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【46】ネルの授業(エッセンス入門)

 カイゼル殿下が「美味しい」と言った日から、三日が経った。


 あの日の夜、ネルはわたしの枕元に飛び乗るなり、しっぽを一度だけ振って言った。


「約束通り、エッセンスの全てを教えてやる。明後日の日曜、丸一日空けておけ」


 その日曜日が、今日だ。


 学院の裏手にある古い温室。

 扉を押すと、湿った土と古い葉の匂いがした。ガラス越しの陽光は白く、使われていない鉢の間から雑草が膝を伸ばしている。ヴェルナー教授が「研究用に使っていい」と貸してくれた場所で、普段は誰も来ない。


 わたしは作業台の端に腰を下ろし、ネルは向かいの鉢植えの縁にきちんと座った。土で汚れそうな場所なのに、本人は玉座のつもりらしい。


「さて」


 ネルは前足を舌で整え、ぴんとひげを張った。


「その前に聞く。お前は今、エッセンスをどの程度理解している?」


「ええと……料理に心を込めると、金色の光が出る。食べた人の心に作用する。でも、なぜそうなるのかは分かりません」


「飾らない答えでよろしい。では、基礎からだ」


 ネルの翡翠色の目から、さっきまでの猫らしい眠たさが消えた。

 百年以上を生きた賢者の使い魔。エルヴィンと共にエッセンスを探求した、生き証人。


「エッセンスには三つの原則がある。エルヴィンが生涯をかけて辿り着いた理論だ」


 わたしは膝に置いた手を揃えた。


「第一原則——【理解】。食材を理解すること」


「理解……」


「お前はすでに、料理の最中にやっている。玉ねぎを持てば水の多さが指に残る。鍋の音でリヒト粒の芯がほどけたか分かる。食材が今どういう状態で、次に何をされたがっているかを拾う力——それが【理解】だ」


 確かに、包丁を持つと食材の調子に神経が寄る。

 前世の食品科学の知識が土台にある。けれど、この世界に来てからは数字の外側まで指が拾うようになった。温度や湿度だけではない。食材が「こうしてほしい」と言っているような——直感。


「第二原則——【繋がり】。料理人と食材、料理人と食べる人の間に、道を通すこと」


「繋がり」


「料理は受け渡しだ。食材の生命力を受け取り、料理の形に変え、食べる人へ渡す。途中で手を離さなければ、エッセンスはそこに生まれる」


 ネルが前足で空中をなぞった。不思議なことに、淡い光が糸のように残る。


「食材からお前の手へ、鍋へ、皿へ、食べる者へ。流れを意識しろ。グスタフの料理に魂がなかったのは、ここが切れていたからだ。技術は完璧でも、流れの中に自分を置いていなかった」


 思い当たることがある。

 わたしが料理をする時、いつも「誰のために作るか」を考える。殿下のため、ソフィアさまのため、フィンさんのため。その想いが、繋がりを作っていたのか。


「そして第三原則——【覚醒】。食材の中に眠る力を、起こすこと」


「眠る力?」


「全ての食材には、生命力が宿っている。植物であれ、動物であれ、大地が育んだ命だ。普通に扱えば、その力の大部分はこぼれる。切り、加熱し、調味料で覆ううちに、力の輪郭が潰れる。だがエッセンスの使い手は、その力を殺さずに——目覚めさせる」


 ネルの声が、温室のガラスの下で低く響いた。


「【理解】して、【繋がり】を作り、【覚醒】させる。この三つが揃った時——食材の生命力は、金色の光となって現れる。それがエッセンスだ」


 わたしは息を呑んだ。


 今まで漠然と「心を込める」としか理解していなかった現象に、骨組みがあった。

 エルヴィンは——百年前の食の賢者は、ここまで辿り着いていたのか。


「質問がある顔だな」


「……エッセンスは、魔法とは違うんですか?」


「違う。根本的に違う」


 ネルが短く言い切った。


「魔法は、使い手のマナを消費して世界に干渉する力だ。個人の資質に縛られ、使えば減る。だがエッセンスは——食材の中に既にある力を引き出すだけだ。使い手のマナは一切消費しない」


