表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
56/187

【56】皇子の宣戦布告

 帝国魔術評議会の大広間に、白い冷気が走った。


 カイゼル殿下が椅子を鳴らして立ち上がった瞬間、床石の継ぎ目から霜が這い、柱の彫りまで白く縁取られていく。

 誰かが息を呑んだ。吐き出し損ねた息が、薄い煙になって口元で揺れた。


「もう一度言ってみろ」


 殿下の声は静かだった。

 怒鳴らない。荒げもしない。ただ低く、刃を濡れ布巾で包んだように冷たい。

 それだけで、評議員たちは肩から動けなくなった。


「この者の力を封じる、と言ったな。撤回しないのか」


 評議長ヘルムート・フォン・ドルンシュタインは、六十代の老魔術師だ。

 白い髭を胸元まで垂らし、鷲みたいな目で人を見る。帝国の魔術秩序を守る番人として、三十年、この椅子に座り続けてきた男だった。


「カイゼル殿下。我々は帝国の魔術秩序を守る義務があります。魔力を介さぬ魔法現象は、帝国法第七十三条により禁止されて——」


「第七十三条は、百年前に食の賢者を処刑するため急造された悪法だ。それを根拠に、人一人の自由を奪うのか」


 胸の奥が、鍋肌を叩く匙みたいに鳴った。

 殿下は、そこまで調べていた。わたしの知らないところで。


「殿下、お気持ちは分かりますが——」


「分からんだろう」


 殿下が一歩、前へ出る。

 靴底の下から霜が放射状に広がり、床石の目地まで白く縁取った。


「この者は、俺の料理人だ。俺が食事を楽しめるようになったのは、この者のおかげだ。十八年間、食事が苦痛でしかなかった俺に、初めて『美味しい』という感情を教えてくれた者だ」


