【47】エレナの招待状
昼食の皿が下がったあとの厨房には、湯と鉄の匂いが残っていた。
グスタフさんと肩を並べ、鍋底に残った焦げを金だわしでこすっていると、扉の蝶番が短く鳴った。
入ってきたのは——宮廷の使者だった。金糸の刺繍が入った制服。第一皇女直属の者だ。
「リーゼ殿。エレナ皇女殿下より、書状をお預かりしております」
使者は丁重に頭を下げ、銀の盆に載せた封書を差し出した。
紫の封蝋。
エレナ皇女の紋章が、そこにくっきり刻まれている。
グスタフさんが手を止め、ちらりとこちらを見た。口は開かない。ただ、鍋の縁を掴む指に力が入り、目だけが警戒していた。
わたしは濡れた手を布で拭き、封書を受け取った。封蝋は指先にひんやりした。
* * *
部屋に戻って、封を開けた。
紙の擦れる音に合わせて、ネルが肩の上から覗き込んでくる。
便箋は淡い紫色。流れるような筆跡で、丁寧に書かれていた。
『リーゼ殿
先の料理対決における貴殿の腕前、誠に見事でございました。
皇帝陛下もたいそうお喜びでした。
さて、来月十五日、帝国とアイゼンガルド王国の間で外交晩餐会が開催されます。両国の友好を深めるための重要な席でございます。
つきましては、この晩餐会の料理を貴殿にお願いしたく、ご招待を申し上げます。
帝国の食の力を、隣国に示す絶好の機会かと存じます。
ご検討のほど、よろしくお願い申し上げます。
第一皇女 エレナ・フォン・アルトシュタイン』
読み終えるころには、便箋の端が指の形にたわんでいた。慌てて力を抜き、膝の上へ置く。
「……外交晩餐会」
「聞こえたぞ」
ネルが肩から降りて、わたしの膝の上に座った。
「アイゼンガルド王国か。帝国の東に位置する軍事国家だ。百年来の隣国で、同盟関係にあるが——最近、関係が冷え込んでいると聞く」
「ネル、詳しいね」
「百年以上生きていると、国際情勢にも明るくなる。それより——リーゼ。この招待状、裏がある」
分かっている。
膝の上の紫が、やけに濃く見えた。エレナ皇女が、純粋な好意でわたしを招くはずがない。
「エレナ皇女は、わたしの料理を——政治の道具にしたいんだ」
「そうだ。外交の場で帝国の力を示す。しかもそれが、たかが十二歳の少女の料理だと分かれば、帝国の『余裕』を見せつけることになる。アイゼンガルドに対する暗黙の圧力だ」
ネルの言葉は、刃物みたいに余分がなかった。
「同時に、お前の力が本物かどうかを、外交の場で試す意味もあるだろう。成功すればエレナの手柄。失敗すれば——」
「わたしの責任」
「そういうことだ」
胃のあたりが、きゅっと沈んだ。
エレナ皇女は——怖い人だ。
学院祭で会った時から知っている。あの紫の瞳は、笑っていても盤面を見ている。
悪意そのものではないのだろう。ただ、帝国のためなら皿の上の温度まで利用する。そういう冷たさだ。
「断ることも、できるかな」
「形式上はな。だが、皇女の招待を断れば、別の形で圧力がかかる。お前の立場は——まだ弱い」
そうだ。わたしはただの実務奨学生。聖女失格の、魔力ゼロの少女。
皇女に逆らえる立場じゃない。
考え込んでいると、扉がノックされた。
「リーゼ」
カイゼル殿下の声だった。
* * *
殿下は、珍しく険しい顔をしていた。
部屋に入るなり、わたしの手元の便箋を見て——眉間の皺を深くする。
「……姉上から来たか」
「殿下も、ご存知だったんですか?」
「さっき、姉上から直接聞いた」
殿下は窓際に立ち、腕を組んだ。握った拳の関節が白い。
「俺は反対した。お前を外交の場に引き出すのは、危険が大きすぎる」
「危険……ですか」
「外交晩餐会は、ただの食事じゃない。言葉の代わりに料理で威嚇し、酒の席で条約を動かす。皿を一つ間違えれば、国際問題になりかねん」
殿下の声には、怒りと焦りが混じっていた。窓硝子まで硬く響く。
「十二歳の少女に背負わせるべき責任じゃない」
「殿下……」
「だが——姉上には逆らえなかった」
殿下が苦い顔をした。
「エレナ姉上は第一皇女であり、外交の実権を握っている。俺は第二皇子に過ぎん。外交案件に関しては——口を出す権限がない」
カイゼル殿下ですら止められない。
胸の内側に、鍋底の焦げみたいな不安が張りついた。エレナ皇女の権力は、それほど大きい。
「リーゼ。断れ。何とか理由をつけて——」
「殿下」
わたしは便箋を畳み、膝の上に置いた。殿下の目を真っ直ぐ見る。
「行きます」
「何?」
「外交晩餐会。引き受けます」
殿下の碧眼が鋭くなった。
「……理由を聞こう」
