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【57】エッセンス研究所、設立します

 評議会の決定から、一週間が過ぎた。


 朝五時。まだ厨房の石床が夜の冷えを抱えている時間に、わたしは鶏の出汁をいつもより丁寧に引いていた。鍋の縁に浮いた灰色の泡をすくい、匙の背で白粥の固さを確かめる。ゼーベルの浅漬けは小皿で水気を切っておく。


 百年間禁じられていた、食材の本質を引き出す力——エッセンス。

 それが、公式に息を吹き返した。

 暫定とはいえ、わたしは帝国で唯一の「認可エッセンス使用者」になっている。


 すごいことのはずなのに、鍋の火加減も米の吸水も、そんな事情は待ってくれない。わたしの日常は、相変わらず湯気と包丁の音の中にあった。


 殿下は今日も無言で白粥を食べた。匙が椀の底を軽く鳴らし、空になった椀がわたしの前へ押し出される。


「もう一杯」


 それだけで、胸の奥がぽっと温まった。


 そうやって鍋の前に戻ったばかりの日常へ、昼休みに大きな手が差し込まれた。



 * * *



「研究所を作りなさい」


 昼休み。学院の中庭で、エレナ第一皇女殿下がそう告げた。


 わたしは口に運びかけていたパンを取り落とした。膝の上に落ちたそれを慌てて拾う。


「け、研究所?」


「エッセンス研究所よ。評議会の第三決定を覚えているでしょう? 『エッセンスに関する新たな研究機関の設立を検討する』——あれを実行するの」


 エレナさまは紅茶の水面を揺らしもせずに言った。天気の話でもしているみたいな顔だ。

 この方はどうして、人の人生を大鍋ごと火にかける話を、そんな涼しい声で持ってくるのだろう。


「あの、研究機関って……誰が運営するんですか」


「あなたに決まっているでしょう」


「わ、わたし!?」


 声が裏返った。隣のベンチで昼寝していたネルが、耳だけぴくりと動かす。


「エレナさま、わたし十三歳ですよ? つい最近十三歳になったばかりの、ただの学生ですよ?」


「年齢は関係ないわ。帝国法において、研究機関の長に年齢制限はない。それに、あなた以外にエッセンスを使える人間がいないのだから、他に適任者がいないでしょう」


 正論だった。正論すぎて、パンくずを払う手まで止まる。


 エレナさまはカップを置き、わたしをまっすぐに見た。

 赤茶色の瞳の奥で、盤面を読む光が動く。けれど冷たいだけではない。退かない熱も、そこにあった。


「リーゼ。評議会の決定は『暫定的』なものよ。いつ覆されてもおかしくない。保守派はまだ力を持っている。今のうちに、エッセンスの有用性を学術的に証明する必要がある。そのためには、正式な研究機関が不可欠」


「学術的に……」


「あなたが作る料理は素晴らしい。でも、個人の技能だけでは政治の場で折られる。『帝国公認の研究所が、科学的手法でエッセンスの安全性と有用性を実証した』——その事実が必要なの。分かる?」


