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【51】嵐の前兆

 胸を冷やす知らせは、ヴェルナー教授の研究室から来た。


「リーゼ君。時間をくれ。話がある」


 放課後の研究室は、紙をめくる音ばかりが乾いて響いていた。

 教授はいつもの穏やかな笑顔を消していた。眼鏡の奥の目に、暗い影が沈んでいる。


「帝国魔術師団から——召喚状が届いた」


「召喚状?」


「私の研究について、聴取を行いたいそうだ。食と魔力の関係についての論文。それから——エルヴィンの手帳に関する研究だ」


 背筋を、冷たい爪でなぞられた気がした。


 エルヴィンの手帳。

 ヴェルナー教授が密かに保管していた、百年前の食の賢者の研究ノート。わたしがレシピを学んだ、あの手帳だ。


「教授、それって——」


「誰かが、情報を漏らしたのだろうな。私がエルヴィンの遺物を持っていること。君に見せたことまで」


 教授は眼鏡を外し、親指で眉間を押した。机の上の召喚状が、指先に触れて薄く鳴る。


「心配しないでくれ。手帳は安全な場所に移してある。聴取には応じるが、核心的な情報は渡さない」


「でも——教授が危ないんじゃ……」


「私は帝国魔術学院の正教授だ。向こうも簡単には手を出せん。だが——君は違う」


 教授がわたしを見た。


「リーゼ君。しばらく、目立つ行動は控えた方がいい」



 * * *



 その冷えが胸に残ったまま、フィンさんが別の紙を持って来た。


「リーゼさん。これ、さっき殿下宛に届いた報告書です。殿下が、あなたにも見せておけ、と」


 差し出された紙には、カイゼル殿下の情報網からの報告が記されていた。


『辺境ブラント村にて、身元不明の男二名が調査活動を行った形跡あり。ブラント家の家屋が捜索されたが、住人(リーゼ・ブラントの父)は不在。現在、父親の所在は確認できず』