 評議員たちの列にざわめきが走った。

 第二皇子の味覚の問題は、宮廷では公然の秘密だった。知らないふりをするのが礼儀、という種類の秘密だ。


「この者の力が禁忌だと言うなら——俺の食事も禁忌か? 俺が美味いと感じることも、帝国法に反するのか?」


 声が消えた。


 言い方は乱暴だった。けれど、誰もすぐには噛みつけない。

 リーゼの料理を禁じることは、第二皇子の食事を取り上げることと、ほとんど同じなのだから。


「殿下。感情論で議論を——」


「感情論ではない。事実を述べている」


 殿下が、こちらを振り向いた。


「リーゼ。もう一杯、あのスープを作れ」


「え? 今、ここで?」


「ここでだ」


 わたしの前には、評議会に見せるため持ち込んだ調理道具が残っている。鍋も、匙も、小さな火口も、霜に縁を白くされながら並んでいた。

 殿下が何をさせたいのか、分かってしまった。


 エッセンスの光を、隠さずに見せるのだ。


「殿下……光りますよ? 金色に」


「構わん。むしろ、光らせろ。全力で」


 殿下の碧眼が、まっすぐにわたしを射抜く。

 恐れも迷いも見えない。差し出された信頼だけが、逃げ場をふさぐほどまっすぐだった。


「……分かりました」


 わたしは鍋をつかんだ。


 ネルは広間の隅で、身じろぎもせずに頷いた。ソフィアさまは傍聴席の縁を握り、フィンさんは扉を背にして薄く笑っている。

 ヴェルナー教授のペン先は紙から浮いたまま止まり、クラインヘルツ侯爵の視線だけが冷静に鍋へ落ちていた。


 視線が背中に刺さる。


 怖い。

 けれど取っ手の硬さは、台所でいつも握っているものだった。

 手のひらが覚えている。火加減、湯気、材料の重み。鍋の前なら、わたしは立っていられる。



 * * *



 わたしは、記憶のスープを作った。


 ゼーベル。月光草。竜の骨粉。

 凍えた大広間で、材料の匂いだけが台所の顔をしていた。


 涙の根に刃を入れる。繊維がぷつりと切れ、青い香りがまな板に滲む。

 月光草は沸かしすぎない。湯面が震えたところで沈め、緑の苦みが立つ前に火を細くする。

 竜の骨粉は指先で量った。多すぎれば舌にざらつく。足りなければ香りが痩せる。鍋の縁を軽く叩き、白い粉を湯へ散らす。


 かき混ぜるたび、湯気の底から金色が滲んだ。

 やがて光は鍋肌を照らし、匙の影まで淡く染めた。


 評議員たちが目を見開く。

 椅子を鳴らして立つ者がいる。後ろへ引こうとして、長衣の裾を踏む者もいる。


 金色の光が、大広間に満ちていく。

 冷えきった空気を押し戻す、温かくて、やわらかくて、どこか懐かしい光。


 怖がらなくていい。

 これは食材たちの声で、命を温める光だ。


「記憶のスープです」


 わたしは盆を持ち、一人ずつ評議員たちの前へ椀を置いていった。指先は冷たいのに、椀の底だけがしっかり熱い。


「飲んでくださった方は、最も幸福な記憶を思い出します。痛みも、苦しみもありません。ただ、温かい記憶が蘇るだけです」


 評議員たちは、恐る恐る椀を覗き込んでいる。


 最初にスプーンを取ったのは——意外にも、評議長ヘルムートだった。


 老魔術師は、椀の縁に手を添えた。

 皺だらけの指が一度だけ震え、それから静かにスプーンを口へ運ぶ。


 一口。


 鷲のような目が、瞼の下に隠れた。


 広間が、しんと沈む。

 誰も咳払いさえしない。氷の割れる小さな音だけが、どこかの柱から落ちた。


 ヘルムートの頬を、一筋の涙が伝った。


「…………」


 長い沈黙のあと、老人は目を開けた。

 そこには、さっきまでの厳格な光がなかった。


「わしは……母を、思い出した」


 かすれた声が、広間に落ちる。


「六十年前に死んだ母が、わしのために朝粥を炊いてくれた日を。わしが風邪を引いて、寒くて震えていた時に。母が膝に抱いて、スプーンで粥を食べさせてくれた……あの日を」


 その言葉で、他の評議員たちも動き出した。

 一人が飲む。隣の一人が、匙を握る。やがて、あちこちで椀の底を置く音がした。


 誰もが、泣いていた。


 母の手。友の声。恋人の笑顔。

 長い議論で乾いていた顔が、人生でいちばん幸福だった瞬間の温度を取り戻していく。


「これが……禁忌?」


 ヘルムートが呟いた。


「人の心に、最も温かい記憶を呼び起こす力が——禁忌だと?」


 広間に、反論する声は残っていなかった。


 殿下が、わたしの隣まで歩いてくる。

 そして、わたしの頭に手を置いた。


「よくやった」


 その一言で、張りつめていたものが切れた。

 膝から力が抜け、へたり込みそうになったところを、殿下の腕が支えてくれる。


「立てるか」


「た、立てます……たぶん」


「たぶんか」


 殿下の口角が、かすかに上がった。



 * * *



 三日後。


 帝国魔術評議会の決定書は、硬い言葉で四つのことを告げていた。


 帝国法第七十三条、エッセンス禁止条項の一時凍結。

 リーゼ・ヴァイスフェルトのエッセンス使用の暫定認可。

 エッセンスに関する新たな研究機関設立の検討。

 そして、食の賢者エルヴィンの名誉回復を正式な議題に載せること。


 百年間、禁忌として閉じ込められていたものが、一杯のスープで揺らいだ。


 完全な解決には程遠い。

 紙の上には「一時」と「暫定」が小骨みたいに残り、反対派の目も消えていない。


 それでも、扉は開いた。

 わずかな隙間でも、湯気は通る。


 その隙間から、わたしのスープの匂いが抜けていった。



 * * *



 夜。寮の窓辺で、ネルが言った。


「エルヴィンの名誉回復。……百年かかったな」


「まだ議題に上がっただけだよ」


「それでも十分だ」


 ネルは月を見上げた。

 翡翠色の目に、月明かりが細く映っている。


「リーゼ。お前が約束したこと、覚えているか」


「死なないこと?」


「もう一つ」


「……えっと」


「エルヴィンが成し遂げられなかったことを成し遂げろ、と言った」


「あぁ、そうだった」


「今日、お前はその第一歩を踏み出した。評議会を動かした。百年前、エルヴィンにはできなかったことだ」


 ネルが、わたしの膝に飛び乗った。

 毛越しの体温が、じんわり染みてくる。


「ネル。わたし、もっと先に進みたい」


「どこまで?」


「エッセンスを、みんなが使えるようにしたい。魔力がなくても、食材の本質を理解する力があれば、誰でも——」


「壮大だな」


「うん。でも、それがエルヴィンの夢だったんでしょ?」


 ネルは黙って、わたしの膝の上で丸くなった。


「……寝るぞ。明日も早い」


「おやすみ、ネル」


「おやすみ。……馬鹿弟子」


 馬鹿弟子。

 初めて、そう呼ばれた。


 エルヴィンの弟子で、ネルの弟子。

 百年の想いを継ぐ者。


 肩書きは重い。

 けれど鍋を握っている間は、その重さごと立っていられる気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