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【59】旨味の教科書

 ある朝、インク壺の蓋が指先で固く鳴ったところで、わたしは腹を決めた。


 教科書を書こう。


 エッセンスの技術を、勘や奇跡のまま棚に置いておかない。誰が読んでも手を動かせるように、火加減、香り、舌に残る味の変化まで言葉へ落とす。

 前世の食品科学の知識を、この世界の食材に当てはめて——世界初の「食材科学の教科書」を作る。


 タイトルは、『食材の本質』。


 ……口に出してみると、ずいぶん大きく出たなと思った。


「いいんじゃないか。やれ」


 ネルは、乾いた薪をくべるみたいにあっさり言った。


「エルヴィンも、同じことを考えていた。研究ノートは山ほど残していたが、体系的にまとめる前に——時間が、なくなった」


 処刑されたから。

 ネルはその言葉だけ飲み込んだ。こちらには、飲み込んだ形まで見えた。


「ネル。エルヴィンのノートに残っていた内容、教えてくれる?」


「覚えている限りは」


「ありがとう。それが、この本の核になる」


 こうして、わたしの教科書執筆が始まった。



 * * *



 構成は、前世の食品科学の教科書を下敷きにした。


 第一章 食材の基本(素材の選び方、鮮度の見分け方)

 第二章 加熱の科学(温度帯による味の変化)

 第三章 旨味の原理(旨味成分の種類と相乗効果)

 第四章 調味の理論(塩、酸、甘、苦のバランス)

 第五章 エッセンスの基礎(食材の本質を引き出す心得)

 第六章 実践レシピ集


 全六章。

 前世の知識をそのまま写したところで、こちらの厨房では使えない。ゼーベルや鶏骨、こちらの厨房に並ぶ食材で、もう一度組み直す必要があった。


 問題は、量だ。


「リーゼ、これ全部手書きするの……?」


 ミーナが構成メモをつまみ上げ、目を丸くした。紙の端がぴらぴら震えている。


「この世界に印刷機はあるけど、原稿は手書きだから……うん、手書き」


「大変じゃない?」


「大変。だけど、やるしかない」


 それから毎晩、寮の部屋で机にかじりついた。


 朝は殿下の食事を作る。昼には研究所でアリアに教える。午後、グスタフと湯気の立つ鍋を覗き込み、エッセンスの匂いを確かめる。夜になると、指についた香草の匂いも落ちきらないまま、原稿用紙に向かった。

