィアさま。第五章は、わたしとネルで書き直す。第三章と第四章の欠損部分は、わたしの記憶で復元できる。前世の——じゃなくて、独学で培った知識だから、頭の中には残ってる」


「そう。なら、第一章と第二章はわたしが清書し直すわ。煤で汚れたところは、このまま残せないもの」


「ありがとう……」


「お礼はいいわ。わたしの仕事よ」


 ソフィアさまは鞄から新しい紙の束を取り出した。クラインヘルツ家の紋入りの上質な紙だ。白さが、煤けた部屋でやけに目立つ。


「今回は、これを使いなさい。耐火処理がしてあるの。クラインヘルツ家の重要文書用の紙よ。燃えにくいわ」


「えっ、そんな高価なもの——」


「父が寄付してくれたの。『エッセンス研究所への投資だ』って」


 クラインヘルツ侯爵が。

 あの厳格な侯爵さまが、この研究所に。


「……ありがたい」


「感謝は後で手紙でどうぞ。今は手を動かして」



 * * *



 昼を過ぎてから、ヴェルナー教授が姿を見せた。


 教授は焼け焦げた文献の残骸の前で膝を折り、しばらく無言だった。

 あの文献は、教授が長年の研究で発掘した貴重な資料だった。


「……惜しい。実に惜しい」


 教授は溜息をつき、灰のついた指で眼鏡を押し上げた。

 次の瞬間には、もう微笑んでいた。


「だが、わたしの記憶は燃えていないよ。序章の歴史記述は、全て頭の中にある。書き直そう」


「教授……」


「歴史学者を甘く見てはいけないよ、リーゼ君。わたしたちは、記録が失われることに慣れている。戦争でも、火災でも、弾圧でも——歴史は何度も燃やされてきた。だが、人の記憶がある限り、歴史は蘇る」


 教授は持ってきた鞄を開き、何冊かのノートを作業台に並べた。


「序章の草稿は、実は自室にも控えがある。清書前の下書きだがね。これを基に、もう一度書く」


「ありがとうございます!」


 午後三時、グスタフが研究所の入口に立った。


 白い料理服のまま、宮廷から直接来たらしい。袖に厨房の匂いをまとったまま、焼け焦げた研究所を見て目を細めた。


「第六章のレシピ集は残っているのか」


「はい。ほぼ全部」


「なら、不足しているレシピがあれば俺が書く。俺の厨房でも試作した料理は、手順まで全部覚えている」


「グスタフさん……」


「何だ、その顔は。俺はお前の研究チームの一員だろう。チームの仕事が燃えたなら、直す。当然だ」


 グスタフは腕を組むと、壁際の竈を覗き込んだ。火口に指をかざし、煤を払う。

 竈は煤で汚れていたが、構造は無事だった。


「竈は使える。明日から、ここで実験を再開できる」


 日が傾くころ、アリアも来た。


 小さな体で、焼け焦げた食材サンプルの残骸を丁寧に片付けていた。欠けた瓶を布で包み、黒くなった札を拾い集める。

 泣きそうな顔のまま、それでも手は止まらない。


「リーゼさま。わたしにできることは、少ないかもしれません。でも、お掃除とか、食材の整理とか——何でもします」


「ありがとう、アリア」


「あと、あの——」


 アリアが、自分のノートを取り出した。

 わたしが教えた内容を、アリアなりにまとめたノートだ。子供の丸い字で、びっしりと書き込まれている。


「リーゼさまが教えてくれたこと、わたし、全部ノートに書いてました。第二章の内容の一部は、ここにあります」


 わたしはアリアのノートを受け取り、表紙についた煤を親指で払った。目頭が熱くなる。


 教えたことが、別の場所に残っていた。

 丸い字の一行一行が、灰の中から顔を出しているみたいだった。


 ネルが言っていたことが、やっと腹に落ちた。

 ひとりの頭に閉じ込めた知識は、燃えればそこで終わる。誰かに渡した知識は、別の手の中で息をする。



 * * *



 三日後。


 研究所は、どうにか息を吹き返した。


 完全に元通りではない。壁の煤は残っているし、書架はまだ修理中だ。

 でも、竈は使える。作業台は清潔になった。水場は動く。


 そして、原稿も戻りつつあった。


 第一章と第二章は、ソフィアさまの清書で完全に復元された。

 第三章と第四章は、わたしの記憶とアリアのノートを突き合わせた。欠けたところを埋めていくうち、一部は以前より詳しくなった。

 第五章は、ネルの口述で再構成中だ。前回と完全に同じではない。それでもネルは、眉間に皺を寄せて「前回より正確かもしれん」と言った。記憶は、二度目の方が深く掘れることがあるらしい。

 第六章は、グスタフの記憶で補完された。新しいレシピも追加された。

 序章は、ヴェルナー教授の下書きから完全に復元できた。


 失われたものはある。

 けれど、取り戻せたものの方が多い。

 しかも、継ぎ直した跡のぶんだけ、前より強くなっている。


「一人じゃ無理だった」


 新しい原稿の束を前に、わたしは呟いた。紙の端はまだ少し湿っていて、指先に冷たい。


「当然だ」


 ネルが棚の上から言った。


「エルヴィンは一人だった。だから、全てが失われた。お前は——一人ではない」


「うん」


 研究所の扉が開いて、殿下が入ってきた。

 今日は、ついに言い訳を連れていなかった。


「復旧したか」


「はい。みんなのおかげで」


 殿下は部屋を見渡し、小さく頷いた。


「警備は強化した。二度と同じことは起きない」


「ありがとうございます」


「……原稿は?」


「書き直しました。前より、良いものになりました」


 殿下の口角が、かすかに上がった。


「そうか」


 それだけ言って、殿下はいつもの椅子に座った。

 今日の言い訳は、本当になかった。ただ、ここにいるだけ。


 でも、それでいい。


 みんなが、ここにいる。

 紙面には、ソフィアさまの美しい文字が並んでいる。欄外にはヴェルナー教授の細かな補足。グスタフの手順は、厨房で鍋を振る音まで聞こえてきそうだった。床はミーナが磨き、作業台の隅にはアリアの丸い字のノートが置かれている。ネルは棚の上で目を光らせ、殿下は椅子に腰かけたまま、何も言わずに原稿を見ていた。


 一人じゃ、ここまで戻せなかった。

 今、紙の上には、いくつもの手の跡がある。


 煤の残る作業台で、ペンを握り直す。

 灰の匂いが残っていても、次の行は書ける。

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