【42】グスタフの弟子入り(逆)
宮廷料理長グスタフが、わたしに弟子入りした。
……文字にするとおかしいけれど、事実だ。
料理対決の翌日から、グスタフは毎朝五時にわたしの調理台の前に現れるようになった。白い料理服をきっちり着て、帽子を被って、腕を組んで。
「今日は何を教えてくれる」
五十代の大男が、十二歳の少女に「教えてくれ」と言っている。
周囲の料理人たちは最初、目を疑っていた。
でも、グスタフは本気だった。
「あの対決で、俺は負けた。負けた理由を理解しなければ、料理人として先に進めない」
プライドの高い人だと思っていた。今もそう思う。
でも、そのプライドが「負けを認めない」方向ではなく、「負けた原因を理解する」方向に向かうのは、本物の職人の証だ。
「分かりました。でも、わたしが教えられるのは技術だけです。エッセ——えっと、特別な何かを教えることはできません」
「構わん。俺が知りたいのは、お前が食材をどう見ているかだ」
こうして、世にも奇妙な師弟関係が始まった。
* * *
最初に教えたのは、玉ねぎの炒め方だった。
「ゼーベルを弱火で十五分。飴色になるまで」
「十五分だと? 俺の厨房では三分だ。魔法で一気に——」
「魔法を使わないでください」
「……何?」
「今日から、わたしの授業中は魔法禁止です」
グスタフの顔が、信じられないものを見るような表情になった。
宮廷の厨房で、魔法を使わずに料理をする。それは、この世界の常識では「退化」に等しい。
でも、わたしは譲らなかった。
「グスタフさん。あなたの料理は、魔法に頼りすぎています。魔法で温度を瞬時に上げ、魔法で味を整え、魔法で保存する。その結果、食材本来の力を引き出す機会を失っています」
「食材本来の力?」
「ゼーベルは、ゆっくり加熱すると辛味が甘味に変わります。これは食材自身が持っている力です。魔法で一気に加熱すると、この変化が起きません」
グスタフは無言で、フライパンにゼーベルの薄切りを入れた。
弱火。
一分。まだ何も変わらない。
三分。わずかに透明感が出てくる。
五分。グスタフの手が、何度か火を強くしそうになる。そのたびにわたしが「まだです」と止める。
十分。ゼーベルの色が変わり始めた。
十五分——
「……甘い」
グスタフが、飴色のゼーベルをひとつまみ口に入れて、目を見開いた。
「ゼーベルが、こんなに甘くなるのか」
「はい。硫化アリルが——えっと、辛味の成分が、低温でゆっくり加熱されると分解して、糖に変わるんです」
グスタフは黙って、もうひとつまみ口に入れた。
そして、フライパンの前で——しばらく動かなかった。
「俺は三十年、料理をしてきた」
「はい」
「三十年間、ゼーベルを甘くできることを知らなかった」
その声は、怒りでも悲しみでもなかった。
純粋な——驚きだった。
三十年のキャリアを持つ料理人が、たった一つの食材の性質に驚いている。
それは敗北ではなく、発見だ。
「グスタフさん。まだまだ、こういうことはたくさんあります」
「……そうか」
「はい。イムル芋は低温でデンプンが糖に変わります。ルーテは高温で色素が溶け出します。肉は六十五度を超えると急激に硬くなります。魚は——」
「待て。一度に言われても覚えきれん」
「あ、すみません。つい……」
料理の話になると、わたしは饒舌になる。
カイゼル殿下の前では緊張して言葉が出ないくせに、食材の話になると止まらない。
グスタフは、白い帽子の下で苦笑した。
「お前、本当に十二歳か?」
「十二歳です」
「どこで、これだけの知識を身につけた」
「……独学です」
嘘ではない。前世で学んだことは、確かに「独学」だ。
グスタフは、それ以上は追及しなかった。
代わりに、エプロンの紐を結び直して言った。
「次は何だ」
「出汁の取り方です。鶏骨から、最高の出汁を取る方法を教えます」
「出汁か。宮廷では魔法で——」
「魔法禁止です」
「……分かった」
* * *
それから毎朝、グスタフとわたしの「魔法なし料理教室」が始まった。
最初は宮廷の他の料理人たちも懐疑的だった。
「魔法を使わない料理なんて、原始人に戻るようなものだ」と陰口を叩く者もいた。
でも、一週間もすると——変わった。
グスタフが作る料理が、明らかに美味くなったのだ。
出汁を魔法ではなく自然に取るようになったことで、スープに深みが出た。
野菜を適切な温度で加熱するようになったことで、素材の甘味が引き立った。
肉の焼き加減を温度計で管理するようになったことで、柔らかさが格段に向上した。
宮廷の料理人たちが、一人、また一人と「教えてくれ」と言いに来た。
気がつけば、わたしの調理台の周りに人だかりができるようになっていた。
「リーゼ先生」と呼ばれるようになったのは、いつ頃からだったか。
「先生じゃないです……わたし、十二歳ですし……」
「年齢は関係ない。腕だ」
グスタフがそう言い切った時、わたしはこの人のことを初めて好きだと思った。
敵だった人が、仲間になる。
それは、料理の力だ。
美味しいものを一緒に作れば、敵も味方もなくなる。
* * *
その夜、ネルに報告した。
「グスタフが味方になったよ」
「ほぅ。あの頑固者がか」
「頑固だけど、正直な人だった。負けを認めて、学ぶことを恥じない。本物の料理人だよ」
「エルヴィンの時代にも、そういう料理人がいれば良かったのだがな」
ネルの声は、少しだけ寂しそうだった。
「ネル」
「何だ」
「エルヴィンの時代と、今は違う。わたしには仲間がいる。殿下も、ソフィアさまも、マルクスさんも、フィンさんも、ヴェルナー教授も、ミーナも。そしてグスタフも」
「……そうだな」
「だから、大丈夫。わたしは、エルヴィンと同じ結末にはならない」
ネルは黙って、わたしの膝に顔を埋めた。
灰色の毛並みが、微かに震えていた。
「……約束しろ」
「うん」
「絶対に、死ぬな」
「死なないよ。だって、まだ殿下に『美味しい』って言わせてないもん」
ネルは鼻を鳴らした。
「その前に、あの小僧に告白されそうだがな」
「……は?」
「知らんのか。あの小僧の目、完全に恋してる目だぞ」
「えっ……えぇっ!?」
「うるさい。寝ろ」
ネルは丸くなって、すやすやと眠り始めた。
わたしは天井を見上げて、真っ赤な顔で考えた。
殿下が、恋?
……ないない。絶対ない。
だって、殿下はわたしの料理が好きなだけで——
いや、それって——
「……寝よう。考えるのやめよう」
枕に顔を埋めて、わたしは目を閉じた。
明日の朝食は、殿下の好きな白粥。
心を込めて、作ろう。
——心を込めすぎて、光ったらどうしよう。




