【49】外交晩餐会(後編)
前菜の皿が、白い手袋の指先に支えられて運び込まれた。
帝国側——わたしの「大地の宝石箱」。アイゼンガルド側——ヴォルフの前菜。
二つの皿が、同じ拍子でテーブルに置かれる。
ヴォルフの前菜は、猪のテリーヌだった。
分厚く切られた肉の塊が、皿の中央にどんと腰を据えている。添えられた粒マスタードは軍用のものらしく、近くを通っただけで鼻の奥がつんとした。
力強い。荒い。食えるものなら食ってみろ、と皿が言っている。
対するわたしの前菜は、色の違う根菜と豆を、小さな器へひと口ずつ詰めたものだ。噛む場所ごとに、歯ざわりも香りも変わる。
帝国側の貴族たちは、見慣れた彩りに肩を下ろした。
アイゼンガルドの面々は、わたしの器をじっと見下ろしている。眉間に皺。匙はまだ動かない。
「小さいな」
ジークフリート国王の声が、広間の石壁にぶつかって返った。
「帝国の前菜は、鳥のエサか?」
銀器の音が止まった。
帝国側の貴族たちの顔から血の気が引く。外交の席で、それを言うのか。
けれど国王は、構わずわたしの前菜を一つ摘まみ、口へ放り込んだ。
噛む。
赤い眉が、わずかに跳ねた。
「……ふむ」
次の一つに手が伸びる。さらに一つ。
国王は感想を置かないまま、器を空にした。
厨房の扉の隙間から覗いていたわたしは、息を殺してその顔を追った。
厳つい頬にも、髭の奥の口元にも、答えらしいものは出てこない。
* * *
スープが運ばれる番になった。
ヴォルフのスープは、牛骨を三日間煮込んだ濃いボーンブロスだった。
一口で押し返されるほど重い。骨の髄と肉の旨味が舌にぶつかり、喉を落ちた後も腹の底から熱が広がる。
軍人の国の、戦場のスープ。
極寒の行軍で兵士の手を温め、命をつないできた味だ。
帝国側の貴族たちは、匙を持ったままたじろいでいた。
続いて、わたしのスープが運ばれる。
「黄金の雫」——水晶コンソメ。
白い器の底で、澄んだ黄金色だけが薄く光っていた。
エッセンスは、糸一本分だけ忍ばせてある。見えるか見えないか、その境目に置いた。
ジークフリート国王が器を見下ろす。
「透明だな。薄いのか?」
匙で掬い、口へ運ぶ。
国王の肩が、そこで止まった。
匙を握った手だけが、空中に残っている。
「……何だ、これは」
声の角が落ちていた。
さっきまで広間を押さえつけていた声ではない。戸惑いが、髭の奥から漏れている。
「味が——透き通っているのに、深い。薄いのに、満ちている。何だ、この矛盾は」
水晶コンソメの芯は、足すことではなく削ることにある。
濁りも脂も、余計な香りもすくい取る。最後に残る旨味だけを、壊さないよう澄ませる。
前世の和食で当たり前だった「素材の味を活かす」という考え方を、この世界の食材で形にした一品だった。
国王は最後の一滴まで飲み干し、空になった器の底をしばらく眺めていた。
* * *
魚料理。
ヴォルフの皿は、大湖の鱒を丸ごと一尾、塩の殻で包んで焼き上げたものだった。
テーブルの上で殻を割る。白い塩が崩れ、湯気が立ち、魚の香りが広間にふわっと広がった。見せ方まで堂々としている。
わたしの魚料理は、同じ大湖の鱒を薄く切り、低い温度で火を入れたもの。
添えたソースには、両国の国境地帯に自生するハーブを使った。
「この魚は——アイゼンガルドの湖の鱒だな」
国王が、皿から顔を上げた。
「ソースのこの香り。ヴァルトクラウトか。国境の山にしか生えん」
「はい」
厨房から出たわたしは、国王の前で頭を下げた。膝の裏がこわばるのを、靴の中で踏ん張る。