「……お父さんの家が、捜索された?」


 指先から熱が抜けた。


 わたしを学院に送り出してくれた、不器用で優しいお父さん。

 辺境の小さな村で、薬草園をこつこつ守っているだけの人だ。政治にも魔術にも、縁なんてない。


 なのに——わたしのせいで、あの静かな家にまで手が伸びた。


「お父さんは無事なの?」


「所在が確認できないだけで、危害を加えられた形跡はありません。村の人の話では、数日前から薬草の採集で山に入っているようです」


 肺に詰まっていた息が抜けた。それでも、腹の奥の冷えは消えない。


「誰が……誰がお父さんの家を?」


「分かりません。ただ、捜索の仕方が——手慣れていたと。素人ではなく、訓練された人間の仕事だそうです」


 訓練された人間。

 軍か、魔術師団か。あるいは——どこかの貴族の私兵か。


 握った紙の端が震えて、かさりと音を立てた。



 * * *



 その夜、寮の部屋で。


 ネルが窓辺に座り、外を見たまま低く言った。


「リーゼ。見張られている」


「見張り?」


「学院の外——北門の近くだ。二日前から同じ男がいる。行商人のふりをしているが、目だけはこっちを向いている。お前の出入りを記録しているな」


 窓に近づく。冷えた硝子に、わたしの顔がぼんやり映った。

 暗くて何も見えないが、ネルの目は闇の中も見通す。


「それだけじゃない」


 ネルの声が、灯りの届かないところへ落ちた。


「宮廷の中にも——お前に関する情報を集めている人間がいる。外交晩餐会の後から急に動きが活発になった。誰が指示しているのかは分からんが——組織的だ」


「魔術師団?」


「おそらくな。だが確証はない」


 ネルが振り返った。翡翠色の目が、暗い部屋の中で光っていた。


「百年前と——同じ匂いがする」


「……エルヴィンの時と?」


「ああ。あの時も——始まりは『調査』だった。エルヴィンの周辺を探り、関係者を洗い、研究内容をつかむ。そして十分な情報が集まった時——」


 ネルが言葉を切った。


 続きを聞かなくても、分かった。


「まだ時間はある。やつらが動くには、情報が足りない。だが——」


「のんびりしていられない」


「そうだ」


 わたしは膝を抱えた。


 外交晩餐会のあと、わたしの噂は宮廷中を走った。

 アイゼンガルド国王が涙を流したという話まで。


 目立ちすぎた。


 「魔力ゼロの少女が、料理で国王を泣かせた」——甘い美談に聞こえる。でも裏を返せば、「魔力なき者が、魔法のような力を使った」ということだ。


 魔術師団にとって、それは喉に刺さる骨みたいなものだ。


 この世界の魔術は、マナを基盤としている。マナがなければ魔法は使えない。その前提の上に、魔術師団の権威は立っている。


 エッセンスは、その足場を鍋底からひっくり返す。

 マナなしで、魔法に匹敵する——いや、ある意味では魔法を超える力を発揮する。


 広まれば、魔術師団の権威は根から揺らぐ。


 だから、百年前にエルヴィンを殺した。

 そして今——わたしを。


「ネル」


「何だ」


「わたし——怖い」


 言った途端、喉の奥が熱くなった。


 十二歳の体で、帝国の権力と向き合っている。

 怖くないはずがなかった。


「怖くて当然だ」


 ネルが、わたしの膝の上に乗った。小さな体は、思いのほか温かい。


「だが——お前は一人じゃない。エルヴィンのそばにいたのは、わしくらいだった。だが、お前には——」


「みんながいる」


「そうだ。カイゼルも、ソフィアもいる。フィンは動くし、マルクスやグスタフ、ヴェルナーも黙ってはいない。お前が料理で繋いだ相手が、今度はお前の前に立つ」


 ネルの言葉は、いつもより棘が少なかった。


「それに——わしもいる。百年前は守れなかった。今度は、守る」


 わたしは、ネルの背中を撫でた。


「ありがとう、ネル」


「礼はいい。それより——明日から、お前の行動範囲を制限する。一人で外を歩くな。必ず誰かと一緒にいろ」


「分かった」


「それと——エッセンスの使用を、最低限に抑えろ。金色の光は、探知の手がかりになる」


 頷いた。


「ネル。一つ聞いていい?」


「何だ」


「百年前——エルヴィンは、自分が狙われていることに気づいてた?」


 ネルが、膝の上で動きを止めた。

 長い沈黙の後、答えが落ちた。


「気づいていた。だが——逃げなかった」


「なぜ?」


「逃げれば、エッセンスの研究が失われる。自分が逃げることで、エッセンスそのものが『危険なもの』だと認めることになる。あいつは——それを拒んだ」


 ネルの声に、古い痛みが滲んでいた。


「わしは逃げろと言った。何度も。だが、あいつは笑って言った。『俺が逃げたら、この味を誰が伝えるんだ』と」


 胸が詰まった。


「わたしは——逃げない。でも、エルヴィンみたいに一人で立ち向かうつもりもない。みんなの力を借りる。それが——わたしとエルヴィンの違いだと思う」


「……そうだな。それでいい」


 ネルが小さく頷いた。


 嵐が来る。


 まだ見えない。けれど、窓の隙間から入る空気の匂いが違う。


 わたしはただの料理人だ。

 政治も魔術も分からない。


 それでも、火の前に立つ時と同じ勘が、腹の底で焦げつくように告げていた。


 何かが動き始めた。

 止められないところまで、もう来ている。



 * * *



 翌朝。


 厨房に立つと、体だけは勝手に動いた。火を起こし、鍋を並べ、野菜を洗う。


 食材に触れている間は、余計なことを考えずに済む。

 グスタフさんに教わった言葉が、今度はわたし自身を支えている。


 でも——包丁を握る指先だけが、時々かすかに跳ねた。


 気づいたグスタフさんが、何も言わずにわたしの隣に立った。


 二人で、黙って玉ねぎを刻んだ。


 刃がまな板を叩く音が並ぶ。白い層が崩れ、青い匂いが目に染みた。


 言葉はいらなかった。

 厨房に立つ人間同士の、無言の支え。


 涙が出たのは——玉ねぎのせいだと思うことにした。

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