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【74】最後の話、最後の樽

 翌朝、ロレンツォさんの小屋の戸を押すと、潮より先に乾いた布の匂いが来た。


 ロレンツォさんは、着替えていた。


 いつもの、塩で白く滲んだ作業着ではない。紺色の、きちんとした漁師の正装。胸元の合わせ目まで乱れがない。

 白い髪も、櫛で撫でつけられていた。


「ロレンツォさん」


「ふん。今日は特別な日だ」


「特別な日……?」


「最後の話をする」


 ロレンツォさんは椅子を引き、テーブルに腰を下ろした。

 わたしも向かいに座る。木の天板は、朝の冷えをまだ残していた。

 ネルは肩の上で、しっぽの先だけを振っている。


 殿下とフィンさんは外で待っていた。

 ロレンツォさんが、「最後の話は、ガキだけにする」と譲らなかったからだ。


「リーゼ」


「はい」


「お前さん、先生の――エルヴィンの、後継者になる気だな」


「はい」


「ふん」


 ロレンツォさんは革表紙のノートを持ち上げ、テーブルへ置いた。

 ごとり、と小さな音がした。


「これを、お前さんに渡す」


「ロレンツォさん――」


「曾じいさんが、先生から教わったすべての記録だ。わしの父さんが、わしに渡したように。本当なら、わしの息子に渡すはずだったが」


「お子さんは――」


「いない」


 短い答えだった。ロレンツォさんは目を伏せない。


「わしは独り身だ。妻も、子も、いない。漁と樽だけで食ってきた」


「……」


「だから、このノートはお前さんに渡す。先生の言葉を本にする時、役に立てろ」


 わたしは両手を出し、ノートを受け取った。


 革は古く、手脂で鈍く光っていた。指の腹に、誰かが何度も開いた跡の柔らかさが残る。


「ロレンツォさん。本当に、いいんですか」


「いい」


「これは、ロレンツォさんの家族の――」


「家族?」


 ロレンツォさんは鼻で息を吐き、首を振った。


「先生の言葉だ。家族のものじゃない。先生が、四代後の誰かへ繋ぐつもりで、書いた言葉だ」


 ロレンツォさんの視線が、まっすぐわたしに来た。


「お前さんが、その『四代後の誰か』だ。先生が待っとった、銀の髪の小娘だ」


「……」


「ノートも、樽も、お前さんに渡す」


「樽――」


 ロレンツォさんは杖を取って立ち上がった。

 九つの樽の前を、木の床を鳴らしながら歩く。


 百年の樽の前で、杖の音が止まった。


「これを、お前さんに譲る」


 椅子から立つ拍子に、膝が天板へ当たりかけた。

 胸の奥が、ひやりと縮む。


「ロレンツォさん、それは――」


「先生が、曾じいさんに仕込ませた樽だ。お前さんのもとに戻る方が、筋だ」


「だめです。こんな大切なもの――」


「ガキ」


 低い声だった。


「お前さん、わしの覚悟を無下にする気か」


 わたしは口を噤んだ。


 ロレンツォさんは樽の胴に手を置いた。節の浮いた指が、木目を確かめるように動く。


「百年、ここにいた。十分長くいた。次の場所に行く時だ」


「次の場所……」


「お前さんの研究所だ」


 ロレンツォさんが、片頬で笑った。


「百年前、先生はこの樽をハーフェンシュタットに置いた。今度はお前さんが帝都に持ち帰る。樽がまた旅をする」


「ロレンツォさん」


「百年後、誰かが、またお前さんの所に来るかもしれん」


 ロレンツォさんは目尻を細めた。


「その時、この樽が、また別の所へ旅立てばいい」


 目頭が熱くなった。

 喉まで上がったものを、唇を噛んで押し戻す。


「リーゼ」


「はい」


「泣くな。漁師の前で泣くな」


「……すみません」


「だが、ありがとう、ぐらいは言うとけ」


「……ありがとうございます。ほんとうに、ありがとうございます」


 わたしは腰から深く頭を下げた。ノートを抱えた腕に力が入る。


 ロレンツォさんは樽の側面を、しわだらけの手で撫でた。


「樽。お前はこの娘と行け。新しい仲間ができるぞ。エッセンス研究所、っていう、変な所らしい」


 樽が――たぶん、答えた。

 わたしには聞こえない、樽の言葉で。



 * * *



 陽が高くなる頃、わたしはソフィアさまと向き合っていた。


「百年の樽の輸送、どうしましょう」


「専用の馬車を仕立てるわ。揺れを殺すようにクッション材を詰めて、樽が暴れないよう固定する。御者も、信頼できる人を選ぶ」


「お願いします」


「それと、ロレンツォさんから譲り受けた証文を書いてもらって。後で誰かに盗品扱いされたら面倒よ」


「分かりました」


 ソフィアさまは話しながら、もう紙の端に必要な文言を書きつけていた。相変わらず、手が早い。


「ソフィアさま。もう一つ、相談です」


「何?」


「東港組合のために、何かできることはないかな」


「ああ、それね。すでに動いてるわ」


 ソフィアさまは書類の束をテーブルに置いた。角がきれいに揃っている。


「東港の魚醤を、帝都の高級店に独占的に卸す契約案よ。ロレンツォさんの樽をブランドにする。レーマンの安売りには、『質と歴史』でぶつける」


「契約相手は――」


「クラインヘルツ家」


 ソフィアさまは、にこりと笑った。


「父に頼んだわ。父は最近、わたしの言うことを何でも聞いてくれるから」


「ソフィアさま――」


「打算もあるわ。クラインヘルツ家にとっても、新しい高級食材ルートは商売になるもの」


「でも――」


「東港組合は、これでレーマンの圧力に屈しなくて済む。少なくとも、十年は」


 わたしはソフィアさまに深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼はいいわ。あなたの料理がもっと早く世界に届くように、わたしの手でできることをしているだけよ」


