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【300】次の皿

 宮殿の分室は、皿を置く音まで大きく聞こえた。


 夕食はカイゼルと二人。小さな台所を借りて、鯛を焼いた。蕪の漬物、米飯、味噌汁。献立だけなら質素だが、こういう日の胃にはこのくらいでいい。鯛の皮は炭火でぱりっと張らせ、身には水分を残す。味噌汁は豆腐と葱。蕪は昨夜のうちに塩を当て、朝に水を捨てて重石を替えた。炊きたての米は蓋を押し上げ、隙間から白い湯気を逃がしている。


 焼き網に鯛を載せると、皮から脂が落ちて炭が鳴った。じゅ、と狭い台所に弾ける。肩の奥が抜けた。どれだけ大きな話の前でも、魚は火加減でしか機嫌を直さない。


 カイゼルは席につく前、一度だけ鍋を覗いた。湯気で眉間を濡らし、蓋を戻す。余計なことは言わない。味見を申し出ないのは偉い。以前なら平然と蓋を開け、匙まで探していた。


「学院は落ち着いたか」


「落ち着きました。二期生を入れて、今は六十人です」


「増えたな」


「増えました。竈は足りています。鍋は二つ足さないと、冬場に詰まりますけど」


 魚を皿へ移した。皮が裂けず、箸先でつるりと滑る。よし。これで今日の勝ちはひとつ取った。


 向かいに座ったカイゼルが箸を取る。箸の使い方は上手くなった。最初は骨に負けて小骨を睨んでいたのに、今は迷わず身を外す。親指の角度も安定している。必要に迫られると、人は何でも覚える。


「次の話がある」


「米を飲み込んでからにしてください」


 カイゼルは言われた通りに咀嚼し、味噌汁をひと口飲んだ。


「婚礼の日取りだ」


 わたしの箸が空で止まった。米粒をつまむ前で、指先だけが変に熱い。


「——いつ、ですか」


「議会の年末会期が終わってから。来年一月」


 湯気の向こうで、カイゼルがこちらを見る。


「遅いか」


「遅くないです。……助かります」


「助かる?」


「学院の一期生の卒業式が十二月です。そこを越えないと、厨房を抜けるたび誰かが泣きます」


 カイゼルは味噌汁の底の豆腐を箸で追いかけた。真顔でそういうことをするからずるい。


「お前の準備は料理だけだろう」


「料理が一番時間を食うんです」


「衣装は」


「採寸だけ。午後に針子さんを押さえています。三人で足りるかは、布を広げてみないと」


「髪飾り」


「ソフィアさまに投げました」


「投げたのか」


「受け取ってくださいました。花はアリアです。放っておくと卓上が花畑になるので、花瓶の数だけ先に隠します」


「招待客の席次は」


「陛下の仕事です。わたしが触ると、肉を切る前に家同士が焦げます」


 カイゼルの箸が、鯛の背で止まった。


 式の規模を抑える気はないらしい。招待客の名を二、三挙げただけで、わたしの頭は米俵と魚箱へ逃げた。百人増えれば米俵一つでは済まない。祝いの鯛を痩せたものに替えるわけにもいかない。席が離れれば面子が削れ、近づければ家同士の古傷を突く。政治家の数は塩加減より難しい。怒鳴るのは議場でも、焦げるのは厨房だ。


「……確かに」


 カイゼルの口の端が、わずかに動いた。皇帝に席次はそっちの担当ですと言い切る皿洗い上がりの女は、帝都でもそう多くない。


「式の料理は——お前が作るんだったな」


「作ります」


「何を作る」


「決めてません」


 今度はカイゼルの箸が完全に止まった。


 何を出すか。宮殿料理の銀皿は見栄えがする。帝国の祝いの席らしさも要る。けれど市場の湯気や、学院の火や、炊き出しで回した鍋の熱も捨てたくない。城門前で働いた手が食べて、貴族が黙る味でないと困る。候補を考えるほど材料札が増え、黒板の端からはみ出す。


「決めていない?」


「候補はあります。鯛、鶏、豆、米、香草……材料札だけなら箱に入っています」


「箱」


「積んだら蓋が閉まりません。だから決まってません」


「当日までか」


「当日の朝、魚屋の顔を見て変えるかもしれません」


「魚屋の顔」


「前日に高い声で売っていた魚は信用できません。目と腹と、桶の水で決めます。食材の声、と言うと怪しいですけど」


 言ってから、自分でも料理人以外には意味不明だと思った。けれどカイゼルは鼻で笑わない。鯛の骨を一本取り落としかけ、皿の端へ戻して、しばらく黙った。


「……お前に任せる」


 胃のあたりが重くなった。嫌な重さではない。包丁を砥石に当てる前の、あの沈み方だ。


「承知しました」


 食べ終えた皿を重ねる。鯛の骨が一本、皿の縁から転がりそうになっていたので、箸で戻した。米櫃を開けると底が見えた。朝は三合で足りる。足りるはず。市場へ出す伝言札に「米、急ぎ」と書き足す。婚礼の一月という字面より、米の底の方が今は目の前にある。


「リーゼ」


「何ですか」


「焦がすなよ」


「何をですか」


「全部だ」


「鍋なら見てます」


「鍋だけではない」


 雑すぎる注意だ。洗い桶へ湯を張る。指を入れて、熱すぎて引っ込めた。


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