【58】初めての弟子
エッセンス研究所が正式に発足して、五日目の朝。
わたしは作業台に向かい、ゼーベルを火にかけていた。温度を変えると、甘味の立ち上がりがどこで変わるのか。測った数字をノートに落とし、匙の先で含んでは舌の奥に残る味を確かめる。
四十度、五十度、六十度——火加減を変えるたび、ゼーベルの甘味成分がどう顔を出すのかを記録していく。
地味な作業だ。
派手な魔法も、光る奇跡もない。鍋の湯気を浴びて、舌に残る甘さを拾い、同じことを何度も繰り返す。
けれど、これが科学だ。仮説を立て、実験して、結果を書き残す。前世では手に馴染んでいた手順を、この世界の台所で鍋に戻している。
「リーゼ」
入口から、ソフィアさまの声がした。振り向くと、彼女の後ろに——小さな影が隠れるように立っていた。
十歳くらいの女の子。
栗色の髪を二つに結って、大きな茶色い目をしている。服はところどころ継ぎ当てだらけで、靴の底は薄く削れていた。背負った布袋には道中の土埃がこびりついている。
明らかに——平民の子だ。
「この子が、あなたに会いたいと言って学院の正門に来たの。門番は追い返そうとしたのだけれど、どうしてもリーゼ・ヴァイスフェルトに会わせてくれと……」
女の子が、一歩前に出た。
膝は震えている。けれど、布袋の紐を握った手に力を込め、目だけは真っ直ぐわたしを見ていた。
「あ、あの。わたし、アリアといいます。東のヴァルトハイム村から来ました」
ヴァルトハイム。帝都から馬車で三日以上かかる、東部の小さな村だ。
「ひとりで来たの?」
「はい。歩いて、四日かかりました」
四日。
十歳の子が、街道を四日、一人で歩いてきた。
「どうして……」
「リーゼさまのことを聞いたんです。旅の商人が、わたしの村で話していました。帝都に、魔力がないのにすごい料理を作る女の子がいるって。魔力がなくても、食べ物の力を引き出せる技を持っているって」
アリアの目に、ぱっと灯りが差した。
「わたし、魔力がゼロなんです。測定で、一度も魔力が出たことがない。だから学校も行けなくて、村では——」
声がそこで細くなる。アリアは唇を噛み、それでも続きを押し出した。
「『役立たず』って、言われてて」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
その言葉の冷たさを、わたしは知っている。
魔力がゼロ。聖女候補から落ちた。何の役にも立たない子供。
アリアの目の奥に、昔のわたしが立っていた。
「でも!」
アリアが顔を上げる。
「わたし、料理が好きなんです。お母さんが病気で、小さい頃からわたしが家族のご飯を作ってて。それで、気がついたことがあるんです」
「気がついたこと?」
「わたし……食べ物の味が、すごく分かるんです」
アリアは、布袋から小さな包みを取り出した。
固く結んだ布の端をほどくと、乾燥させたハーブが数種類、かさりと姿を見せた。
「これ、村の周りで採ったハーブです。みんなは同じ味だって言うんですけど、わたしには全部違う味がします。朝摘んだのと夕方摘んだのでも、味が違うんです。日向で育ったのと日陰で育ったのでも」
わたしは、思わず手を伸ばした。
ハーブの一つを指の腹で揉み、匂いを嗅ぐ。乾いた葉の奥から、青い香りがかすかに立った。
——確かに、差がある。
日照量の違いで精油成分の含有量が変わる。前世の知識で言えば、ごく当たり前のことだ。
でも、この世界では——魔法で味を感じ取るのが常識で、舌だけでこの差を識別できる人間は、ほとんどいない。
カイゼル殿下を思い出した。
殿下もまた、異常なほどの味覚を持っている。あらゆる味が、鮮明すぎるほど分かる人。
ただ、殿下の舌は鋭すぎる刃みたいに自分を傷つけていた。
アリアの舌は、痛みより先に発見へ向かっている。
「リーゼさま。わたしを——弟子にしてください!」
アリアが、深々と頭を下げた。
わたしは——困った。
弟子。
わたしが、誰かの師匠。
十三歳のわたしに、十歳の弟子。
* * *
「取るべきだな」
ネルが、作業台の上から言った。
アリアをソフィアさまに預けて、お茶とお菓子を出してもらっている間に、わたしはネルとこっそり相談していた。
「でも、ネル。わたし、人に教えた経験なんて——」
「グスタフに教えているだろう」
「あれは大人相手だし、食材科学の知識を伝えているだけで——」
「同じことだ。あの娘は、お前に似ている」
ネルの翡翠色の目が、わたしを見据える。
「魔力がなく、味覚が鋭い。食材に対する天性の感受性がある。エルヴィンにも、同じ資質があった」
「エルヴィンにも?」