 分かってしまう。

 胃の奥で、前世の食品科学者だった記憶が苦くうなずいた。どれほど美味しい料理でも、エビデンスがなければ政策は動かない。


「……分かりました」


「よろしい」


「でも、わたし一人では無理です」


「当然よ。人を集めなさい。予算は、わたしとカイゼルで工面する。場所は——」


 エレナさまは扇子を開き、ぱたぱたと風を送った。その口元が、いかにも何かを隠している形に笑う。


「学院の地下に、使われていない部屋があるわね」



 * * *



 学院の地下一階。

 東棟の突き当たり。埃に白く縁取られた扉の前で、わたしは足を止めた。


 ヴェルナー教授が鍵束を鳴らし、古い鍵を差し込む。

 木製の重い扉は、押されるのを嫌がるみたいにきしんだ。隙間から、湿った石と古い紙の匂いが流れ出す。


「ここは元々、百年前の魔術実験室だった。エルヴィンが処刑された後、封鎖されてそのままだ」


 教授のランタンが、室内を黄色くなでた。


 広さは教室二つ分くらい。天井は低いけれど、石造りの壁はしっかりしている。奥の小窓から、細い外光が床に落ちていた。

 棚には古い書類が背を曲げて積もり、床の隅では蜘蛛の巣が揺れている。


 正直——ひどい有様だった。


「ここが……わたしの研究所」


「まぁ、掃除すれば使えるだろう。水場もある」


 教授が奥を指す。壁際に、石造りの水場が残っていた。

 蛇口をひねると、赤茶色の水が勢いよくしぶき、わたしの袖に点々と錆び色を飛ばした。


「……しばらく流さないと、錆びた水しか出ないわね」


 ソフィアさまが眉を寄せる。

 彼女もエレナさまに呼ばれて、ここに来ている。


「でもリーゼ、水場があるのは大きいわ。これなら調理もできる」


「そうだね。流しがあるなら、なんとかなる」


 わたしは靴裏で床の埃をこすりながら、部屋の中を歩いた。


 埃っぽい。暗い。広さは足りるけれど、立派とは言えない。

 宮廷の広い厨房に比べたら、物置みたいなものだ。


 それでも、胸のあたりが勝手に弾んだ。


 ここでなら、誰かの厨房を借りなくていい。

 わたし自身の火を置き、エッセンスを堂々と研究できる。


 百年前、エルヴィンが夢見て、手に入れられなかった場所。


「ネル」


 肩に乗っていたネルが、石壁をじっと見て目を細めた。


「……ここの壁、見覚えがある」


「え?」


「百年前。エルヴィンが、この部屋で実験をしていた時期がある。まだ禁止される前の話だ」


 ネルは棚の隅を見つめた。翡翠色の目が、ランタンの明かりとは違う遠さを映している。


「あいつは、ここで食材の本質を探求していた。壁に走り書きをして、鍋を振って、失敗しては笑って——」


 ネルの声が、かすかに震えた。


「百年後に、この部屋がまた使われることになるとはな」


「使わせてもらうよ、ネル。エルヴィンの研究を、ここで続ける」


 ネルは鼻を鳴らした。

 でも、尾の先が一度だけ、わたしの肩を軽く打った。



 * * *



 翌日から、掃除と整備が始まった。


 ミーナは誰より早くモップを担いできた。

「部屋の掃除なら任せて!」

 そう言って腕まくりをすると、返事を待たずに床をこすり出す。濁った水を絞るたび、バケツの中で埃が泥みたいに沈んだ。


 ソフィアさまは書架の前に陣取った。古い書類を一束ずつほどき、読めるものは残し、虫に食われた紙は脇へ避ける。

「クラインヘルツ家の図書室で鍛えた整理術、見せてあげるわ」

 口調は優雅なのに、紐を結び直す指は容赦なく速い。


 ヴェルナー教授は、埃まみれの書類の山から、エルヴィン時代の研究ノートの断片を見つけ出した。

「これは貴重だ……学術的価値がある」

 眼鏡の奥で目を輝かせ、くしゃみを一つしても手を止めない。


 わたしは調理設備の配置を考えていた。


 前世で学んだ実験室のレイアウトが、石壁と水場に重なっていく。火を使う場所は水場から近すぎても遠すぎても駄目だ。換気の流れを見ないと、煮込みの蒸気で紙が湿る。食材は日差しと湿気を避けて保管したい。


 壁の一面に棚を作れば、食材のサンプルを並べられる。中央には大きな作業台。包丁を置き、秤を置き、鍋も広げられる幅がいる。奥の水場の横には竈を——と、床に指で線を引いたところで。


「楽しそうだな」


 入口で声がした。

 振り向くと、グスタフが立っていた。


 白い料理服。腕を組み、眉間にしわを寄せて、研究所になりかけの部屋を見渡している。


「グスタフさん。どうしてここに?」


「エレナ殿下から話は聞いた。エッセンス研究所とやらを作るそうだな」


「はい」


「俺も参加する」


 あまりに早い返事だった。


「え?」


「何だその顔は。迷惑か」


「いえ、ありがたいです! でも、グスタフさんは宮廷料理長ですよね? お忙しいのでは——」


「午後の時間を使う。厨房は副料理長に任せればいい。それよりも——」


 グスタフは部屋の奥に置かれた古い竈へ目をやり、顎に手を当てた。


「お前が研究する内容を、俺は現場で実践する。理論と実務の橋渡しだ。それが、俺の役割だろう」


 言葉が喉で止まった。


 かつてわたしの敵だった人が、わたしの研究所の最初の大人のスタッフになろうとしている。

 この人は本当に、料理に対して嘘をつかない。


「……ありがとうございます。よろしくお願いします」


 グスタフはぶっきらぼうに頷いた。


「竈の設置は俺がやる。お前の設計は甘い。火の動線がなっていない」


「え、そうですか?」


「宮廷の厨房を三十年管理してきた俺を舐めるな。竈はこっちの壁沿いだ。排煙は小窓を利用する。こうすれば——」


 グスタフは床に膝をつき、指で埃の上へ線を引き始めた。竈の向き、薪を置く場所、鍋を運ぶ幅。叱るみたいな口調なのに、手元は正確だった。


 さすがは宮廷料理長。厨房の設計については、わたしよりずっと詳しい。


 わたしは「はい」と頷くしかなかった。

 知識では負けないつもりでも、経験では完全にグスタフさんが上だ。

 こうやって、チームで動くのか。



 * * *



 三日後。


 帝国魔術学院地下一階・東棟。

 扉に、真新しい木の看板が掛けられた。


 《帝国エッセンス研究所》


 ソフィアさまが書いてくれた、流麗な書体の看板。

 その下に、小さな文字で——


 《所長:リーゼ・ヴァイスフェルト》


「……本当に、わたしの名前が書いてある」


「当然でしょう。あなたが所長なのだから」


 ソフィアさまが微笑む。


 部屋は見違えるほど綺麗になっていた。

 白く塗り直された壁は、ランタンの明かりを柔らかく返す。棚には整理された書類と食材サンプルが並び、中央の大きな作業台は手のひらが映りそうなほど磨かれていた。グスタフが設計した竈では、試運転の湯がことこと鳴っている。


 小さな部屋だ。

 立派でもないし、最新の設備があるわけでもない。


 でも、ここが——わたしの城だ。


「ネル。ここで、エルヴィンの夢の続きを始めるよ」


 ネルは作業台の端に座り、部屋全体を見渡した。湯気がそのひげを白くかすめる。


「……上等だ。やってみせろ、馬鹿弟子」


 わたしは看板の文字を指でなぞってから、作業台へ戻った。

 十三歳。まだまだ子供だ。

 それでも、鍋の柄を握れる手がある。食材の声を聴ける耳がある。


 だから、始める。

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