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【54】帝国魔術師団、動く

 朝食の支度が、ようやく手の中に戻りかけた頃だった。


 鍋の底で玉ねぎが焦げつかないよう木べらを入れる。

 その瞬間、厨房の扉が壁を叩き、フィンさんが駆け込んできた。


 いつもなら乱れない前髪が額に張りついている。唇の色も、紙みたいに薄い。


「リーゼさん。大変です」


「フィンさん? 火事? 怪我人?」


「いいえ。帝国魔術師団から、正式な召喚状が届きました」


 差し出された書状には、帝国魔術師団の紋章が押されていた。赤い蝋が硬く盛り上がり、黒い印影が刃物のように沈んでいる。指先が触れただけで、冷たかった。


 わたしは布巾で手を拭き、書状を開いた。


『リーゼ・ブラントに対する審問通知


 帝国魔術師団は、リーゼ・ブラント(帝国魔術学院実務奨学生)に対し、以下の嫌疑に基づき審問を行うことを通知する。


 嫌疑:マナを用いない不正規の魔術行使の疑い


 帝国魔術法第三十七条に基づき、全ての魔術的行為はマナを介して行われなければならない。マナを用いない魔術の行使は、帝国の魔術秩序を脅かす異端行為に該当する可能性がある。


 審問日時:来月一日。午前十時。

 場所:帝国魔術師団本部、大審問室。

 出頭は義務とする。正当な理由なき欠席は、有罪の自認と見なす。


     帝国魔術師団長 ルートヴィヒ・フォン・シュヴァルツ』


 紙の端が、かさかさ鳴った。


 手が震えているのだと、遅れて気づく。

 文字が目の前で滲む。


 審問。異端。有罪。


 百年前、エルヴィンに突きつけられたものと同じ言葉が、そこに並んでいた。


「リーゼさん。息をしてください」


 フィンさんの手が肩に乗る。手袋越しでも、その力が分かった。


「殿下は既にご存知です。今朝、同じ内容の通知が殿下のもとにも届いています。殿下は」


「怒ってる?」


「激怒されています」


 うん。そこは想像できる。



 * * *



 カイゼル殿下の執務室に呼ばれると、空気は冬みたいに張りつめていた。


 殿下は机の前に立ったまま。フィンさんは控え、マルクスは壁際で腕を組んでいる。ソフィアさまの白い指は、扇を握りしめていた。

 窓辺には、クラインヘルツ侯爵。


 侯爵は昨日から帝都に滞在していた。まるでこの事態を嗅ぎつけていたみたいに、必要な書類を机に広げていた。


「予想通りだ」


 侯爵は低く言った。


「魔術師団は、外交晩餐会以降ずっと動いていた。リーゼ・ブラントの周辺調査、ヴェルナー教授への聴取、辺境の家宅捜索。どれも、この審問へ持ち込むための下準備だ」


「計画的だったということか」


 殿下の声は低い。低すぎて、床板まで冷えそうだった。


「ルートヴィヒ・フォン・シュヴァルツ。現魔術師団長。百年前の団長ディートリヒの、直系の後継者だ」


 侯爵が書類の上に指を置く。


「シュヴァルツ家は代々、魔術師団長を輩出してきた。百年前にエルヴィンを処刑へ追い込んだのも、当時のシュヴァルツ家当主だ。現当主ルートヴィヒは、先祖の路線を忠実に受け継いでいる」