「あいつも、食材の微妙な差を感じ取れる舌を持っていた。エッセンスの基本は、そこから始まる。魔力ではなく、味覚と感性で食材の本質に触れる力——それが、エッセンスの種だ」
ネルが、ふう、と息をついた。
「リーゼ。エッセンスを次の世代に伝えるなら、いつかは弟子を取らねばならない。お前一人では、百年前と同じだ。エルヴィンは、後継者を育てる前に死んだ。だから、エッセンスは途絶えた」
「……」
「同じ轍を踏むな」
ネルの言葉は、いつもより重かった。
後継者を育てなかった。だから、百年間、エッセンスは失われた。
エルヴィンの最大の失敗は、処刑されたことではなく——伝える相手を作れなかったこと。
「……分かった。やってみる」
「よし」
「でも、ネル。わたし、教えるの下手だよ? つい専門用語を使っちゃうし、早口になるし——」
「知っている。だから、いい訓練になる。教えることは、学ぶことだ」
ネルは、ぴょんとわたしの肩に飛び乗った。
「行け。弟子が待っている」
* * *
研究所に戻ると、アリアはソフィアさまの隣でクッキーを食べていた。
両手で持ったクッキーをかじり、目を丸くしてもぐもぐしている。年相応の幼さが、肩の力を抜かせた。
「アリア」
「は、はいっ」
びくっと背筋を伸ばす。口の端に、クッキーの欠片がついていた。
「弟子にする、なんて大げさなことは言えないけど——一緒に研究しよう。わたしも、まだ勉強中だから」
アリアの目が、みるみる潤んだ。
「ほ、本当ですかっ?」
「うん。でも、約束して」
「な、なんでも!」
「毎日ちゃんとご飯を食べること。お腹が空いていたら、舌も頭も働かない。分からないことは、黙って飲み込まないで必ず質問すること。あと——」
わたしは、アリアの目をまっすぐ見た。
「魔力がないことを、絶対に恥じないこと」
アリアの涙が、ぽろっとこぼれた。
「はい……はいっ!」
こうして、帝国エッセンス研究所は、二人目のメンバーを迎えた。
十三歳の所長と、十歳の研究生。
ネルとわたしの関係を思い出す、世にも奇妙な師弟関係だった。
* * *
アリアの教育は、最初の一歩から始めた。
「食材を触ってみて」
作業台に、五種類の食材を並べた。
ゼーベル、イムル芋、鶏肉、ルーテ(赤い根菜)、月光草。
アリアが、おそるおそるゼーベルに手を伸ばした。
「……冷たい。でも、皮の下に、ぬるいところがある」
「うん。それは水分が多い部分。水分が多い層は、比熱が高いから——あ、えっと」
つい専門用語が出た。アリアがきょとんとしている。
「つまり、温度が変わりにくいの。だから、外側は冷たくても、中の水分が多い部分はぬるく感じる」
「へえ……!」
「今度は、匂いを嗅いでみて。皮のまま、切らずに」
アリアがゼーベルに鼻を近づけた。
「甘い匂いがします。でも、鼻を離すとすぐ分からなくなります」
「正解。切る前のゼーベルは、辛味成分が細胞の中に閉じ込められているから、匂いは弱い。切ると細胞が壊れて——」
わたしがゼーベルにナイフを入れた瞬間。
「うわっ」
アリアが目をぱちぱちさせた。切り口から立った匂いに、肩が跳ねる。
「急に匂いが変わりました! 辛い! 目が——」
「そう。それが、食材の声だよ」
わたしは切り口をアリアに向けた。
「食材は切り方一つで、全然違う顔を見せる。その変化を感じ取れるアリアの舌と鼻は、すごい才能なんだよ」
アリアが、泣きそうな顔で笑った。
『役立たず』と言われ続けた力が、ここでは切り口の匂いを捕まえ、火加減を決める手がかりになる。
誰にも理解されなかった感受性が、ちゃんと仕事を持っている。
教えながら、わたし自身も気がついた。
自分の中にある知識を、言葉にして渡すのは——思った以上に難しい。
前世で「当たり前」だったことを、一つ一つ言語化しなければならない。
メイラード反応も、カラメル化も、乳化も、浸透圧も。
この世界にない概念を、この世界の言葉で説明する。
けれど、その面倒さが、わたし自身の理解も深めてくれる。
教えることは、学ぶこと。
ネルの言った通りだった。
「リーゼさま、次は何をしますか?」
アリアが、期待で身を乗り出している。
「次は——ゼーベルを、三つの温度帯で加熱してみよう。弱火、中火、強火。それぞれで、味がどう変わるか、アリアの舌で確かめて」
「はいっ!」
小さな研究所に、小さな弟子の元気な声が響いた。
ネルが棚の上から、目を細めて見ている。
その表情は——どこか、懐かしそうだった。
きっと百年前のエルヴィンも、誰かにこうして匙を渡したかったのだろう。
渡す相手がいれば、歴史は少し違う形をしていたかもしれない。
百年前と同じ沈黙を、ここに残すわけにはいかない。
わたしは鍋を火にかけ、アリアの前に匙を一本置いた。




