【48】外交晩餐会(前編)
外交晩餐会、当日。
朝六時。わたしは皇宮の大厨房に立っていた。
普段使っている東棟の厨房とは、空気の厚みから違う。高い天井の下に竈が八基、オーブンが四基。磨かれた銅鍋が壁に並び、まだ薄暗い石床へ、火口の赤だけがちらちら映っている。百人分の料理を同時に送り出せる、帝国でいちばん大きな厨房だ。
今夜の客は四十名。
帝国側は皇帝陛下を筆頭に二十名。アイゼンガルド王国側も、国王以下二十名。
四十名分の料理。
しかも、外交の皿。
胃の奥がきゅっと縮んだ。
「顔が青いぞ」
グスタフさんが、湯気の立つ大鍋を両手で運びながら言った。
「だ、大丈夫です」
「その顔で言うな。水を飲め」
グスタフさんは今日、副料理長として補佐に回ってくれている。
エレナ皇女の指名は「リーゼ」だけれど、十二歳のわたし一人で四十名分の宮廷料理を回せるはずがない。グスタフさんと補佐の料理人三名が、わたしの声で動く体制になっていた。
帝国最高の料理人が、十二歳の少女の指示で動く。
一か月前なら、誰がそんな光景を信じただろう。
「リーゼ。献立の最終確認だ」
フィンさんが、手書きの献立表を胸に抱えてやって来た。
わたしは羊皮紙の端を指で押さえ、一か月かけて詰めた献立を、火の音の中で確認した。
* * *
献立は五品。
前菜——「大地の宝石箱」
根菜と豆を、それぞれ別の熱の入れ方で低温調理し、宝石のように器へ並べる。
この世界の伝統的な前菜の形は崩さない。けれど、噛んだ瞬間に土の甘みと豆の香りがほどけるよう、火加減で旨味を引き出す。
スープ——「黄金の雫」
玉ねぎと鶏骨の出汁を土台にした、澄み切ったコンソメ。
前世の知識でいう「水晶コンソメ」だ。卵白で濁りを抱かせて取り除き、匙の底まで見えるほど透明に仕上げる。
魚料理——「湖の静寂」
帝国とアイゼンガルドの国境にある大湖の魚を使う。
両国にまたがる湖の魚を皿に置く。それだけで、「分断」より先に「共有」を口に運べるはずだった。
肉料理——「故郷の炉端」
アイゼンガルドの伝統的な直火焼きを取り入れ、仕上げは帝国式のソースで受け止める。
焦げ目の力強さと、ソースの香り。二つの国の料理技法を、同じ皿の上で喧嘩させずに並べる。
デザート——「二つの花」
帝国の国花とアイゼンガルドの国花を模した砂糖菓子を添える、蜂蜜のプリン。
この献立で、わたしがひそかに架けたいものは決まっている。
橋だ。
二つの国の食文化を、勝ち負けの皿にしない。
「帝国の料理の方が上だ」と胸を張るより、「同じ食卓に座りませんか」と、湯気と香りで差し出したい。
エレナ皇女の思惑は「帝国の力を示す」ことだったのかもしれない。
でも、わたしの手が作るのは、壁ではない。
* * *
午前中は仕込みに追われた。
グスタフさんは、怖いくらい正確に食材を下処理していく。包丁がまな板を叩く音に迷いがない。わたしの指示にも黙って従うだけではなく、「この切り方の方が火の通りが揃う」と、食材の繊維を指で示してくれた。
一か月前には、敵だった人だ。
今は、いちばん頼れる背中が隣にある。
午後二時。仕込みがようやく山を越えた頃、厨房の扉が押し開けられた。
入ってきたのは、見慣れない男だった。
長身で、赤毛。鋭い目つきの奥に、よく研いだ刃みたいな光がある。
料理人の白衣を着ているのに、立ち方は兵舎の前に立つ軍人そのものだった。
男の後ろには、アイゼンガルド王国の紋章入りの衣を着た随行者が二人控えている。
「帝国の厨房は広いな。我が国の軍の食堂より大きい」
男は帝国語で言った。訛りは強い。それでも舌はよく回る。
「お前が、今夜の料理人か?」
わたしに目を落とした瞬間、男の眉が跳ねた。
「子供じゃないか」
「……リーゼ・ブラントです。今夜の晩餐会の料理を担当します」
「ほう」
男は腕を組み、わたしを頭の先から靴の爪先まで眺めた。値踏みというより、肉の質を確かめる目だった。
「俺はヴォルフ・アイゼンシュミット。アイゼンガルド王国の王宮料理長だ。今夜は——俺も料理を出す」
——え?