 睡眠時間は、すり鉢で削った胡椒みたいに減っていく。


 それでも、ペンが止まらない。

 頭の中で眠っていた知識が、沸いた鍋から泡立つように次々と浮かんでくる。


 ——ただし。


「リーゼ。あなたの字、読めないわ」


 三日後。ソフィアさまが原稿を持ち上げ、眉間にきれいな皺を寄せた。


「え?」


「これ、何て書いてあるの? 『タンパク質の熱変性について』? それとも『タコ八足の熟成について』?」


「タンパク質の熱変性です!!」


「……そうは見えないわね」


 わたしの字は、壊滅的に汚かった。


 前世から字が下手だった。研究者はレポートをパソコンで打てば済む。手で書くとなると、脳内の速度に指が追いつかない。

 この世界に転生しても、その悪癖だけはしぶとく残った。子供の手で大人の思考を書き殴るせいで、文字はますます煮崩れる。


「わたしが清書するわ」


 ソフィアさまが溜息をつき、袖口を上げた。


「え、いいの?」


「いいもなにも、このままでは誰にも読めないでしょう。わたしの字は、家庭教師に叩き込まれた侯爵家仕込みよ。任せなさい」


 ソフィアさまは羽根ペンを取り出すと、わたしの原稿を横に置き、さらさらと清書を始めた。


 その字は、美しかった。

 線は細く、余白は乱れない。一画一画が、刃を入れた寒天みたいにぴたりと決まっている。


「すごい……」


「当然よ。クラインヘルツ家の令嬢が字を書けなくてどうするの」


 ソフィアさまは清書しながら、内容にも容赦なく赤を入れた。


「リーゼ。この『旨味の相乗効果』の説明、もう少し噛み砕けない? 専門的すぎるわ。一般の読者が最初の段落で逃げる」


「えっと……グルタミン酸とイノシン酸が共存すると、旨味が——」


「それ。『グルタミン酸』って何? この世界の言葉で言いなさい」


「あ……」


 前世の用語が、つるっとそのまま出ていた。


「ゼーベルの甘味成分と、鶏骨の旨味成分が一緒になると、味が何倍にも強くなる。その仕組みのこと、です」


「それなら分かるわ。そう書きなさい」


 ソフィアさまの羽根ペンが余白を叩く。難しい言葉には線が引かれ、伝わる言い回しには小さな丸が付いた。

 わたしが持っている知識を、ソフィアさまは読める形に削り出してくれる。


 わたし一人では、絶対にこの形にはできない。



 * * *



 第一章と第二章を書き上げた頃、ヴェルナー教授が研究所を訪ねてきた。


「原稿を見せてもらえるかね」


 教授は老眼鏡を掛け、ソフィアさまが清書した原稿を机の端から端まで広げた。

 鼻先を紙に近づけ、頷き、首を傾げ、余白に細い字で書き込む。紙をめくる音だけが研究所に残った。


「素晴らしい。実に素晴らしい」


「ありがとうございます」


「だが、歴史的文脈が欠けている」


「歴史的文脈?」


「この本は、エッセンスの復興を目指すものだろう。ならば、なぜエッセンスが禁じられたのか、その歴史を読者に伝える必要がある。過去を知らずに未来は語れん」


 教授は眼鏡を押し上げた。レンズの奥の目は、いつもの穏やかさを残したまま鋭くなっている。


「わたしが担当しよう。百年前のエルヴィンの時代から、現在に至るまでの食の歴史。帝国における魔法料理の発展と、エッセンスの弾圧。その経緯を、序章として書く」


「教授……」


「わたしは歴史学者だ。これはわたしの仕事だよ、リーゼ君」


 教授は穏やかに微笑んだ。


 ネルも教授の隣に座り、尻尾の先で机を一度叩いた。


「わしも協力する。エルヴィンが残した知識のうち、お前がまだ知らないものがある」


「え、まだあるの?」


「お前に教えたのは基礎だけだ。エルヴィンの研究は、もっと深いところまで進んでいた。食材の記憶——食材が育った環境や、それに関わった人間の想いが、味に影響を与えるという理論。あいつは、それを『食魂理論』と呼んでいた」


「食魂理論……」


「百年前は異端扱いされた。だが、お前の記憶のスープが、その理論の正しさを証明している」


 記憶のスープ。

 金色の湯気、舌に触れた瞬間に胸の奥へ流れ込む幸福な記憶。その理由に、名前があった。食魂理論。


「第五章に入れる。エルヴィンの言葉を、可能な限り正確に。わしが口述するから、書き取れ」


「うん!」


 わたしは新しい紙を引き寄せ、ペン先をインクに浸した。


 ネルが語り始めた。

 百年前の賢者の言葉を、一語一語、丁寧に。


 声は静かだった。けれど、ところどころで喉の奥が震える。

 百年間、誰にも渡せなかった言葉が、ようやく紙の上へ移っていく。


 わたしは一字も漏らさないように、必死でペンを走らせた。


 ——字は、たぶん汚かったけれど。



 * * *



 一ヶ月後。


 原稿は、全六章・百二十八ページに達した。


 第一章から第四章には、わたしの食品科学の知識をこの世界の食材で使えるように詰め込んだ。

 第五章には、ネルが語ったエルヴィンの食魂理論。

 第六章には、グスタフが鍋の前で唸りながら組み立てた実践レシピ集——伝統的な魔法料理とエッセンスを融合させた、新しいレシピの数々。


 序章は、ヴェルナー教授による食の歴史。

 清書と編集は、ソフィアさま。


 一人で書き始めたはずの教科書は、いつの間にか、みんなの手の跡が残る本になっていた。


「出版、できるかな」


 原稿の束を前に、わたしは呟いた。紙の山は、思っていたよりずっと厚い。


「出版には、帝国学術院の承認が必要よ」


 ソフィアさまが言った。


「ヴェルナー教授の推薦があれば、審査には通る。でも、保守派が妨害する可能性はある」


「うん。でも——」


 わたしは原稿に手を置いた。


 百二十八ページの紙の束。

 前世と今世の知識を、インクの中へできる限り押し込めたもの。


「この本には、価値がある。食材の本質を理解すれば、魔力がなくても美味しい料理が作れる。それを証明する本だもん」


「強気ね」


「食べ物のことになると、わたし、譲れないんだ」


 ソフィアさまが、ふっと笑った。


「知ってるわ。それが、あなたの一番いいところよ」


 原稿の上で、ネルがぐるると喉を鳴らした。


「出版の前に、もう一度全体を見直せ。誤字がある」


「え、どこ?」


「第三章の十七ページ。『旨味』が『旨昧』になっている」


「うわ……ソフィアさま、すみません、修正お願いします……」


「はいはい」


 狭い研究所で、小さなチームが、一冊の本に手を汚している。


 大げさだと笑われてもいい。

 前世で読んだ教科書の角、書き込みだらけのページ、実験台に置いた本の重み。あれが、わたしの手を動かしてきた。


 この紙束もいつか、誰かの厨房で火を強くする。

 そう信じて、もう一度インク壺の蓋を開けた。

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