「帝国とアイゼンガルド、両国が共有する湖の魚と、国境の山のハーブです。どちらか一方だけのものではありません。両方の国の恵みです」
国王が、初めて真正面からわたしを見た。
「……お前が、今夜の料理人か。随分と小さいな」
「十二歳です」
「十二歳の小娘が、外交を語るか」
「外交は分かりません。でも、料理なら少し分かります。美味しいものを口に入れている間は、たぶん、人は争えません」
国王の目が、一瞬だけ丸くなった。
それから隣の王妃と目を合わせる。
何を思ったのかは読めない。国王はその表情のまま、魚を一切れ口へ運んだ。
* * *
肉料理。
ヴォルフの肉料理は、圧巻だった。
巨大な牛の骨付きリブを、暖炉の直火で焼き上げる。
アイゼンガルドの伝統的な調理法——「鉄火焼き」。
炎で表面を焦がし、中には鮮やかな赤を残す。脂が火に落ちるたび、香ばしい煙が立った。野性味があり、力で腹を揺さぶってくる味だ。
軍人たちの国の、戦士の肉。
帝国の貴族たちは、皿が来る前から圧倒されていた。グスタフさんでさえ、炎を見ながら「見事な火入れだ」と低く呟いたほどだ。
続いて、わたしの肉料理。
「故郷の炉端」——アイゼンガルド式の直火焼きと、帝国式のソースの融合。
肉はアイゼンガルドのやり方で直火にかけた。グスタフさんに炎の勢いを見てもらい、わたしは温度計と肉の弾力を交互に確かめた。前世の低温調理の知識を合わせ、焼きすぎる一歩手前で火から外す。
ソースは帝国伝統の赤ぶどう酒をベースにした。そこへアイゼンガルドの粒マスタードを、舌に引っかかるくらいだけ溶かす。
切り分けた肉から湯気が上がる。赤ぶどう酒の香りの奥で、マスタードの辛みが遅れて追いかけた。
ジークフリート国王は、肉を一切れ口に入れた瞬間、目を見開いた。
「この焼き方は——我が国の鉄火焼きか」
「はい。アイゼンガルドの伝統的な焼き方を使わせていただきました」
「帝国の料理人が、我が国の技法を?」
「美味しい技法に、国境はないと思いました」
国王は黙って肉を噛んだ。顎が沈み、また上がる。
「……悪くない」
短い一言だった。
それが、この武人の王にとって最大級の賛辞だと、後でフィンさんが教えてくれた。
* * *
そして——デザート。
ヴォルフのデザートは、蒸留酒をたっぷり染み込ませた焼き菓子だった。
酒精の香りが強く、甘さは控えめ。大人の味で、兵士の嗜好品。最後まで力で押してくる、ヴォルフらしい一品だった。
最後に、わたしのデザート。
「二つの花」——蜂蜜のプリン。
だが、わたしは直前に献立を変えていた。
プリンの上に添えるはずだった砂糖菓子の代わりに、温かいスープを一椀、そばへ置いた。
掌に隠れるほどの、小さな椀。
中身は——玉ねぎのスープ。
グスタフさんと一緒に、一時間かけて作った、あの玉ねぎのスープだ。
デザートの席にスープ。
常識外れにもほどがある。外交儀礼としては、まず許されない。
エレナ皇女の目が鋭くなったのが分かった。
それでも、わたしはこれを出したかった。
温室でネルに教わった【理解】と【繋がり】と【覚醒】。
玉ねぎが飴色になるまで鍋底をこすり、湯気を浴びながら、その三つを一杯の中へ沈めた。
「……スープだと? デザートの席に?」
ジークフリート国王が、怪しむように椀を見た。
「温かいうちに、お召し上がりください」
わたしは頭を下げた。
国王は椀を手に取り、一口飲んだ。
広間の音が、ぷつりと切れた。
国王の手が震えている。
