【299】対等
グスタフと二人で厨房に残った。生徒が帰った後の片付けだ。
鍋を洗い、竈の灰を掻き出し、まな板に油を塗る。夕方の厨房は、昼より音が低い。水桶へ鍋を沈める、ぼこん、という腹に来る音。炭が鉄皿で割れる音。布が木台の脂を拾って、ざり、と引っかかる音。二人で動くと、手の速さが変に近かった。以前はグスタフの方がずっと速かった。こちらが追いついたのか、この人が相手に合わせることを覚えたのか。後者なら事件だ。
斜めの光が洗った鍋の縁に残り、水滴だけが細く光った。昼にあれだけ詰まっていた生徒の肘や声が消えると、流しの下の玉ねぎ皮まで目につく。皿棚は空いたが、端に欠け皿が三枚。よく働いた、で済ませるには修繕札が足りない。
湯に手を入れるたび、指の節がじんと痛む。二期生の実技で鍋を回し、匙を直し、焦げる前に火を引いた。疲れている。けれどこの疲れは嫌いではない。出汁を引いた後の骨みたいに、仕事をした形がちゃんと残る。
「お前の生徒——エルマだったか」
「はい」
グスタフは鍋底の焦げを金具でこそげ落としながら言った。顔は上げない。黒い欠片が刃先に溜まり、ぽろりと落ちる。
「あの子は聞こえるのか。食材の声が」
「ええ。まだ細いですけど。湯気とか、包丁の音にすぐ負けます」
「俺には」
金具が止まった。
「聞こえたことがない」
知っている。初めて聞いた話ではない。グスタフは生涯、エッセンスの声を聞いたことがない。それでも帝国一の料理人だ。声の代わりに、舌と手と、火の匂いを見てきた。補った、とは少し違う。同じ鍋に別の入口から手を突っ込んでいるだけだ。
昔のわたしは、聞こえることをずいぶん偉い場所に置いていた。聞こえない者は同じ台に立てない、と。塩の粒を一つ舐めて、塩味を全部分かった顔をしていたようなものだ。恥ずかしい。今さらだが。
「聞こえないことが、悔しかったですか」
尋ねると、グスタフは焦げを削る手を止めた。刃先に残った黒が、乾いた鍋肌へこすれて筋になる。
「悔しくはない。腹は立った」
「立ったんですか」
「分からんものに腹が立たん人間は、料理人に向かん」
ああ、と変に納得してしまった。
「聞こえる人間と聞こえない人間で、何が違うのか。血か。運か。鍋を何枚潰せば届く話なのか。お前に会うまで、そこが気持ち悪かった」
「今は分かりますか」
「分からん」
即答だった。気持ちいいくらい、刃物で切ったような返事だ。
「だが、どうでもよくなった」
グスタフが竈へ手を置いた。火を落とした後のぬるい熱が、まだ石に残っている。触るなら熱くない、しかし忘れていると火傷する、そのぎりぎりの場所だ。
「聞こえても聞こえなくても、最後に飯を食う人間の舌は同じだ。美味いか、不味いか。皿はそこから逃げられん」
それから、珍しく視線をこちらへ向けた。
「お前の飯は美味い。俺の飯も美味い。道具が違うだけだ」
返事が遅れた。グスタフが他人の料理を美味いと言うのを、わたしは初めて聞いた。塩を量り違えたみたいに胸が跳ねて、持っていた布を絞りすぎる。水が足元へ落ちた。
対等、と口に出しかけて、唇の裏で止めた。言った途端、学院の標語みたいになりそうで嫌だった。今は、同じ灰を見て、同じ鍋底の色を嫌がって、別の手つきで同じ皿へ戻ってくる。その途中で、二番釜の蓋が足りないことにも気づく。それでいい。
昔はこの人の背中ばかり見ていた。今は柄杓を取る手がぶつかり、わたしが引っ込め、グスタフが無言で棚を譲る。比べる癖が抜けたわけではない。ただ、今は台の端へどけておける。
「グスタフさん」
「何だ」
「わたしも——あなたの料理が好きです」
言ってから、耳が熱くなった。料理の感想で照れるのも変だが、この人相手だと、どうにも皿だけの話で済まない。
グスタフは鼻を鳴らした。頬の筋肉がぴくりと動く。たぶん照れた。この巨体が、鼻を鳴らして照れる。珍獣だ。
「手を動かせ。明日、二期生だけで三十六人だ。根菜を下茹でしないと回らん」
「はいはい。人を照れ隠しの仕込みに使わないでください」
「使えるものは使う」
「宮廷料理長の発言として最低です」
鍋をすすぎ、まな板へ油を塗る。木目がしっとり暗くなる。灰を掻き出すと、赤い炭が一つだけ残っていた。火箸でつまみ、別皿へ移す。グスタフも無言で同じ動きをする。並んでいると、息の切れる場所まで近い。
「先生たち、まだいたんですか」
戸口からエルマが顔を出した。忘れ物らしい。手に包丁巻き布を持っている。
「戸締まりするから、持って帰るなよ」
「ち、違います。布だけです。包丁は、ほら、棚に——あっ」
見せようとして包丁巻き布を開きかけ、エルマは自分で固まった。慌てて結び直す指がもつれる。
「帰れ。廊下で刃を出すな」
「はいっ」
逃げるように去った。足音が廊下を跳ね、途中で一度だけ止まり、また小走りになる。
戸口が静かになってから、グスタフがぼそりと言う。
「いい目だ」
「でしょう」
返すと、鼻で笑われた。
二人で最後の灰を掻き寄せ、金属の塵取りへ落とした。底に当たって、しゃり、と鳴る。灰の匂いが袖に残る。桶を元の位置へ戻すと、さっき落とした水で床が丸く濡れていた。布で拭いた。グスタフは見ていたが、何も言わなかった。廊下で誰かが薪束を落とし、乾いた音が三つ跳ねた。根菜の下茹では、まだ二籠残っている。




