【53】百年の贖罪
翌朝、応接室の扉が閉まると、学院のざわめきが遠くなった。
部屋には、四人分の気配が詰まっている。
上座にクラインヘルツ侯爵。ソフィアさまはその脇に座り、わたしは膝の上で指を組んでいた。
隣の椅子では、ネルが尾を巻いている。
ネルを連れてきたのは、わたしだ。
百年前のことを語るなら、その時代を生きた者が同じ部屋にいるべきだと思った。
侯爵はネルを見るなり、灰色の目を細めた。
「猫か。……いや、ただの猫ではないな」
「クラインヘルツの当主か。お前の家とは百年ぶりだな」
人の言葉を話す猫を前にしても、侯爵の眉は動かなかった。
やっぱり、この人は知っている。
「エルヴィン・ヴァイスの使い魔。まだ生きていたのか」
「しぶといのが取り柄でな」
「そうか。ならば、ちょうどいい。お前にも聞いてもらう。我が家が百年間隠してきた真実を」
侯爵は椅子の背に身を預け、肘掛けを指で一度叩いた。
短い息が、喉の奥で重く鳴る。
それから、口を開いた。
* * *
「百年前。食の賢者エルヴィン・ヴァイスは、帝国魔術師団によって異端の罪で裁かれた」
侯爵の声は平らだった。感情を奥歯で噛み潰し、記録だけを差し出すような声。
「公式の記録では、エルヴィンは『マナを用いない危険な擬似魔法を開発し、帝国の魔術秩序を乱した』とされている。裁判は形式だけのものだった。判決は最初から決まっていた。処刑だ」
ネルの背が丸くなる。
椅子の布に、小さな爪が沈んだ。
「だが、真実は違った」
侯爵が懐から古い革装の手帳を抜いた。
角は擦り切れ、黄ばんだ紙から乾いた匂いが立つ。掠れた文字。百年の時をくぐった記録。
「これは、当時のクラインヘルツ侯爵――私の曽祖父、フリードリヒの日記だ。代々、当主のみに受け継がれてきた」
侯爵は手帳を開いた。
「フリードリヒは、エルヴィンの友人だった」
ネルが息を呑むように声を漏らした。
「……フリードリヒが。あのフリードリヒが、お前の曽祖父だと?」
「知っているのか」
「知っている。エルヴィンの数少ない貴族の友人だった。食に理解があって、エルヴィンの研究を陰で支えていた男だ」
侯爵が頷く。
「曽祖父の日記には、こう記されている」
侯爵は指で紙面を押さえ、手帳の一節を読み上げた。
「『エルヴィンは無実だ。彼のエッセンスは、誰も傷つけない。人を幸せにする力だ。だが、魔術師団長ディートリヒは――エッセンスを恐れた。自分たちの権威を脅かす力を、抹殺しようとした』」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「『私はエルヴィンを救おうとした。裁判で証言し、彼の無実を訴えるつもりだった。だが――ディートリヒに脅された。クラインヘルツ家の全てを奪うと。家族の命を盾に取られた。私は――沈黙した』」
侯爵の語尾が、紙の上で震えた。
「『沈黙した。友を見殺しにした。処刑の日、エルヴィンは最後まで笑っていたと聞いた。私は――その場にすらいられなかった』」
誰も、すぐには息を継げなかった。
ネルは動かない。
翡翠色の目を閉じたまま、耳の先まで固まっていた。
「曽祖父フリードリヒは、その後の人生を贖罪に費やした」
侯爵は手帳を閉じ、掌で表紙を押さえた。
「エルヴィンの研究資料を密かに保管し、感知水晶を残し、エッセンスに関する知識をクラインヘルツ家の中へ封じた。『いつか、エルヴィンの後継者が現れた時のために』と」
「百年も……」
「百年だ。四代にわたって、我が家はこの秘密を守ってきた。魔術師団の目を欺きながら、エッセンスの真実を次の世代へ渡し続けた」
侯爵がわたしを見る。
「そして、お前が現れた。リーゼ・ブラント」
灰色の目は、もう冷たくなかった。
長く抱えた荷を下ろす前の、硬い決意だけがそこにあった。
「クラインヘルツ家は、百年前に友を裏切った。その罪を、今度こそ償う」
* * *
「つまり……お父さまは、リーゼの味方になってくださるのですか?」
