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55/185

【55】わたしは料理人です

 帝国魔術師団本部、大審問室。


 重い石造りの建物だった。

 高い窓から落ちる光は細く、冷えた床を斜めに切っている。息を吸うと、古い紙と石の匂いが喉に触れた。


 半円形の段上に、七人の審問官が並ぶ。

 黒いローブ。胸元には魔術師団の紋章。布が擦れる小さな音まで、やけに大きい。


 中央の一段高い席に、ルートヴィヒ・フォン・シュヴァルツ。帝国魔術師団長。


 五十代半ば。痩せた体に鋭い目。白髪交じりの黒髪を後ろに撫でつけ、薄い唇を一文字に結んでいる。その目の奥には、冷えた知性と、何かを汚物のように見る嫌悪があった。


 わたしは審問室の中央に立った。


 背後に、クラインヘルツ侯爵とカイゼル殿下。

 二人の立会人がいる。それだけで背中側の空気が違った。侯爵の氷みたいな威厳。殿下の、声に出さない怒り。


 傍聴席には、エレナ皇女、ソフィアさま、ヴェルナー教授の姿があった。


 室内は、息をするにも音が立ちそうなほど張り詰めていた。



 * * *



「審問を開始する」


 ルートヴィヒの声が、石の壁に跳ねて戻った。


「被審問者。リーゼ・ブラント。帝国魔術学院実務奨学生。魔力測定値――ゼロ」


 「ゼロ」の一語に、審問官たちの肩がわずかに揺れた。


「嫌疑は、マナを用いない不正規の魔術行使。帝国魔術法第三十七条違反の疑い」


 ルートヴィヒが、わたしを上から測る。


「リーゼ・ブラント。お前が行っている行為について、説明せよ」


 わたしは息を吸った。

 冷たい空気で、胸の内側がきゅっと縮む。


 一か月間、準備してきた。

 ネルと何度も特訓した。侯爵と殿下とは、夜遅くまで言葉の受け方を詰めた。


 それでも、審問の場へ持ち込める答えは一つしかない。


「審問官の皆さま。わたしは――料理人です」


 声が震えないよう、足の指で床を掴んだ。


「魔術師ではありません。魔法は使えません。わたしにできるのは、料理を作ることだけです」


「質問に答えよ。お前の料理に発生する金色の光は何だ」


 ルートヴィヒの声が刃物みたいに細くなる。


「あの光は、食材の力です。わたしのマナではありません。食材の中に眠っている生命力を、料理の過程で引き出したものです」


「食材の生命力? そのようなものは、帝国の魔術理論には存在しない」


「存在しないのではなく、まだ見つかっていなかったのだと思います」


 審問官の一人が、肘掛けに手をついて身を乗り出した。


「帝国魔術理論を否定するのか?」


「否定ではありません。魔術理論の外側に、知られていない力がある、ということです」


 黒いローブの列に、ざわめきが走る。


 ルートヴィヒが手を上げた。ざわめきは、石床に吸われるように消えた。


「言葉での説明では不十分だ。実演を求める。その『力』とやらを、ここで見せよ」


 来た。


 待っていた言葉だった。


「では、料理をさせてください」


「……何だと?」


「わたしの力は、料理を通じてしか発揮されません。ここで料理を作り、皆さまに食べていただければ、言葉より正確に伝わります」


 審問官たちがどよめいた。


「大審問室で料理だと? 前代未聞だ」


「審問の場を愚弄する気か」


「却下だ。そのような――」


「許可します」


 意外な声が、傍聴席から降ってきた。


 エレナ皇女だった。

 立ち上がった皇女の紫の瞳が、審問官たちを順に射抜く。


「第一皇女として、実演を許可します。被審問者の力の本質を確認するには、実演が最も合理的です」


 ルートヴィヒの目尻がぴくりと動いた。


「殿下。これは魔術師団の審問です。皇族の介入は――」


「介入ではありません。審問の公正を求めているだけです。言葉だけで判断を下す方が、公正さに欠けるのではありませんか」


 エレナ皇女は、視線を逸らさない。


 皇女相手に、ルートヴィヒは押し切れなかった。


「……許可する。準備せよ」



 * * *



 大審問室の中央に、小さな調理台が置かれた。


 フィンさんが事前に手配してくれていた道具と食材が運び込まれる。

 鍋が一つ。まな板と包丁。それから、玉ねぎ、バター、塩、水。


 それだけだ。


 審問官たちの眉間に皺が寄った。


「たったそれだけの食材で、何をする気だ」


 わたしは答えず、玉ねぎを手に取った。


 目を閉じる。


 【理解】。


 ずっしりした重み。外皮の乾いた感触。水分量、糖度、繊維の密度。手のひらに、玉ねぎの声が返ってくる。


 皮を剥く。包丁を入れる。

 刃を寝かせ、厚みをそろえて薄く切った。


 大審問室は静まり返っている。


 七人の審問官と団長、傍聴席の全員が、わたしの手元だけを見ていた。包丁がまな板を叩く音が、こつ、こつ、と響く。


 鍋にバターを落とす。

 白い塊が溶け、泡立ち、甘い乳の香りが立ったところへ玉ねぎを入れる。