「だから、魔力ゼロのわたしでも使える」


「そうだ。むしろ逆だ。マナが多い人間ほど、食材を自分の力でねじ伏せようとする。お前のように魔力がゼロだからこそ、食材の声が聞こえる」


 胸の奥が、ちくりとした。

 この世界で最も劣等とされる「魔力ゼロ」が、エッセンスにとっては最も適した素質だなんて。


「口で言うだけでは身につかん。やるぞ」


 ネルが作業台の上へ身軽に飛び乗り、しっぽで隅を指した。


「そこに林檎があるだろう。一つ取れ」


 温室の隅に、ヴェルナー教授が置いていった果物籠があった。

 わたしは赤い林檎を一つ手に取った。柄のあたりに、土の匂いがかすかに残っている。


「【理解】からだ。その林檎を感じろ。目を閉じて、手のひらで」


 目を閉じる。


 林檎の重さ。冷たさ。皮のざらつき。指に当たる丸み。


 前世の知識が浮かぶ。糖度、酸度、ペクチンの含有量、水分量——データとしての理解。


 でも、ネルが求めているのは表に出た数字だけじゃない。


 もっと深く。皮の下、果肉の水分、種の奥に残った陽の気配へ。


 ——ああ。


 分かる。

 この林檎は、日当たりの良い場所で育った。水は十分だったけれど、最後の数日は乾いた。だから糖度が上がっている。


 なぜ分かるのか、自分でも説明できない。

 でも、手のひらに伝わってくる。


「……分かります。この林檎、甘いです。よく日の当たる場所で育って、水は足りていた。でも収穫前に乾いて、そのぶん甘みが詰まってる」


「よし。今度は【繋がり】。その林檎に、語りかけろ」


「語りかける?」


「声を出す必要はない。心の中でいい。お前がこの林檎をどうしたいか。誰のために使うのか。その想いを、食材に向けろ」


 わたしは林檎を両手で包んだ。


 この林檎を——美味しく食べてもらいたい。

 丸かじりでいい。皮を破った時の香りごと、この甘さを誰かに届けたい。


 今ここにいるのはネルだけだ。

 なら、ネルに食べてもらおう。

 百年以上頑張ってきたこの猫に、甘い林檎を。


 そう思った瞬間——手の中で、微かな温もりを感じた。


「あとは【覚醒】。林檎の中の力を、解き放て」


「どうすれば……」


「引き出すのではない。許すのだ。林檎自身が輝きたがっている。お前は——その扉を開けてやるだけでいい」


 許す。


 わたしは深く息を吸い、手のひらの力を抜いた。


 林檎よ。

 あなたが持っている力を、見せて。


 ——手の中が、光った。


 金色の、柔らかな光。

 林檎の表面を包むように、淡い輝きが生まれた。皮の赤が、蜜を含んだように透けて見える。


「おおっ!」


 思わず声が出た。


 今まで料理中に何度か見た金色の光。でも今回は違う。

 意識的に、自分の意志で、エッセンスを起こした。


「それだ」


 ネルの声が、珍しく弾んでいた。


「初めて意識的にエッセンスを発動させたな。上出来だ」


 金色に輝く林檎を、わたしはじっと見つめた。


 料理の途中でしか見えなかった光が、今は手の中の果物から息をしている。

 きれい、というより、うまそうだった。

 光まで甘い匂いがする気がした。


「ネル。これ、食べてみて」


「む。まあ、味見は教師の義務だからな」


 わたしは林檎をネルの前に、転がらないよう置いた。

 ネルが小さな口で林檎にかぶりつく。


 かじ。


 ——ネルの動きが、止まった。


「……これは」


 もう一口。さらに一口。


 ネルの食べる速度が、明らかに上がっていた。

 がじ、がじ、がじ。普段の上品な食べ方はどこへやら、猫とは思えない勢いで林檎にかぶりついている。


「ネル? ねえ、ネル。猫って林檎、そんなに食べて大丈夫?」


「黙れ。今わしは感動しているのだ。邪魔をするな」


 がじがじがじがじ。


 ……林檎一個、丸ごと消えた。


 芯まで。


 ネルが満足げに前足で口元を拭い、ふっと胸を張った。直後、顔が歪む。


「……うぐ」


「ネル!?」


「腹が……」


 ネルが作業台の上で横に倒れ込んだ。丸い腹が、ぱんぱんに膨れている。


「猫の体で林檎一個は……さすがに、無茶では……」


