【50】閑話 ソフィアの手紙
ソフィア・フォン・クラインヘルツは、便箋を前にして一時間近く動けずにいた。
寮の自室。蝋燭の火が、白い便箋の端で細く揺れる。
羽根ペンの先に溜まったインクは、書き出しを迷ううちに黒い粒となって乾いた。ソフィアはまたインク壺へペンを戻し、紙の上へ運び、そこで止める。書いては消し、消しては別の言葉を探した。
宛先は、父。
クラインヘルツ侯爵家当主、アルベルト・フォン・クラインヘルツ。
帝国有数の名門貴族であり、帝国魔術師団とも深い繋がりを持つ人物。
そして、ソフィアが誰より敬愛し、誰より恐れている人。
「……書かなければ」
吐いた息が便箋をかすかに揺らした。ソフィアは指先で紙を押さえ、ペン先を下ろした。
* * *
『お父さまへ
ご無沙汰しております。学院での生活は変わりなく、つつがなく過ごしております。
今日は、ご報告とお願いがあり、筆を執りました。
先日の外交晩餐会のことは、お父さまもお聞き及びかと存じます。アイゼンガルド王国との通商条約が無事締結されたこと、帝国にとって誠に喜ばしいことでございます。
その晩餐会で、料理を担当したのは、リーゼ・ブラントという少女です。
お父さま。ここからは、率直に申し上げます。遠回しに書けば、かえってお父さまの不信を招くと思いますので。
リーゼは、エッセンスの使い手です。
この言葉をお読みになって、お父さまがどのようなお顔をなさるか、想像がつきます。百年前、食の賢者エルヴィンが処刑された時、クラインヘルツ家は魔術師団の側に立ちました。以来、我が家にとってエッセンスは禁忌です。
ですが、お父さま。わたくしは実際に、あの力を見ました。
それは、危険なものではありませんでした。
リーゼの料理を口にした時、胸の奥に温かいものが広がりました。匙を置くのを忘れるほど、優しい味でした。涙がにじみそうになって、わたくしは思わず俯きました。
金色の光は、確かに不思議なものです。魔術の常識では説明がつきません。
けれど、人を傷つけるための力ではありません。
あの光は、食べる人の顔をほころばせる力です。
百年前、エルヴィンが本当に危険な存在だったのか、わたくしには分かりません。歴史書には「異端の魔術師」と書かれています。しかし、リーゼの料理を食べた後では、その記述を以前と同じ目で読むことができなくなりました。
お父さま。
クラインヘルツ家は、百年前の判断を見直す時が来ているのではないでしょうか。
エッセンスは封じるだけの禁忌ではなく、正しく理解されるべき力です。リーゼは、わたくしの大切な友人です。あの子が不当に裁かれることがあれば、わたくしは黙っていられません。
お父さまに、お願いがございます。
食の賢者エルヴィンの処刑に関する、クラインヘルツ家の記録を、わたくしに見せていただけないでしょうか。百年前に何があったのか、真実を知りたいのです。
長くなりました。
お父さまのご健勝を、心よりお祈りしております。
あなたの娘 ソフィア』
* * *
書き終えたソフィアは、便箋を何度も読み返した。
誤字を探し、言葉を削る場所を探す。けれど、どの一文も残すしかなかった。
指先が冷え、封蝋の匙を持つ手が一度ぶれた。赤い蝋を垂らし、クラインヘルツ家の紋章を押す。
銀の鍵と盾が、蝋の上に沈んだ。
明日の朝、使者に託す。
帝都から侯爵領まで、早馬で三日。
返事が来るまで、一週間。
その一週間が、ソフィアには途方もなく長く思えた。
* * *
七日後。
ソフィアは寮の部屋で待っていた。朝食のパンは皿の上で乾き、紅茶は冷めきっている。
父からの返書が届く予定の日だ。
廊下に足音が近づくたび顔を上げた。使者は来なかった。
寮の扉が鳴るたび胸が跳ねた。やはり、何も届かなかった。
窓辺の影が長く伸びても、返書はなかった。
