【56】皇子の宣戦布告
帝国魔術評議会の大広間に、白い冷気が走った。
カイゼル殿下が椅子を鳴らして立ち上がった瞬間、床石の継ぎ目から霜が這い、柱の彫りまで白く縁取られていく。
誰かが息を呑んだ。吐き出し損ねた息が、薄い煙になって口元で揺れた。
「もう一度言ってみろ」
殿下の声は静かだった。
怒鳴らない。荒げもしない。ただ低く、刃を濡れ布巾で包んだように冷たい。
それだけで、評議員たちは肩から動けなくなった。
「この者の力を封じる、と言ったな。撤回しないのか」
評議長ヘルムート・フォン・ドルンシュタインは、六十代の老魔術師だ。
白い髭を胸元まで垂らし、鷲みたいな目で人を見る。帝国の魔術秩序を守る番人として、三十年、この椅子に座り続けてきた男だった。
「カイゼル殿下。我々は帝国の魔術秩序を守る義務があります。魔力を介さぬ魔法現象は、帝国法第七十三条により禁止されて——」
「第七十三条は、百年前に食の賢者を処刑するため急造された悪法だ。それを根拠に、人一人の自由を奪うのか」
胸の奥が、鍋肌を叩く匙みたいに鳴った。
殿下は、そこまで調べていた。わたしの知らないところで。
「殿下、お気持ちは分かりますが——」
「分からんだろう」
殿下が一歩、前へ出る。
靴底の下から霜が放射状に広がり、床石の目地まで白く縁取った。
「この者は、俺の料理人だ。俺が食事を楽しめるようになったのは、この者のおかげだ。十八年間、食事が苦痛でしかなかった俺に、初めて『美味しい』という感情を教えてくれた者だ」
評議員たちの列にざわめきが走った。
第二皇子の味覚の問題は、宮廷では公然の秘密だった。知らないふりをするのが礼儀、という種類の秘密だ。
「この者の力が禁忌だと言うなら——俺の食事も禁忌か? 俺が美味いと感じることも、帝国法に反するのか?」
声が消えた。
言い方は乱暴だった。けれど、誰もすぐには噛みつけない。
リーゼの料理を禁じることは、第二皇子の食事を取り上げることと、ほとんど同じなのだから。
「殿下。感情論で議論を——」
「感情論ではない。事実を述べている」
殿下が、こちらを振り向いた。
「リーゼ。もう一杯、あのスープを作れ」
「え? 今、ここで?」
「ここでだ」
わたしの前には、評議会に見せるため持ち込んだ調理道具が残っている。鍋も、匙も、小さな火口も、霜に縁を白くされながら並んでいた。
殿下が何をさせたいのか、分かってしまった。
エッセンスの光を、隠さずに見せるのだ。
「殿下……光りますよ? 金色に」
「構わん。むしろ、光らせろ。全力で」
殿下の碧眼が、まっすぐにわたしを射抜く。
恐れも迷いも見えない。差し出された信頼だけが、逃げ場をふさぐほどまっすぐだった。
「……分かりました」
わたしは鍋をつかんだ。
ネルは広間の隅で、身じろぎもせずに頷いた。ソフィアさまは傍聴席の縁を握り、フィンさんは扉を背にして薄く笑っている。
ヴェルナー教授のペン先は紙から浮いたまま止まり、クラインヘルツ侯爵の視線だけが冷静に鍋へ落ちていた。
視線が背中に刺さる。
怖い。
けれど取っ手の硬さは、台所でいつも握っているものだった。
手のひらが覚えている。火加減、湯気、材料の重み。鍋の前なら、わたしは立っていられる。
* * *
わたしは、記憶のスープを作った。
ゼーベル。月光草。竜の骨粉。
凍えた大広間で、材料の匂いだけが台所の顔をしていた。
涙の根に刃を入れる。繊維がぷつりと切れ、青い香りがまな板に滲む。
月光草は沸かしすぎない。湯面が震えたところで沈め、緑の苦みが立つ前に火を細くする。
竜の骨粉は指先で量った。多すぎれば舌にざらつく。足りなければ香りが痩せる。鍋の縁を軽く叩き、白い粉を湯へ散らす。
かき混ぜるたび、湯気の底から金色が滲んだ。
やがて光は鍋肌を照らし、匙の影まで淡く染めた。
評議員たちが目を見開く。
椅子を鳴らして立つ者がいる。後ろへ引こうとして、長衣の裾を踏む者もいる。
金色の光が、大広間に満ちていく。
冷えきった空気を押し戻す、温かくて、やわらかくて、どこか懐かしい光。