「黙れ……美味すぎるのが悪い……」


 翡翠色の目が恨めしそうにわたしを見た。


「エルヴィンの林檎より美味かった……くそ、あいつにも食わせてやりたかった……うぐぅ」


 百年を超える賢者の使い魔が、林檎の食べ過ぎで腹を壊している。

 歴史的な光景だった。


 わたしは笑いを堪えきれなかった。


「笑うな……師匠を笑うとは何事だ……」


「ごめんなさい、でも……ぷっ」


「笑うなと言っている……あうぅ」



 * * *



 ネルが復活するまで、一時間かかった。


 その間に、温室の食材をいくつか試した。

 泥を払った人参を握る。じゃがいもの芽のくぼみを親指でなぞる。小麦粉は手のひらに受け、指先でほぐす。

 触れて、繋いで、起こす。言葉にすると簡単なのに、指先はすぐ迷子になった。


 人参は、うっすらと光った。

 じゃがいもは、瞬きする間だけ。

 小麦粉は、粉の白さのまま沈黙した。


「当然だ」


 腹をさすりながら起き上がったネルが、解説してくれた。


「エッセンスの発動は、食材との相性に左右される。生命力が強い食材——新鮮な果物や野菜は反応しやすい。加工された食材は難しい。小麦粉のように、原型を失ったものは特にな」


「じゃあ、料理に使うには?」


「調理の過程で覚醒させる。切る、火を通す、混ぜる——その全ての工程で、食材との繋がりを維持し続ける。お前が無意識にやってきたことを、今度は意識してやるのだ」


 わたしは小麦粉の残った指先を擦り合わせた。

 心を込めて料理する——そう呼んでいたものの輪郭が、やっと手に触れた気がした。


「もう一つ、重要なことがある」


 ネルの声が、真剣なものに戻った。


「エッセンスは——見る者が見れば、一目で分かる。金色の光は、魔力を持つ人間には感知できる。今のところ、お前のエッセンスに気づいているのは限られた人間だけだが——」


「……目立つと、まずい?」


「まずい。百年前、エルヴィンは魔術師団に目をつけられて殺された。『魔力なき魔法』は、魔術の根幹を揺るがす。魔術師団にとって、エッセンスは自分たちの存在意義を脅かす異端だ」


 ネルの目が、葉陰のように暗くなる。


「今日教えた三原則で、お前はエッセンスの強度を制御できるようになる。必要な時に強く、普段は弱く。光を、人目につかないほど細く絞ることもできるはずだ」


「抑える練習も、するんだね」


「そうだ。剣を抜くことよりも、鞘に収めることの方が難しい。それと同じだ」


 わたしは頷いた。


 エッセンスは武器じゃない。でも、それを危険だと見なす人間がいる。

 自分を守るためにも、制御は必要だ。


「ネル」


「何だ」


「ありがとう。教えてくれて」


「……礼を言うのは十年早い。今日は入り口の敷居に爪をかけただけだ。エッセンスの深みは、お前が想像するより遥かに深い」


「うん。でも——入り口まで来られたことが、嬉しい」


 ネルはふんと鼻を鳴らしたが、ひげがぴくりと上がった。

 猫の笑顔だ。


「明日からは、実際の料理の中で練習する。座学はもう十分だ——お前は理論より実践の方が伸びるタイプだからな」


「分かった」


「それと」


「うん?」


「当分、林檎は作るな」


「……まだお腹痛いの?」


「黙れ」


 温室に、わたしの笑い声が跳ねた。


 ガラスに、午後の光が細く引っかかっている。さっきの林檎の金色が、まだ指の腹に残っている気がした。


 頭の中では【理解】【繋がり】【覚醒】と並べられる。けれど、実際の指はまだ危なっかしい。


 百年前の賢者が見つけた料理の魔法は、遠い伝説ではなく、わたしの手の中で温かかった。


 魔術師団の影も、エルヴィンの最期も、忘れていいものではない。けれど火を怖がって鍋の前で固まっていたら、何も煮えない。


 明日からは、料理の中で練習する。火加減を見て、香りを聞いて、皿を待つ誰かを思う。


 わたしは手のひらを握り、開いた。


 指先に残った金色の熱は薄い。

 それでも、消えてはいなかった。

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