表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/187

【53】百年の贖罪

 翌朝、応接室の扉が閉まると、学院のざわめきが遠くなった。


 部屋には、四人分の気配が詰まっている。


 上座にクラインヘルツ侯爵。ソフィアさまはその脇に座り、わたしは膝の上で指を組んでいた。

 隣の椅子では、ネルが尾を巻いている。


 ネルを連れてきたのは、わたしだ。

 百年前のことを語るなら、その時代を生きた者が同じ部屋にいるべきだと思った。


 侯爵はネルを見るなり、灰色の目を細めた。


「猫か。……いや、ただの猫ではないな」


「クラインヘルツの当主か。お前の家とは百年ぶりだな」


 人の言葉を話す猫を前にしても、侯爵の眉は動かなかった。

 やっぱり、この人は知っている。


「エルヴィン・ヴァイスの使い魔。まだ生きていたのか」


「しぶといのが取り柄でな」


「そうか。ならば、ちょうどいい。お前にも聞いてもらう。我が家が百年間隠してきた真実を」


 侯爵は椅子の背に身を預け、肘掛けを指で一度叩いた。

 短い息が、喉の奥で重く鳴る。


 それから、口を開いた。



 * * *



「百年前。食の賢者エルヴィン・ヴァイスは、帝国魔術師団によって異端の罪で裁かれた」


 侯爵の声は平らだった。感情を奥歯で噛み潰し、記録だけを差し出すような声。


「公式の記録では、エルヴィンは『マナを用いない危険な擬似魔法を開発し、帝国の魔術秩序を乱した』とされている。裁判は形式だけのものだった。判決は最初から決まっていた。処刑だ」


 ネルの背が丸くなる。

 椅子の布に、小さな爪が沈んだ。


「だが、真実は違った」


 侯爵が懐から古い革装の手帳を抜いた。

 角は擦り切れ、黄ばんだ紙から乾いた匂いが立つ。掠れた文字。百年の時をくぐった記録。


「これは、当時のクラインヘルツ侯爵――私の曽祖父、フリードリヒの日記だ。代々、当主のみに受け継がれてきた」


 侯爵は手帳を開いた。


「フリードリヒは、エルヴィンの友人だった」


 ネルが息を呑むように声を漏らした。


「……フリードリヒが。あのフリードリヒが、お前の曽祖父だと?」


「知っているのか」


「知っている。エルヴィンの数少ない貴族の友人だった。食に理解があって、エルヴィンの研究を陰で支えていた男だ」


 侯爵が頷く。


「曽祖父の日記には、こう記されている」


 侯爵は指で紙面を押さえ、手帳の一節を読み上げた。


「『エルヴィンは無実だ。彼のエッセンスは、誰も傷つけない。人を幸せにする力だ。だが、魔術師団長ディートリヒは――エッセンスを恐れた。自分たちの権威を脅かす力を、抹殺しようとした』」


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。


「『私はエルヴィンを救おうとした。裁判で証言し、彼の無実を訴えるつもりだった。だが――ディートリヒに脅された。クラインヘルツ家の全てを奪うと。家族の命を盾に取られた。私は――沈黙した』」