怖がらなくていい。
これは食材たちの声で、命を温める光だ。
「記憶のスープです」
わたしは盆を持ち、一人ずつ評議員たちの前へ椀を置いていった。指先は冷たいのに、椀の底だけがしっかり熱い。
「飲んでくださった方は、最も幸福な記憶を思い出します。痛みも、苦しみもありません。ただ、温かい記憶が蘇るだけです」
評議員たちは、恐る恐る椀を覗き込んでいる。
最初にスプーンを取ったのは——意外にも、評議長ヘルムートだった。
老魔術師は、椀の縁に手を添えた。
皺だらけの指が一度だけ震え、それから静かにスプーンを口へ運ぶ。
一口。
鷲のような目が、瞼の下に隠れた。
広間が、しんと沈む。
誰も咳払いさえしない。氷の割れる小さな音だけが、どこかの柱から落ちた。
ヘルムートの頬を、一筋の涙が伝った。
「…………」
長い沈黙のあと、老人は目を開けた。
そこには、さっきまでの厳格な光がなかった。
「わしは……母を、思い出した」
かすれた声が、広間に落ちる。
「六十年前に死んだ母が、わしのために朝粥を炊いてくれた日を。わしが風邪を引いて、寒くて震えていた時に。母が膝に抱いて、スプーンで粥を食べさせてくれた……あの日を」
その言葉で、他の評議員たちも動き出した。
一人が飲む。隣の一人が、匙を握る。やがて、あちこちで椀の底を置く音がした。
誰もが、泣いていた。
母の手。友の声。恋人の笑顔。
長い議論で乾いていた顔が、人生でいちばん幸福だった瞬間の温度を取り戻していく。
「これが……禁忌?」
ヘルムートが呟いた。
「人の心に、最も温かい記憶を呼び起こす力が——禁忌だと?」
広間に、反論する声は残っていなかった。
殿下が、わたしの隣まで歩いてくる。
そして、わたしの頭に手を置いた。
「よくやった」
その一言で、張りつめていたものが切れた。
膝から力が抜け、へたり込みそうになったところを、殿下の腕が支えてくれる。
「立てるか」
「た、立てます……たぶん」
「たぶんか」
殿下の口角が、かすかに上がった。
* * *
三日後。
帝国魔術評議会の決定書は、硬い言葉で四つのことを告げていた。
帝国法第七十三条、エッセンス禁止条項の一時凍結。
リーゼ・ヴァイスフェルトのエッセンス使用の暫定認可。
エッセンスに関する新たな研究機関設立の検討。
そして、食の賢者エルヴィンの名誉回復を正式な議題に載せること。
百年間、禁忌として閉じ込められていたものが、一杯のスープで揺らいだ。
完全な解決には程遠い。
紙の上には「一時」と「暫定」が小骨みたいに残り、反対派の目も消えていない。
それでも、扉は開いた。
わずかな隙間でも、湯気は通る。
その隙間から、わたしのスープの匂いが抜けていった。
* * *
夜。寮の窓辺で、ネルが言った。
「エルヴィンの名誉回復。……百年かかったな」
「まだ議題に上がっただけだよ」
「それでも十分だ」
ネルは月を見上げた。
翡翠色の目に、月明かりが細く映っている。
「リーゼ。お前が約束したこと、覚えているか」
「死なないこと?」
「もう一つ」
「……えっと」
「エルヴィンが成し遂げられなかったことを成し遂げろ、と言った」
「あぁ、そうだった」
「今日、お前はその第一歩を踏み出した。評議会を動かした。百年前、エルヴィンにはできなかったことだ」
ネルが、わたしの膝に飛び乗った。
毛越しの体温が、じんわり染みてくる。
「ネル。わたし、もっと先に進みたい」
「どこまで?」
「エッセンスを、みんなが使えるようにしたい。魔力がなくても、食材の本質を理解する力があれば、誰でも——」
「壮大だな」
「うん。でも、それがエルヴィンの夢だったんでしょ?」
ネルは黙って、わたしの膝の上で丸くなった。
「……寝るぞ。明日も早い」
「おやすみ、ネル」
「おやすみ。……馬鹿弟子」
馬鹿弟子。
初めて、そう呼ばれた。
エルヴィンの弟子で、ネルの弟子。
百年の想いを継ぐ者。
肩書きは重い。
けれど鍋を握っている間は、その重さごと立っていられる気がした。