 冷めかけた紅茶の縁を見つめた。

 こういう手を、ソフィアさまは当然みたいに差し出す。



 * * *



 夕方には、ソフィアさまが書いてくれた契約案を胸に抱え、もう一度ロレンツォさんの小屋へ向かった。


「ロレンツォさん。これを見てください」


 ロレンツォさんは契約案を受け取り、長いこと読んだ。

 紙をめくる音だけが、小屋に残る。


 やがて、首を振った。


「リーゼ」


「はい」


「これは、お前さんの提案か」


「ソフィアさまの提案です。でも、わたしも同意しています」


「クラインヘルツ家、か。あの貴族の家か」


「はい」


 ロレンツォさんは深く息を吐いた。吐息に、樽の香りが混じる。


「断る、と言いたい」


「……」


「だが、わしはもう年だ。次の代を考えんといかん」


 ロレンツォさんは契約案をテーブルに戻した。


「東港組合に相談する。わしが勝手に決めることじゃない」


「もちろんです」


「組合が賛成すれば――わしは判を押す」


「ありがとうございます」


「礼は、いらん」


 ロレンツォさんは目を細めた。


「お前さん、本当に料理人か。商人みたいに頭が回るな」


「全部、ソフィアさまの知恵です」


「あの、しっかりした娘っ子か。あの娘もいい娘だな」


「はい。大事な親友です」


 ロレンツォさんは頷いた。


「お前さんには、いい仲間がおる」



 * * *



 日が落ちると、港の倉庫に灯りが入った。


 わたしと殿下と、ロレンツォさんと、東港組合の漁師たちで、ささやかな送別の宴を開いた。


 中を皆で片付け、木箱を寄せて即席の食堂にした。


 わたしは別れの料理を作った。


 大鍋では魚介スープがぐらぐら煮え、貝の殻が小さく鳴った。

 炊いたリヒト粒は、手水をつけて握る。熱が掌に移るたび、形を直した。

 漬物には、ロレンツォさんの百年の樽の魚醤を一滴。香りが立った瞬間、漁師たちの顔がこちらを向いた。


 見慣れない丸い握り飯に、漁師たちは目を丸くした。


「丸い、握り飯か」


「リヒト粒をこうやって食うんか?」


「美味そうじゃ、これ」


 大きな手がおにぎりを取る。

 海で焼けた指が白い粒を包み、誰かが一口かじった。


 ……それから、皆が黙々と食べた。

 米とスープに、港の男たちの口まで塞がれてしまったみたいだった。


 ロレンツォさんは椀のスープを飲み干し、膝の上に置いた。


「リーゼ」


「はい」


「お前さんの料理は――百年の樽と同じだ」


「え?」


「中身はシンプル。技は深い。心は伝わる。それだけだ」


 ロレンツォさんが目を細めた。


「ええ料理人だ、お前さん」


 唇を噛んだ。

 奥歯に力を入れる。


 でも、泣かなかった。

 漁師の前で、泣かない。

 そう約束したから。


「ロレンツォさん、また来ます」


「来い」


「お元気で」


「ふん。お前さんも無茶するな」


 ロレンツォさんは、いつものぶっきらぼうな声で言った。


「樽を運ぶ時、丁寧に運べ。途中で割ったら、わしはお前さんを許さん」


「絶対に、割りません」


 漁師たちがどっと笑った。

 わたしも笑った。

 殿下も――口の端を、わずかに上げた。



 * * *



 宴の後も眠れず、宿の屋上へ出た。


 船の灯火が、黒い水の上で揺れている。


 明日の朝、わたしたちはハーフェンシュタットを発つ。


 次の目的地は――草原。

 ユーリアという、遊牧民の族長がいる、と聞いている。


 肩のネルが、ぽつりと言った。


「リーゼ。お前さんは、人を変えるな」


「変える、ですか」


「ロレンツォは、十年前の頑固一徹のあいつとは別人だ」


 ネルは海を見ていた。しっぽが、わたしの襟をかすめる。


「お前さんが来た。頭を下げた。料理を運んだ。それだけで、あいつの百年が動いた」


「ネル」


「エルヴィンも、そうだった」


 ネルは目を細めた。


「あの男も、自分の力に気がつかんかった。料理を運ぶたびに、誰かの百年が動く――そういう、不思議な力だった」


 わたしは海を見つめた。


「ネル。わたしは、エルヴィンに近づいてますか」


「近づきすぎとる」


「え?」


「あの男は――色々、危ない人生を歩んだ」


 ネルはしっぽを揺らした。


「お前さんは、そうあって欲しくない」


 わたしはネルを撫でた。指の間に、夜風で冷えた毛が入る。


 潮風が髪を乱し、明日の道の匂いを運んできた。

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