「エレナ皇女の思惑がどうであれ、わたしがすることは料理です。外交晩餐会で、美味しい料理を作る。それで誰かを傷つけるとは、思いたくありません」
「甘い。外交は——」
「分かっています。でも、両国の人が同じ食卓で笑えるなら……少なくとも、毒にはならないと思うんです」
膝の上で、指先を握り込んだ。
「わたしの料理が、本当に人の心を動かせるなら、国境の向こうでも試してみたいんです。帝国の中だけじゃなく、他の国の人にも食べてもらいたい。それが、料理人としての……好奇心です」
頬が熱くなって、最後の言葉は喉の奥で小さくなった。
殿下はしばらく黙っていた。
「……好奇心、か」
「はい」
「お前は——本当に、怖いもの知らずだな」
殿下が深い溜息をついた。
「分かった。止めはしない。だが——条件がある」
「条件?」
「俺も晩餐会に出席する。何かあった時、お前を守れる位置にいる」
胸の奥に、温かいものを注がれたみたいだった。
「……ありがとうございます、殿下」
「礼はいい。俺は——ただ、不味い外交料理を食わされたくないだけだ」
殿下は窓の外を見たまま、それ以上何も言わなかった。
耳の先が、微かに赤い。
ネルが棚の上から、したり顔でこちらを見ていた。
何か言いたそうだったが、わたしは全力で目を逸らした。
* * *
その夜、ソフィアさまが部屋を訪ねてきた。
「外交晩餐会の件、お聞きしましたわ」
「もう広まってるんだ……」
「宮廷の噂は早いですのよ。それで——わたくし、お手伝いしたいのです」
ソフィアさまは椅子に座り、背筋をぴんと伸ばして言った。真剣な顔だ。
「外交の場には、料理以外にも知っておくべきことが山ほどあります。席順の意味、乾杯の作法、食器の使い方一つとっても、国によって異なりますの」
「そんなに複雑なの?」
「ええ。例えば——アイゼンガルド王国では、食事中にナイフを皿の上に横に置くと『この料理は不満だ』という意味になります。帝国では何の意味もない仕草ですが、知らずにやれば外交問題ですわ」
聞けば聞くほど、頭が痛くなる。紙の上なら一行で済む作法が、食卓では罠になる。
「それから、アイゼンガルドの王族は——肉料理を残すことを極度に嫌います。軍人の国ですから、食べ物を粗末にすることは兵士への侮辱と見なされるのです。つまり、量の加減も重要ですわ」
「ソフィアさま。わたし、やっぱり不安になってきた……」
「大丈夫。一か月あります。毎日特訓しましょう。料理の腕前はリーゼに任せます。それ以外の全てを——わたくしが教えますわ」
ソフィアさまの目が、きらりと光った。
侯爵令嬢の本領発揮だ。
「よろしくお願いします……」
「任せなさいまし」
その日から、外交晩餐会のための特訓がわたしの日課に食い込んできた。
* * *
翌日、わたしはエレナ皇女への返書を書いた。
『お招きいただき、光栄に存じます。
精一杯、務めさせていただきます。
リーゼ・ブラント』
短い。飾り気もない。
ソフィアさまに見せたら「もう少し格式のある文を」と言われたけれど、わたしはこれ以上の言葉を知らない。
料理人は、料理で語ればいい。
それから一か月。
外交晩餐会へ向けた準備が、本格的に始まった。
グスタフさんの厨房では、皿を差し出す角度や銀蓋を上げる間を、何度も体に叩き込まれた。熱を逃がさない手順、給仕へ渡す目配せ、客の前で足を止める位置。指先まで気を抜けない。
火口のそばではネルがエッセンスの揺れを見逃さず、「今だ」「遅い」と短く言った。
フィンさんが調べてくれたアイゼンガルド王国の食文化の覚え書きは、日ごとに厚くなる。マルクスは倉庫と市場を走り、肉の部位や香辛料の手配を詰めてくれた。
夜にはソフィアさまが、外交のマナーと禁忌を容赦なく叩き込んでくる。
一人ではなかった。
わたしが立つ場所の背中側に、いくつもの手が添えられていた。
それでも——不安は消えなかった。
外国の王族に、料理を作る。
皿の向こうには、笑顔だけじゃない。条約や面子や、刃物みたいな沈黙がある。
失敗すれば、国際問題。
十二歳の肩には、重すぎる責任だ。
それでも。
夜、枕元でネルが言った。
「エルヴィンは言っていた。『美味い料理に、国境はない』と」
「国境はない……」
「どんな国の、どんな身分の人間でも——腹は減る。温かいものを食べれば、心が解れる。それは人間の根源だ。お前の料理に自信を持て」
布団の端を握ったまま頷く。
美味しい料理に、国境はない。
百年前の賢者が信じたその言葉を、舌の上で小さく転がした。味はまだ分からない。
それでも、強ばった指は少しずつほどけていった。