 弱火。


 じわ、と音がした。


「火加減を魔法で操作しているのでは」


 審問官の一人が言った。


「いいえ。火は普通の竈の火です。魔法は一切使っていません」


「検知しろ」


 ルートヴィヒの指示で、魔術師が検知魔法を展開した。

 わたしの周囲に、薄い光の膜が張られる。魔力の使用を感知するための結界だ。


 反応は、ない。


 当然だ。わたしには魔力がない。使いようがない。


 わたしは鍋の中だけを見た。

 玉ねぎを焦がさないよう、鍋底の熱を読みながら返していく。


 【繋がり】。


 この料理を、誰のために作るのか。


 目の前の審問官たちのために。

 この人たちに、分かってもらうために。


 怖い。

 怖いから、手を抜けない。


 この人たちも、人間だ。

 偉い魔術師でも、大審問官でも、お腹は空く。疲れた夜には、湯気に指先を近づけたくなる。


 わたしが差し出せる場所は、そこしかない。


 十分。二十分。


 玉ねぎが透け、端から飴色に変わっていく。


 甘い香りが、冷えた石の部屋に広がった。


 審問官の一人が、無意識に鼻を動かす。別の一人は、喉を鳴らしてから慌てて口元を引き締めた。


 水を加える。

 塩をひとつまみ。


 ことこと、と鍋が歌い始めた。


 三十分。


 わたしは蓋を取った。


 湯気が立ち上がり、甘く深い玉ねぎの香りが部屋を満たす。


 そして――


 【覚醒】。


 金色の光が、鍋の中から溢れた。


 今までで最も強い光だった。

 一か月、ネルと練習して、エッセンスを制御する術を身につけた。

 今のわたしは、全力のエッセンスを一杯のスープに込められる。


 大審問室が、金色に染まった。


「何だ……この光は……」


 審問官たちが腰を浮かせる。


 検知魔法の結界は、反応していない。

 光が部屋を満たしているのに、薄い膜は完全に沈黙している。


「マナ反応なし……だと? この光は、マナではないのか?」


「ありえない。光を発する現象で、マナが関与しないものなど――」


 ざわめきの中で、わたしはスープを器に注いだ。


 七つの器と、団長の分。

 八つ。


 玉ねぎのスープは、金色にほのかに輝いている。


「どうぞ。温かいうちにお召し上がりください」


 わたしは審問官たちの前に、一つずつ器を置いた。


 最後の一つを、ルートヴィヒの前に置く。


「わたしは魔術師じゃありません。魔法は使えません。でも、料理はできます。このスープに、わたしの全てがあります。飲んでいただければ、分かっていただけると思います」


 審問官たちは、器を前に固まっていた。


 毒ではないか。呪いではないか。

 そんな疑念が、眉と口元に出ている。


 口火を切ったのは、審問官の中で最も年配の老人だった。

 白い髭の、温和そうな顔。


 老人が匙を取り、スープを一口飲んだ。


 老人の目が、潤んだ。


「……これは」


 もう一口。


「温かい。体の芯まで、温かい。こんなスープは、飲んだことがない」


 老人の声に押されるように、他の審問官たちも匙を取った。


 一人、また一人と、スープを口に運ぶ。


 審問室の空気が変わった。


 張り詰めていた緊張が、湯気に紛れてほどけていく。

 鎧みたいに纏っていた威厳が、一口ごとに緩む。


 目を閉じて味わう者がいる。

 空になりかけた器を見下ろす者がいる。

 袖口で目元を押さえる者もいた。


 七人のうち、五人が、明らかに心を動かされていた。


 だが。


 残りの二人。

 そして、ルートヴィヒ。


 ルートヴィヒは器に口をつけなかった。


 スープを前に、冷たい目でわたしを見下ろしていた。


「……見事な芝居だ」


 その声が、温まりかけた空気を切った。


「食材の生命力だと? マナを用いない力だと? そのようなものが存在するはずがない。帝国三百年の魔術理論を、玉ねぎのスープで覆すつもりか」


「芝居じゃありません。飲んでいただければ――」


「飲む必要はない。見れば分かる。この光は、危険だ」


 ルートヴィヒが立ち上がった。


「マナに依存しない力。制御の基準が存在しない力。そのような野放しの力が帝国に広まればどうなる。魔術の秩序は崩壊し、誰もが――」


「誰もが、美味しいものを食べられるようになります」


 わたしの声が、ルートヴィヒの言葉にかぶさった。


 自分でも驚くほど落ち着いていた。


「エッセンスは、人を傷つけません。温かくして、お腹を満たして、笑顔にする力です」


「黙れ。お前に発言権は――」


「この力を封じるということは、人が美味しいものを食べて幸せになる権利を、奪うということです」


 大審問室が、しんと静まった。


 ルートヴィヒの頬に血が上る。怒りだ。


「審問官諸君。判決を――」


「団長」


 老審問官が、静かに口を開いた。


「このスープを、お飲みになりませんか。飲まずに判断を下すのは、審問官として公正とは言えません」