翌日も。
その翌日も。
返事は、来なかった。
十日が過ぎ、二週間が過ぎた。
クラインヘルツ侯爵からの返書は、一通も届かなかった。
沈黙。
拒絶の言葉より、白紙のまま閉じられた扉のほうが怖かった。
父は手紙を読んだはずだ。クラインヘルツ家の使者は、「確かにお渡ししました」と報告してきた。読んで、その上で何も返さない。
怒っているのか。
失望しているのか。
それとも、何かを考えているのか。
ソフィアには、判断がつかなかった。
父の沈黙は、いつもそうだ。
怒鳴られる時よりも、黙られる時の方が怖い。
答えを渡さず、相手の息を詰まらせる。政務で使う沈黙を、食卓にまで持ち込む人だった。
「……お父さま」
ソフィアは窓枠に手を置いた。
秋の空は高く澄んでいた。胸の中だけが、湿った雲を抱えたように重かった。
* * *
ソフィアの不安に、リーゼは気づいていた。
「ソフィアさま。最近、顔色よくないです」
「……そんなことありませんわ」
「あります。昨日のスープ、半分残してました。わたし、見てましたから」
ソフィアは目を逸らし、膝の上で指を組み直した。
「家のことで、考えることがありまして」
「何かあったら、言ってくださいね。わたしで力になれることがあれば」
「ありがとう、リーゼ。でも、これはわたくしの問題ですの」
ソフィアは微笑んだ。
口角だけをきれいに上げた、侯爵令嬢の微笑み。
目元だけが、置き去りになっていた。
リーゼはそれ以上踏み込まなかった。
ただ、翌日の朝食に、ソフィアの好きなカボチャをいつもより念入りに裏ごしし、ポタージュに仕立てた。
ソフィアはそのスープを一口飲み、目を伏せた。甘い香りと熱が、喉を通って胸に落ちる。
「……美味しい」
「良かった」
「リーゼ」
「はい?」
「あなたのことは、わたくしが守りますわ。何があっても」
突然の宣言に、リーゼは目を丸くした。手にした匙が、器の縁で止まる。
「え……急にどうしたんですか?」
「何でもありませんわ。ただの、決意表明です」
ソフィアはポタージュを飲み干し、席を立った。
背筋を伸ばし、前を向いて歩いていく。
クラインヘルツ侯爵家の令嬢として。
リーゼ・ブラントの友人として。
父の沈黙が何を意味するにせよ、ソフィアは自分の立場を決めていた。
家と対立することになっても。
父に勘当されることになっても。
この友人を、裏切らない。
それだけは、譲れなかった。
* * *
クラインヘルツ侯爵邸。書斎。
アルベルト・フォン・クラインヘルツは、娘からの手紙を机の上に広げたまま、椅子に座っていた。
幾度も読み返した便箋。
娘の筆跡は、妻に似て繊細で、それでいて芯の強さがあった。
エッセンス。
その言葉を目にした瞬間、アルベルトの背筋に冷たいものが走った。
百年前の記憶が、いや、記憶ではない。記録が。
クラインヘルツ家が代々受け継いできた、封印された紙束が。
食の賢者エルヴィン・ヴァイスの処刑。
その裏にあった、魔術師団の——
「侯爵さま」
執事の声で、アルベルトは我に返った。
「帝国魔術師団より、書状が届いております」
アルベルトは、娘の手紙を引き出しへ滑り込ませた。
鍵をかける。金属音が、書斎に小さく鳴った。
そして、魔術師団からの書状を受け取った。
封を切り、内容を読む。
アルベルトの顔から、表情が消えた。
彼は暖炉の火を見つめ、長い間動かなかった。
やがて、静かに立ち上がった。
「馬車を用意しろ。帝都に向かう」
「帝都に? いつ発たれますか」
「今すぐだ」
執事が驚いて目を見張ったが、すぐに頭を下げて退室した。
アルベルトは窓の外を見た。
秋の夕暮れ。空が赤く染まっている。
赤い光が、引き出しの鍵を照らしていた。
百年前の贖罪が、今、その鍵穴で軋みはじめていた。