 侯爵の語尾が、紙の上で震えた。


「『沈黙した。友を見殺しにした。処刑の日、エルヴィンは最後まで笑っていたと聞いた。私は――その場にすらいられなかった』」


 誰も、すぐには息を継げなかった。


 ネルは動かない。

 翡翠色の目を閉じたまま、耳の先まで固まっていた。


「曽祖父フリードリヒは、その後の人生を贖罪に費やした」


 侯爵は手帳を閉じ、掌で表紙を押さえた。


「エルヴィンの研究資料を密かに保管し、感知水晶を残し、エッセンスに関する知識をクラインヘルツ家の中へ封じた。『いつか、エルヴィンの後継者が現れた時のために』と」


「百年も……」


「百年だ。四代にわたって、我が家はこの秘密を守ってきた。魔術師団の目を欺きながら、エッセンスの真実を次の世代へ渡し続けた」


 侯爵がわたしを見る。


「そして、お前が現れた。リーゼ・ブラント」


 灰色の目は、もう冷たくなかった。

 長く抱えた荷を下ろす前の、硬い決意だけがそこにあった。


「クラインヘルツ家は、百年前に友を裏切った。その罪を、今度こそ償う」



 * * *



「つまり……お父さまは、リーゼの味方になってくださるのですか?」


 ソフィアさまが、信じたいのに信じきれない顔で聞いた。


「味方などという生易しいものではない」


 侯爵が立ち上がった。椅子の影が床をすべる。


「政治的保護を提供する。クラインヘルツ侯爵家の名において、リーゼ・ブラントを庇護下に置く。魔術師団が手を出すなら、侯爵家として全面的に対抗する」


「それは……大変なことではないですか」


 わたしの問いに、侯爵は冷たく笑った。


「大変だ。魔術師団と正面から敵対するということは、帝国の権力構造そのものに挑むということだ。だが――」


 侯爵の声が低く響く。


「百年分の借りがある。利子を含めれば、これくらいの覚悟は当然だ」


 ソフィアさまの目に、涙が滲んだ。


「お父さま……」


「泣くな、ソフィア。お前の手紙がなければ、私は動かなかっただろう。お前が背中を押した」


 侯爵が、初めて娘に柔らかい目を向けた。


「いい友人を持ったな」


 ソフィアさまは両手で顔を覆った。声を殺し、肩だけを震わせていた。



 * * *



 侯爵とソフィアさまが退室した後も、扉の音だけが耳に残った。


 ネルは応接室の椅子の上で、丸くもならずに前足をそろえている。


「ネル」


「……」


「大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


 ネルの声は掠れて、いつもの皮肉まで届いていなかった。


「フリードリヒが……あの男が、ずっと苦しんでいたとは。わしは、知らなかった」


「ネル……」


「エルヴィンが処刑された後、わしはフリードリヒを恨んだ。なぜ助けてくれなかった。なぜ黙った。百年間、ずっとだ」


 小さな体が震えている。

 毛並みの下で、息が細く揺れた。


「だが、脅されていたのか。家族の命を盾に。あの男は、あの男なりに……苦しんでいたのか」


 わたしはネルを抱き上げ、膝に乗せた。


 何も言えなかった。

 百年前の痛みに、十二歳のわたしの舌は届かない。


「……リーゼ」


「うん」


「クラインヘルツの当主を、許そうと思う。百年前の曽祖父も、今の当主も。許す」


「うん」


「エルヴィンも、許しただろうから」


 ネルがわたしの膝の上で丸くなった。


 体温が布越しに伝わる。

 百年分の恨みを手放した体は、思ったより軽かった。


「処刑の日、エルヴィンは本当に笑っていたの?」


「ああ。笑っていた」


 ネルの声が遠くなる。


「最後に、わしの頭を撫でて、こう言った。『お前は生きろ。いつか、俺の料理を受け継ぐ奴が現れる。その時まで――待っていてくれ』」


「……百年」


「長かった。何度も諦めかけた。消えてしまおうかとも思った。だが、あいつとの約束を破るわけにはいかなかった」


 わたしの目から涙がこぼれた。

 拭こうとした指先が、ネルの毛に触れて止まる。


 百年間、たった一人で。

 主人の遺志を守り続けた、小さな猫。


「ネル。わたしが受け継ぐよ。エルヴィンの料理を。エッセンスを。全部」


「……ああ」


「だから、もう一人にしない。約束」


「約束、か。エルヴィンも、約束が好きだった」


 ネルの目元が柔らかくなった。


「リーゼ。味方が増えたぞ」


「うん。心強いね」


「だが、敵も動いている。クラインヘルツ侯爵が動けば、魔術師団もそれを察知する。時間は、あまりない」


 分かっている。


 嵐は近づいている。

 それでも、背中の冷え方は昨日と違った。


 侯爵は百年の罪を抱えたまま手を差し出した。

 ソフィアさまは、友人として手紙を書いてくれた。

 膝には、百年を生きた老猫の温度がある。


 みんな、わたしの側にいる。


「ネル。今日の晩ご飯、何がいい?」


「……いきなりそれか」


「だって、お腹空いたし。重い話の後は、美味しいもの食べないと」


 ネルが鼻で笑った。


「魚がいい」


「了解。焼き魚、作るね」


 わたしは椅子を戻し、厨房に向かった。


 できることは限られている。

 帝国も魔術師団も、一皿で倒せる相手じゃない。


 けれど、火は起こせる。

 魚に塩を振って、皮がぱりっと鳴るまで焼ける。

 大切な人の腹を満たせる。


 戦い方なんて呼ぶには小さい。

 それでも、わたしの手はそこからしか始められない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