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【298】再開

 門の新しい板に、最初の包丁箱がぶつかった。


 直したばかりの板はまだ白く、蝶番を動かすたび油と樹脂の匂いが鼻につく。割れた窓も入れ替えた。光が差す角度までは戻らないが、床に落ちる四角は元の場所に近い。中庭の畑は踏み荒らされていなかった。包囲の間も、畑だけは誰も踏まなかったらしい。蕪の列が乱れず残っていて、そこで一度、息を吐くのを忘れた。


 厨房は明るすぎた。新しい硝子が光を跳ね、竈の煤まで見える。磨いた鍋の底に顔が歪んで映り、火口の近くでは湿った薪がぱちりと爆ぜた。戻った、というより、傷んだ場所を抱えたまま動き出した感じだった。


 足りないのは、人の手だった。炊き出しの後、入学希望者が門の外まで並んだ。百人を越えた。願書の束を抱えたアリアは、受け取りの机へ膝をぶつけて顔をしかめた。二期生として全部受け入れれば、昼の粥だけで一日に麦袋が二つ余計に消える。竈は増やした。鍋も市場から回してもらった。けれど教える手は、銀貨を積んでもすぐには生えない。


 願書の志望理由欄は、字の濃さも高さもばらばらだった。炊き出しで家族が助かった、と角ばった字。市場で学院の生徒に包丁の持ち方を教わった、と行からはみ出した字。仕事帰りの粥の味が忘れられない、と墨をにじませた字。読むだけで半日、昼食を食べ損ねた。拙くても、腹で書いた文だと分かる。


 グスタフを厨房へ呼ぶと、新しく打った棚の前で腕を組み、木目の節まで値踏みしていた。


「グスタフさん。週一ではなくて、週三にできませんか」


「無理だ。宮殿の仕事がある」


 即答だった。予想通りだ。けれど、ここで引くと塩を入れ忘れたスープになる。


「じゃあ、弟子を。宮殿の若手を二人、こちらへ回してください」


「腕が足りん」


「育ててください」


「お前がな」


「わたし一人では百人は見られません」


 言い返されると思っていた。いつもの低い声だ。けれどグスタフはすぐには背を向けない。押せば動く。


 グスタフは答えず、竈の縁を指で叩いた。乾いた音が何度か返って、途中で止まる。


「二人なら出せる。俺の基準で一度ふるいにかける。半端な包丁をここへ入れたら、怪我人が出る」


「グスタフさんの基準で結構です」


「給金は宮殿持ちだ。だが昼飯は学院で食わせろ」


「量は」


「大盛り」


「……分かりました」


「それと——」


「まだありますか」


「俺も正式に教官になる。週に三日。宮殿は副料理長に任せる」


 返事が遅れた。手に持っていた布巾を握り潰していた。グスタフが宮殿の仕事を減らすなんて、去年のわたしなら笑い飛ばしたと思う。


「いいんですか」


「いい」


 それから、口元をしかめた。


「あの炊き出しで分かった。あの連中が作る飯は不味い。不味すぎる。見ていられん。教えなければ一生あの味だ」


 理由がそれだったので、笑いが喉に引っかかった。不味い飯が許せない。この人は宮殿の予定表までそちらへ曲げる。


 黒板にはマティアスが描きかけた鍋の断面が残り、グスタフは横を通っただけで危ない包丁を取り上げる。わたしは焦げの匂いに首を向け、エッセンスの線を拾い、呼ばれた声の半分を聞き落とした。誰が柱だとか役割だとか、きれいに分けている暇はない。二期生は待ってくれない。


 一期生のエルマは、二期生の受け入れ準備で人一倍動いていた。包丁置きの位置を書いた札を作り、畑の区画を指で測り、貯蔵庫では崩れかけた豆袋を抱え直している。前掛けの紐を結ぶ手が以前より速い。


「先輩として——教えていいですか」


 申し出てきた時、声は震えて、最後が消えた。けれど目は前を向いている。


「教えるのも勉強です。お願いします」


 そう言うと、エルマは胸の前で拳を一度握った。嬉しい時にこの子は、笑う前に拳を作る。


 二期生の初日、厨房は前より狭い。多いから、では済まなかった。新しい前掛けの麻の匂い、緊張で何度も鳴る喉、磨いたばかりの鍋に映る青い顔。名簿を読むたび返事の高さが違った。貴族の子は返事が硬く、職人の子は早口で、農家の子の声は鍋に当たって返る。竈の前に立つと、みんな汗をかく。


 グスタフの初回授業は容赦がなかった。挨拶を切り捨て、玉ねぎを三十個、木箱ごと置く。


「切れ。厚さがそろわん奴は鍋に入れるな」


 泣きながら切る二期生たちを見ても、一期生は誰も笑わなかった。ただ、目を真っ赤にした子へ水桶の場所を顎で示している。


 廊下では、泣いた後の目をこすりながら鍋を運ぶ新入生と、粉袋を抱えた商人がぶつかりかける。厨房の隅ではエルマが布巾の畳み方を三度やり直させていた。授業が終わっても、学院の一日はそこから長い。


 講義の合間、棚の端に畳んだ前掛けが目に入った。ヨハンのものだ。洗って、畳んで、そのままにしてある。布の折り目は崩れていない。戻るかどうかは分からない。邪魔になる場所ではない。だから片付けない。


「先生、新しい鍋の蓋、これ合ってますか」


 呼ばれて振り返る。二期生の一人が、大きすぎる蓋を片手で抱えていた。


「それは隣の鍋です。こっち。重いでしょう、片手で持たない」


 受け取った瞬間、指に冷たい金属が食い込んだ。載せ替えると、縁がきちんと噛み合って鈍く鳴る。新しい蓋はまだ傷ひとつない。たぶん、今日の夕方には一つつく。


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