「つまり、エッセンスを敵視する家系か」


「そうだ。彼らにとって、エッセンスの再来は悪夢だろう」


 ソフィアさまが扇を閉じた。ぱちん、と乾いた音がした。


「お父さま。審問を拒否することはできませんの?」


「できない。帝国魔術法に基づく正式な召喚だ。拒否すれば、それ自体が罪になる」


「では、審問に応じるしかないのですか」


「応じる。だが、ただ首を差し出すわけではない」


 侯爵の目が細くなる。


「受けて立つ。こちらから攻める審問にする」


 殿下が顎を上げた。


「具体的には」


「審問には立会人を付ける権利がある。リーゼの代理人として、私が立つ。クラインヘルツ侯爵家の名は、魔術師団相手でも一定の抑止力になる」


「侯爵一人では弱い。魔術師団は帝国最大の権力機構だ」


「もちろんだ。だから、もう一人、強力な立会人が要る」


 侯爵の視線が殿下へ向いた。


「カイゼル殿下。あなたが立てば、皇族の庇護という意味を持つ」


「当然、立つ」


 殿下は間を置かなかった。


「リーゼは俺の専属料理人だ。俺の家臣を審問するなら、俺がその場にいる。当然の権利だ」


 わたしは両手を握りしめて、黙って聞いていた。


 みんなが動いてくれている。

 侯爵も、殿下も、ソフィアさまも、フィンさんも。


 胸の奥が熱くなる。けれど、そのすぐ下で胃がきゅっと縮んだ。


「あの」


 声が思ったより細くなった。

 全員の視線が、わたしに集まる。


「わたしのせいで、みなさんに迷惑をかけて、すみません」


「迷惑?」


 殿下が眉をひそめた。


「お前が謝ることは何もない。魔術師団が不当な審問を仕掛けてきた。それだけだ。お前は悪くない」


「でも……」


「リーゼ」


 ソフィアさまが近づき、わたしの手を包んだ。扇を握っていたせいか、指先がひやりとしていた。


「迷惑なんて思わないでくださいまし。わたくしたちは、自分の意志でここにいるのですわ」


「ソフィアさま……」


「あなたの料理が好きですの。あなたが大切ですの。それだけですわ」


 真っ直ぐな目だった。逃げ道を作ってくれない、優しい目。


 喉が詰まった。

 でも、泣くより先に、やることがある。


「分かりました。……精一杯、やります」


「よし」


 侯爵が頷き、机の上の書状を押さえた。


「審問まで一か月ある。その間に、準備を整える」



 * * *



 会議が終わると、わたしは厨房に戻った。


 火は落としてあったのに、鍋にはまだ朝の匂いが残っている。

 棚の上で、ネルがしっぽを一度だけ揺らした。


「聞いていた」


「盗み聞き?」


「猫に聞き耳という言葉があるだろう」


「それ、たぶん違う使い方」


 ネルは棚から調理台へ飛び降りた。足音はほとんどしないのに、黒い体がそこに座るだけで、厨房の空気が締まる。


「リーゼ。審問の場で、お前は何をするつもりだ」


「何って……聞かれたことに、正直に答えるよ」


「それだけか」


「それだけ。わたし、嘘はすぐ顔に出るし、隠し事も下手だし。だから、ありのままを見せる」


「ありのまま、か」


 ネルの耳が伏せられた。


「エルヴィンは裁判の場で弁明を試みた。理論を説明し、エッセンスの安全性を論証しようとした。だが、聞く耳を持たない者には届かなかった」


「うん。だから、言葉だけじゃ足りないと思う」


「では、どうする」


 わたしは息を吸った。焦げかけの玉ねぎと、冷めた鉄鍋の匂いがする。


「料理を作る」


「……審問の場で?」


「うん。魔術の審問なんでしょ? わたしの力を見せろって言うんでしょ? だったら見せる。料理を作って」


 ネルの翡翠色の目が丸くなった。


「……正気か」


「正気だよ。わたしにできることは料理だけ。だったら、料理で答える」


 ネルは長いこと黙っていた。

 しっぽの先が、台の縁を一度、二度、叩く。


 やがて、ふっと笑った。


「エルヴィンとは違うな。あいつは理論家だった。言葉で世界を変えようとした。お前は」


「料理人だから。皿の上で示す」


「……そうか。それがお前のやり方か」


「うん」


 わたしは棚から玉ねぎを取り、乾いた皮を剥いた。包丁を握ると、さっきまでの震えが指の奥へ沈んだ。


 審問まで一か月。


 その間に、最高のスープを作れるようになる。

 言葉では届かない人の心にも、湯気と一緒に届くようなスープを。


 わたしの武器は、それしかない。

 十二歳の料理人が持てる、たった一つのもの。


「ネル。手伝って」


「何をだ」


「エッセンスの特訓。一か月で、わたしのエッセンスを完璧に制御できるようにして」


 ネルの翡翠色の目が、細く光った。


「きつい一か月になるぞ」


「望むところ」


「その言葉、忘れるなよ」


 包丁を下ろす。玉ねぎが白く割れ、甘い匂いが立った。


 遠雷は、もうすぐそこまで来ている。

 でも、わたしの手には包丁がある。

 鍋がある。食材がある。


 それだけ握っていれば、膝はまだ折れない。

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