「聞いていないのか? 外交晩餐会では、両国がそれぞれ料理を出すのが慣例だ。帝国の五品と、我が国の五品。合わせて十品のフルコースになる」
聞いていない。
フィンさんを見ると、血の気が引いた顔で唇を結んでいた。直前まで知らされていなかったのだろう。
「つまり——比べられる。帝国の料理と、我が国の料理がな」
ヴォルフが、にやりと笑った。
獲物を前にした獣みたいな笑みだった。
「楽しみにしている。子供料理人」
ヴォルフは踵を返し、白衣の裾を揺らして厨房を出て行った。
残されたわたしたちの間に、鍋の煮える音だけが残った。
「……グスタフさん」
「聞こえた。アイゼンガルドの王宮料理長、ヴォルフ・アイゼンシュミット。名前は知っている」
グスタフさんの顎が硬くなっていた。
「元軍人の料理人だ。アイゼンガルドの料理は——戦場の料理が原点にある。力強く、重厚で、相手を圧倒する味を信条としている」
「圧倒する味……」
「外交の場で料理を出すということは、食で戦うということだ。アイゼンガルドはそれを分かっている。だから最強の料理人を送り込んできた」
わたしの手が震えた。
料理対決の熱が、嫌な形で戻ってきた。
今度は個人の勝負じゃない。国と国の面子がかかっている。
「怖いか」
グスタフさんが聞いた。
「……正直、怖いです」
「そうか」
グスタフさんは棚から玉ねぎを一つ取り、わたしの前に差し出した。
「怖い時は、手を動かせ。食材に触れていれば、余計なことを考えずに済む」
——それは、わたしが以前グスタフさんに言った言葉だった。
変なところで返してくるなあ、と喉の奥で笑ってしまった。
「……はい」
わたしは玉ねぎを受け取り、乾いた皮に爪を立てた。ぱり、と薄皮が割れる。
大丈夫、とまでは言えない。
でも、やるべきことは変わらない。
美味しい料理を作る。
食べてくれる人の体に、ちゃんと届くものを。
玉ねぎの匂いが、少しだけ呼吸を戻してくれた。
* * *
午後六時。
皇宮の大広間には、四十の席が整えられていた。
帝国側のテーブルには白い花。アイゼンガルド側のテーブルには赤い花。
中央の主賓席では、皇帝陛下とアイゼンガルド国王が向かい合って座っている。
カイゼル殿下は皇帝陛下の隣。エレナ皇女は、その対面。
わたしは厨房の扉を細く開け、広間の様子を覗いた。人の声、衣擦れ、磨かれた銀器が触れ合う音が、隙間から流れ込んでくる。
アイゼンガルド国王——ジークフリート三世。
噂では聞いていた。けれど、実物は想像よりずっと大きい。
赤い髭を蓄えた巨躯。頬には古い刀傷が走っている。
若い頃は自ら剣を取り、戦場に立った武人王だという。
その隣には、王妃と王太子が座っていた。どちらも肩幅が広く、軍人の国の王族という風格が隠れない。
この人たちに——わたしの料理を食べてもらう。
「リーゼ」
足元から声がした。ネルだ。いつの間にか厨房に忍び込んで、わたしの足首の横に座っている。
「あの国王は、食にこだわりがある男だ。兵士と同じ飯を食い、質素を好む。気取った宮廷料理は嫌いだと聞いている」
「質素を好む……」
「お前の料理とは、相性がいいかもしれんな」
ネルがひげを揺らした。
そうだ。
わたしの料理の原点は、素朴な家庭料理だ。
前世では、おにぎりと味噌汁。この世界では、飯と味噌汁。
飾らない、温かい料理。
その湯気が——武人の王に届くかどうか。
晩餐会の開始を告げる鐘が、皇宮に響いた。
わたしは息を吸った。胸の奥まで、熱い厨房の匂いが入ってくる。
「グスタフさん」
「ああ」
「前菜、始めます」
「了解した」
竈の火が跳ね、鍋の蓋が鳴った。
外交晩餐会が始まった。