 ルートヴィヒの目が、老審問官を睨む。


「飲むまでもない。この力は、封じる。それが帝国の安全のためだ」


 ルートヴィヒは審問官たちを見渡した。


「帝国魔術師団長として宣告する。リーゼ・ブラントの有する力は、帝国の魔術秩序にとって――」


「封じる必要がある」


 ルートヴィヒが断言しようとした、その瞬間。


 椅子を引く音が、大審問室に響いた。


 カイゼル殿下が、立ち上がった。


 碧眼が冷たく光っている。

 氷の皇子。普段は感情を見せない人が、今は静かな怒りを全身に纏っていた。


「ルートヴィヒ・フォン・シュヴァルツ」


 殿下の声は低かった。

 低いのに、石壁の隅まで届く。


「リーゼ・ブラントは、俺の専属料理人だ」


「殿下。これは魔術師団の管轄――」


「彼女に手を出すなら、俺が相手になる」


 大審問室の空気が凍りついた。


 第二皇子が、皇位継承権第二位の人間が。

 魔術師団長に対して、公の場で宣戦を布告した。


「殿下……それは、皇族として魔術師団に敵対するという意味ですか」


「意味も何もない。彼女はただの料理人だ。美味しいスープを作っただけの少女を、異端として裁くのか。それが帝国の正義か」


 ルートヴィヒの顔から血の気が引いた。


 殿下と正面からぶつかれば政治問題になる。魔術師団といえども、皇族を敵に回せない。

 けれど引けば、魔術師団の権威に傷がつく。


 審問官たちは動けなかった。

 誰かが息を呑む音だけがした。


 傍聴席のエレナ皇女は、読めない表情で事態を見守っていた。

 ソフィアさまは祈るように手を組んでいる。

 クラインヘルツ侯爵は、わずかに頷いた。想定通りの展開だと言うように。


 ルートヴィヒが口を開こうとした。


 何かを、宣告しようとした。


 だが、その言葉は出なかった。


 大審問室の扉が開いたからだ。


 全員の視線が、扉へ向いた。


 入ってきたのは――


「お取り込み中、失礼いたします」


 皇帝陛下の侍従長だった。


「皇帝陛下より、お言葉がございます」


 侍従長が、巻き物を広げた。


「『本件の審理は、朕の臨席の下で改めて行う。本日の審問は、中断とする』――以上です」


 皇帝陛下の介入。


 ルートヴィヒの顔が歪んだ。


 勝負は、まだついていない。


 だが、今日はここまでだ。



 * * *



 審問室を出ると、秋の風が吹いていた。


 冷たい空気に触れた途端、膝が笑った。

 まともに歩けない。足の裏が床を掴み損ねる。


「リーゼ」


 殿下が、黙って手を差し出した。


 わたしはその手を取り、なんとか立った。


「……すみません。足が」


「当然だ。よく立っていた」


 殿下の手は温かかった。


「殿下。あの……ありがとうございます。わたしのために、あんなことを」


「あんなこと?」


「魔術師団に、宣戦布告みたいなことを……」


「宣戦布告ではない。事実を言っただけだ」


 殿下は手を離し、前を向いた。


「お前は、ただの料理人だ。俺の専属の。それを守るのは、当然のことだ」


 殿下の耳が赤い。

 夕日のせいではないことくらい、わたしにも分かった。


 後ろから、ソフィアさまが駆け寄ってきた。


「リーゼ! 大丈夫ですの!?」


「大丈夫……かな。たぶん」


「すごかったですわ。審問室で料理を作るなんて、前代未聞ですわ」


「うん。二度とやりたくないけどね」


 笑ったら、涙が出た。


 怖かった。本当に怖かった。

 それでも、一人ではなかった。


 侯爵が近づいてきた。


「皇帝陛下の介入は想定外だったが、良い方向だ。陛下は中立を装っているが、あのスープの件を覚えている。リーゼの味方になる可能性が高い」


「まだ、終わっていないんですね」


「終わっていない。だが今日、お前は証明した。エッセンスが危険なものではないと。審問官七人のうち五人が、お前のスープに心を動かされた。これは大きい」


 侯爵が、珍しく微笑んだ。


「お前は、強い子だな」


 足元に、ネルが来ていた。


「よくやった」


「ネル。見てたの?」


「棚の上から。猫は審問室にも忍び込める」


「どこにでも入るね……」


「エルヴィン。聞いているか」


 ネルは空を見上げた。


「お前の後継者は、大審問室で玉ねぎのスープを作ったぞ。前代未聞だ。お前でもやらなかっただろう」


 秋の風が、ネルのひげを揺らした。


 どこかで、誰かが笑った気がした。



 * * *



 帰り道。


 夕焼けの中を歩きながら、わたしは思った。


 まだ嵐の中にいる。

 魔術師団との戦いは、これからが本番だ。


 でも、握れるものはある。


 包丁と、鍋と、玉ねぎ。

 それから、背中を支えてくれる声。


 わたしは料理人です。


 口の中で小さく言う。

 震えていた足が、一歩だけ前へ出た。

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