【43】殿下に「美味しい」と言わせる計画
カイゼル殿下の専属料理人になって、二ヶ月。
殿下はわたしの料理を毎日三食食べてくれている。
完食率は九割を超えた。以前は三割以下だったと聞くから、劇的な改善だ。
でも——殿下はまだ、「美味しい」と言ってくれたことがない。
「もう一つ」とは言ってくれた。
「これは……良い」とも言ってくれた。
料理対決の時には「惜しい」とまで言ってくれた。
でも、「美味しい」——その一言だけは、まだ聞けていない。
ネルは言った。殿下に「美味しい」と言わせた時、エッセンスについて全てを教えると。
それだけではない。
わたし自身が——殿下に「美味しい」と言わせたいのだ。
味覚過敏で、生まれてからずっと食事が苦痛だった人。
お母さんの最後の願いが「美味しいものを作ってあげたかった」だった人。
その人に、心の底から「美味しい」と思ってもらいたい。
料理人として、それ以上の栄誉はない。
* * *
「で、作戦会議をしたいんだけど」
放課後、わたしはソフィアさまの部屋に集まっていた。
メンバーは、わたし、ソフィアさま、ミーナ、そしてネル(窓辺)。
「作戦会議って、何の?」
ミーナがクッションを抱えて首を傾げる。
「カイゼル殿下に『美味しい』と言わせる計画」
「きゃー! ロマンチック!」
「ロマンチックじゃないよ。料理人としてのプライドの問題」
「はいはい、そういうことにしておきましょう」
ソフィアさまが、上品に茶をすすりながら微笑んだ。
この人、最近わたしをからかうのが上手くなった。
「まず、殿下の味覚の傾向を整理します」
わたしは手帖を開いた。
二ヶ月分のデータが、びっしりと書き込まれている。
「殿下が最も良い反応を示すのは、『旨味』です。グルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸——この三種の旨味成分の組み合わせが最適バランスの時、殿下の表情がほんの少しだけ緩みます」
「表情が緩む? あの氷の皇子が?」
「ほんの少しだけ。眉間のしわが一ミリくらい浅くなるの」
「一ミリ……よく見てますね、リーゼ」
ソフィアさまの目が、にやにやしている。
やめてほしい。
「次に、殿下が最もリラックスする食事環境。データによると、静かな部屋で、わたしだけが同席している時が一番よく食べます。大勢がいると食べる量が減る傾向があります」
「つまり、リーゼと二人きりだと一番食べるのね」
「そういうデータです」
「データって言えば何でも許されると思ってます?」
ミーナが笑いを堪えている。
ネルは窓辺で「にゃふっ」と鼻を鳴らした。猫のくせに笑うな。
「と、とにかく! 殿下に『美味しい』と言わせるには、殿下の味覚にとって完璧な一品を作る必要があります。旨味の三重奏をベースに、酸味は微量、甘味はほのか、苦味と辛味はゼロ。温度は人肌より少し高いくらい」
「具体的に何を作るつもり?」
ソフィアさまの問いに、わたしは一拍おいて答えた。
「おにぎり」
「……おにぎり?」
「この世界の言葉で言うと、握り飯です」
三人(と一匹)が、きょとんとした顔をした。
当然だ。この世界に「おにぎり」は存在しない。
そもそも、この世界には米がない——と思っていた。
でも、先月の旅行美食篇(学院の課外授業で南方の港町を訪れた時)、わたしは見つけたのだ。
港の市場の片隅で、雑穀として安く売られていた小さな白い粒。
見た目は少し細長いけれど、形も色も——米にそっくりだった。
「リーゼ、それって」
「『リヒト粒』と呼ばれている穀物です。この世界ではあまり食べられていません。理由は、普通に炊くとパサパサで美味しくないから。でも——」
「でも?」
「水加減と火加減を正確にコントロールすれば、前世の米と同じように炊けるはずです。しかも、リヒト粒にはグルタミン酸が豊富に含まれています。炊きたてのリヒト粒の旨味は——殿下の舌に、完璧に合うはずです」
ソフィアさまが目を丸くした。
「あなた、港町でそんなものを見つけていたの?」
「食品科学者の目は、いつでも食材を探してるんです」
前世のわたしは、究極のだしを研究していた。
米とだしは、和食の二本柱。
殿下に「美味しい」と言わせるなら——わたしの全てを込めた、最高の一品を作りたい。
「計画はこうです。リヒト粒を最適な水加減で炊き、塩だけで握る。中の具は、海藻の佃煮——海の旨味を凝縮したもの。そして、添えるのは——」
「添えるのは?」
「殿下の味覚に合わせた、旨味の三重奏の味噌汁」
味噌。
この世界にも、大豆に似た豆がある。それを発酵させれば——味噌に近いものが作れるはずだ。
発酵には時間がかかる。でも、前世の知識で最適な菌を見つければ、短期間で完成させられる。
「味噌の仕込みに三週間。リヒト粒の炊飯テストに一週間。合計一ヶ月後——殿下に、最高のおにぎりと味噌汁を出します」
わたしは手帖を閉じて、三人を見回した。
「協力してくれますか?」
ソフィアさまが微笑んだ。
「もちろん。味噌の仕込みには発酵学の知識が要りますね。わたくしも手伝いますわ」
「あたしは味見担当!」とミーナ。
ネルは欠伸をしながら言った。
「おにぎりとやら、わしにも作れ」
「もちろん」
こうして、「殿下に美味しいと言わせる計画」——通称「おにぎり作戦」が始動した。
一ヶ月後の、あの日のために。
わたしは、最高の一品を作る。