赤い髭の奥で唇が動いた。けれど言葉にはならない。息だけが、かすかに漏れる。
もう一口。
国王の目から、涙がこぼれた。
誰も動かなかった。
武人の王が。
戦場で一度も泣いたことがないと言われた男が。
小さな椀のスープを飲んで、泣いている。
「……婆さんの味がする」
掠れた声だった。
「子供の頃——戦に出る前の晩、婆さんが作ってくれた玉ねぎの汁。もう六十年も前だ。あの味を——忘れたと思っていた」
国王は椀を両手で包み、残りを飲み干した。
深い息が、髭の下から落ちる。
「小娘」
「……はい」
「お前の名は」
「リーゼ・ブラントです」
「リーゼ。いい料理人だ」
国王はそれだけ言って、席へ深く座り直した。
広間に、押し殺したざわめきが広がる。
アイゼンガルドの随行者たちは、信じられないものを見る顔で国王を見ていた。
帝国側の貴族たちは、何が起きたのかまだ飲み込めていない。
カイゼル殿下が、小さく微笑んでいた。
エレナ皇女は、読めない表情でわたしを見ていた。
* * *
晩餐会の後。
ジークフリート国王は、皇帝陛下と二人きりの密談に入った。
予定されていた通商条約の協議は、驚くほど滑らかに進んだ——と、翌日フィンさんが教えてくれた。
「国王は終始、機嫌が良かったそうです。『帝国には面白い料理人がいる』と、何度も仰っていたとか」
「……本当に?」
「本当です。通商条約は、ほぼ帝国に有利な形でまとまりました。エレナ皇女も——満足されているようです」
外交が、成功した。
料理の力で全部が動いた、なんて言い切るのは大きすぎる。けれど、固く閉じた扉の隙間に、温かい湯気くらいは差し込めたのかもしれない。
厨房の片付けをしていると、ヴォルフが来た。
赤毛の巨漢は腕を組み、濡れた床を踏んでわたしの前に立つ。
「……あの最後のスープ。何を入れた」
「玉ねぎとバターと塩と水です」
「それだけか」
「それだけです」
ヴォルフは長く黙った。やがて、喉の奥で苦く笑う。
「負けた。技術では負けていないと思うが——あのスープには、勝てない。俺の料理は力で押す。だが、お前の料理は入ってくる。勝手に、胸の中へ」
「勝ち負けじゃないです。ヴォルフさんの料理も、すごく美味しそうでした」
「食べてないだろう」
「匂いで分かります」
ヴォルフが、ふっと笑った。
「面白い小娘だ。今度アイゼンガルドに来い。国王が歓迎する」
大きな手をひらりと振って、ヴォルフは去っていった。
アイゼンガルドに招待された。
国境の向こうにも、わたしの料理を待つ人ができた。
エレナ皇女の思惑通りかどうかは、わたしには分からない。
けれど今夜、二つの国は同じ食卓で息をついた。皿一枚分くらいは、近づいたのだと思う。
政治も外交も、まだ分からない。
ただ、美味しいものを作って、人の顔がふっと緩む瞬間なら、わたしにも分かる。
片付けを終えた厨房で、グスタフさんが言った。
「リーゼ。あの最後のスープ——エッセンスを使っただろう」
「……少しだけ」
「少しだけ、か。あの国王を泣かせるのが『少しだけ』なら——全力を出したらどうなるんだ」
グスタフさんの目には、畏れと好奇心が同じ火で揺れていた。
「分かりません。でも——試してみたいです。いつか」
「そうか」
グスタフさんは頷き、洗い終えた鍋を棚へ戻した。
窓の外は、夜明け前の薄い色をしている。
長い夜が終わる。
わたしの名前が、帝国の外にも届き始めている。
胸は浮くほど嬉しい。
なのに、鍋を拭く指先だけは冷たかった。