ソフィアさまが、信じたいのに信じきれない顔で聞いた。
「味方などという生易しいものではない」
侯爵が立ち上がった。椅子の影が床をすべる。
「政治的保護を提供する。クラインヘルツ侯爵家の名において、リーゼ・ブラントを庇護下に置く。魔術師団が手を出すなら、侯爵家として全面的に対抗する」
「それは……大変なことではないですか」
わたしの問いに、侯爵は冷たく笑った。
「大変だ。魔術師団と正面から敵対するということは、帝国の権力構造そのものに挑むということだ。だが――」
侯爵の声が低く響く。
「百年分の借りがある。利子を含めれば、これくらいの覚悟は当然だ」
ソフィアさまの目に、涙が滲んだ。
「お父さま……」
「泣くな、ソフィア。お前の手紙がなければ、私は動かなかっただろう。お前が背中を押した」
侯爵が、初めて娘に柔らかい目を向けた。
「いい友人を持ったな」
ソフィアさまは両手で顔を覆った。声を殺し、肩だけを震わせていた。
* * *
侯爵とソフィアさまが退室した後も、扉の音だけが耳に残った。
ネルは応接室の椅子の上で、丸くもならずに前足をそろえている。
「ネル」
「……」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
ネルの声は掠れて、いつもの皮肉まで届いていなかった。
「フリードリヒが……あの男が、ずっと苦しんでいたとは。わしは、知らなかった」
「ネル……」
「エルヴィンが処刑された後、わしはフリードリヒを恨んだ。なぜ助けてくれなかった。なぜ黙った。百年間、ずっとだ」
小さな体が震えている。
毛並みの下で、息が細く揺れた。
「だが、脅されていたのか。家族の命を盾に。あの男は、あの男なりに……苦しんでいたのか」
わたしはネルを抱き上げ、膝に乗せた。
何も言えなかった。
百年前の痛みに、十二歳のわたしの舌は届かない。
「……リーゼ」
「うん」
「クラインヘルツの当主を、許そうと思う。百年前の曽祖父も、今の当主も。許す」
「うん」
「エルヴィンも、許しただろうから」
ネルがわたしの膝の上で丸くなった。
体温が布越しに伝わる。
百年分の恨みを手放した体は、思ったより軽かった。
「処刑の日、エルヴィンは本当に笑っていたの?」
「ああ。笑っていた」
ネルの声が遠くなる。
「最後に、わしの頭を撫でて、こう言った。『お前は生きろ。いつか、俺の料理を受け継ぐ奴が現れる。その時まで――待っていてくれ』」
「……百年」
「長かった。何度も諦めかけた。消えてしまおうかとも思った。だが、あいつとの約束を破るわけにはいかなかった」
わたしの目から涙がこぼれた。
拭こうとした指先が、ネルの毛に触れて止まる。
百年間、たった一人で。
主人の遺志を守り続けた、小さな猫。
「ネル。わたしが受け継ぐよ。エルヴィンの料理を。エッセンスを。全部」
「……ああ」
「だから、もう一人にしない。約束」
「約束、か。エルヴィンも、約束が好きだった」
ネルの目元が柔らかくなった。
「リーゼ。味方が増えたぞ」
「うん。心強いね」
「だが、敵も動いている。クラインヘルツ侯爵が動けば、魔術師団もそれを察知する。時間は、あまりない」
分かっている。
嵐は近づいている。
それでも、背中の冷え方は昨日と違った。
侯爵は百年の罪を抱えたまま手を差し出した。
ソフィアさまは、友人として手紙を書いてくれた。
膝には、百年を生きた老猫の温度がある。
みんな、わたしの側にいる。
「ネル。今日の晩ご飯、何がいい?」
「……いきなりそれか」
「だって、お腹空いたし。重い話の後は、美味しいもの食べないと」
ネルが鼻で笑った。
「魚がいい」
「了解。焼き魚、作るね」
わたしは椅子を戻し、厨房に向かった。
できることは限られている。
帝国も魔術師団も、一皿で倒せる相手じゃない。
けれど、火は起こせる。
魚に塩を振って、皮がぱりっと鳴るまで焼ける。
大切な人の腹を満たせる。
戦い方なんて呼ぶには小さい。
それでも、わたしの手はそこからしか始められない。




