【45】おにぎりと味噌汁と、あなたの笑顔
日曜日の朝は、雲ひとつなかった。
朝五時。厨房の石床はまだ夜の冷たさを抱えていて、火口の前に立つと足首だけがひやりとした。
作るのは、おにぎりと味噌汁と漬物。
これ以上ないくらい、まっすぐな日本の朝ご飯だ。
前世のわたしが毎日、眠い目をこすりながら食べていた当たり前の一食。
けれど今日の一膳には、わたしの持っているものを残さず込める。
* * *
リヒト粒を研ぐ。
米を研ぐ、という手間をこの世界の人は知らない。
けれど、わたしの手は知っている。前世で何千回も繰り返した、爪の先まで染みついた動きだ。
水に浸した粒へ指を差し入れ、手のひらで押すように洗う。白く濁った水が指の間から逃げていく。捨てて、また注ぐ。
澄むまで三回。
浸水三十分。
その間に、出汁を取る。
鶏骨を鍋に沈める。トロッケン茸——干し椎茸の代わりになる茸——は割って香りを立たせ、海藻は水の中で開かせておく。
鶏骨のイノシン酸、海藻のグルタミン酸、茸のグアニル酸。名前は難しくても、鍋の中ではちゃんと手を組んでくれる。
沸騰する手前で火を落とし、布で静かに濾す。
澄んだ琥珀色の出汁が鍋に戻り、湯気だけが細く立った。
味噌を溶く。
出汁は七十五度。沸かしたら、せっかくの香りが逃げる。ここだけは絶対に雑にしない。
具は、ゼーベルの薄切りとワカメに似た海藻。
足すより、引く。今日はそれでいい。
そして——リヒト粒を炊く。
水加減は一・四倍。強火で沸かし、弱火に落として十二分。
火を止めたら、蓋を取らずに十分蒸らす。
蓋を開ける。
湯気が顔に当たり、甘い香りが厨房いっぱいにほどけた。
白い粒はつやをまとい、一粒ごとにふっくら立っている。
……金色に、光っている。
エッセンスだ。
抑えるつもりだったのに、想いが勝ってしまった。
もう、いい。
今日だけは、全力で込めよう。
殿下のために。
手を水で濡らし、塩を指先に取る。
炊きたてのリヒト粒をすくい上げ——握る。
熱い。
指の腹がじんと痛む。でも、この熱さのうちでないと粒が締まらない。冷めたら、硬くなる。
三角に。崩れないように、潰さないように。
中央へ海藻の佃煮をひとつまみ埋める。
ぎゅっ。ぎゅっ。ぎゅっ。
三回だけ。握りすぎると、ただの塊になるから。
完成した。
手のひらの上に、白く輝くおにぎりが一つ。
金色の光が、表面をうっすら包んでいる。
* * *
裏庭の丘は、朝より少しだけあたたかかった。
見晴らしのいい芝生に、ミーナが敷いてくれたシートが広がっている。
ソフィアさまは「偶然通りかかっただけ」と言い張って、少し離れた木陰で本を開いていた。読んでいるふりが、あまり上手ではない。
ネルは枝の上で丸くなっている。
フィンさんに案内され、カイゼル殿下がやってきた。
「何だ、こんな場所に呼び出して」
「あの……殿下に、食べていただきたいものがあって」
殿下はシートの上に腰を下ろした。
初夏の風が、黒髪の先をさらりと揺らす。
わたしは布に包んだおにぎりと、味噌汁の入った保温容器を殿下の前へ並べた。
布を開く。
白いおにぎりが二つ。
味噌汁が一椀。
小皿に漬物。
「……これは何だ」
「おにぎりと、味噌汁です」
「おにぎり?」
「リヒト粒を炊いて、塩で握ったものです。中には海藻の佃煮を入れてあります。こちらは味噌汁で、ゾンネ豆を三週間発酵させて作った調味料を——」
「長い。まず食べていいか」
「あ、はい。どうぞ」
殿下がおにぎりを手に取った。
一瞬、眉が動く。
宮廷の食卓で、手づかみの料理が出ることなどないのだろう。
それでも殿下は、ためらわず口へ運んだ。
ひと口。
顎が、一度、二度と動く。
——殿下の動きが、止まった。
いつものことだ。美味しい時、殿下は止まる。
でも今回は、息の止め方まで違った。
目が見開かれていた。
碧眼の奥で、光が揺れている。
次のひと口。
さらに、もう一口。
おにぎりが半分なくなった。
殿下は味噌汁をひと口飲んだ。
吸い物椀を両手で包み、殿下は——じっと、中を見つめた。
「……殿下?」
声をかけると、殿下が顔を上げた。
わたしは、息を呑んだ。
殿下の目に、涙が滲んでいた。
感情を見せない氷の皇子。
そのまつげが、濡れている。
「殿下……? 口に合いませんでしたか? もし痛かったり、不快だったりしたら——」
「違う」
低い声が、わたしの言葉を断ち切った。
「違う。痛くない。不快じゃない」
殿下は味噌汁をもう一口飲み、残りのおにぎりにかぶりついた。
黙々と食べる。
涙をこぼしながら、黙々と。
全部、食べ終わった。
おにぎり二つ。味噌汁。漬物。
皿の端にも、何も残っていない。
空になった椀と皿を見下ろして、殿下は長く黙り——
顔を上げた。
そして。
「——美味しい」
たった四文字。
その四文字が、丘の風より少し遅れて胸に届いた。
殿下が十八年間、どこにも置けなかった言葉。
お母さんが届けたかった言葉。
「美味しい。……これが、美味しいということか」
殿下の声は、かすれていた。
わたしは——泣いた。
止めようとしても、無理だった。
両手で顔を覆って、みっともないくらい声を上げて泣いた。
「な、泣くな……」
「だって……だって、嬉しいんです……っ」
「泣くと塩分が——」
「そういう問題じゃないですぅ……っ」
殿下は——苦笑した。
口元が少し迷って、それから緩む。
初めて見る、殿下の笑顔だった。
氷が溶けるような、ぎこちない、不器用な、でも確かな——笑顔。
「リーゼ」
「はい……ひっく……」
「もう一つ、作ってくれるか」
「……はい。何個でも」
わたしは涙を袖で拭き、残りのリヒト粒を手に取った。
指が震えて、三角が少し歪む。
殿下はそれを受け取り、一口かじって——また、あの笑顔を見せた。
「美味しい」
二度目。
わたしは、また泣いた。
* * *
離れた木の下で。
ソフィアは本を持つ手を震わせていた。
表紙で顔を隠しているけれど、その下の目は真っ赤だ。
「……泣いてなんかいませんわ」
誰に言い訳しているのだろう。
木の上で。
ネルは前足で顔を覆っていた。
「……エルヴィン。お前の後継者は、やったぞ。あの小僧に『美味しい』と言わせた」
翡翠色の目から、光の粒がこぼれ落ちた。
「……約束通り、全部教えてやる。エッセンスの全てを」
丘の上を、風が抜けた。
初夏の、温かい風。
銀白色の髪の少女と、黒髪の青年が、芝生の上に並んで座っている。
少女がおにぎりを握り、青年が食べる。
ただ、それだけの光景。
けれど、木の上の老猫は、そこから目を離せなかった。




