【296】投降
門番が、ほうきを抱えたまま振り返った。
「ルートヴィヒ殿が」
何日目か、と数えかけてやめた。門の外に、ルートヴィヒが一人で立っていた。
杖をつき、外套の合わせ目を片手で押さえている。馬車ではない。歩いてきたらしい。靴の爪先に土が固まり、裾は朝露を吸って重そうだった。護衛もいない。昨夜の炊き出しの灰がまだ敷石に残り、遠くの路地から鍋を洗う音がした。
門の外の石畳には、こぼれた粥の跡が薄く白く乾いていた。掃ききれなかった葱の切れ端まである。敗北でも降伏でもなく、誰かが腹を満たして帰った後の床だった。
「——入りますか」
「いや。ここで構わない」
ルートヴィヒは門の外に立ったまま、帝都へ目を向けた。昨日より煙は減っている。それでも空へ細い白が何本も上がる。片付けと仕込みが、同じ火の上で進んでいる匂いだ。
「見事なものです」
「わたしがやったことじゃありません」
「分かっています。あなたが火を入れた。鍋を増やしたのは帝都の人々だ」
老人は視線を戻し、杖を立てた。節くれた手が、木の頭をきつく握る。
「わたくしは——間違っていた。……と、言うべきなのでしょう」
謝罪というより、帳簿の誤差を読み上げる声だった。腹の底から絞り出したものではない。それでも、逃げる声ではない。
「何がですか」
「管理すれば安全になる。力を限られた手に置けば、事故は減る。そう信じていました。……信じた方が、楽だった」
「楽」
「責任者を少人数に閉じ込めれば、数えやすい。処罰も、記録も、予算も。だが昨夜、あの鍋の前では、わたくしの理屈は皿一枚ほども役に立たなかった」
ルートヴィヒは歯の裏で言葉を止める。謝罪に聞こえる形を探すほど、言葉が硬くなる。面倒な人だ。けれど、その面倒さを抱えて門まで歩いて来た。
門扉の隙間から、まだ温い煤の匂いが抜けた。どこかの粥の甘い匂いも混ざる。門番がほうきを握り直し、藁の先が石を掻いた。返事を急かす者はいない。
ルートヴィヒは眼鏡を外し、布で曇りを拭った。手が震えている。寒さだけではない。
「わたくしは議会へ自首します。包囲を命じたのはわたくしです。武器の調達も、街道の封鎖も、動かした金も」
「金まで」
「署名があります。請求書も残る。実際に使わせる前に崩れましたが、準備した分だけ人が動き、道が止まり、商いも傷みました」
言い逃れをする気はない顔だった。ルートヴィヒは顎を上げない。逃げ道を自分の杖で塞いでいる。
「裁きは皇帝陛下に委ねます」
そこで言葉が切れた。喉が鳴る。杖を持つ手の甲に青い血管が浮いた。
「ただ——お願いがあります」
「何ですか」
「学院に安全管理の授業を設けてください。暴走事故の記録と、その止め方を。隠した時に何が増えるかも。死者、材料費、処分にかかる日数。わたくしの六十年は、そこなら使えるはずです」
最後まで管理だ。呆れそうになって、門の石に染みた粥を見た。包丁を持たせるなら、指を切った時の布も要る。火を教えるなら、燃え移った時の砂も要る。
楽しい授業にはならない。欠伸をする生徒も、嫌がる教師も出る。けれど事故は、退屈な注意書きを飛ばした場所から出る。
嫌われる係を引き受ける人間が要る。ルートヴィヒの六十年は、甘く煮ても柔らかくならない骨みたいなものだ。出汁は出る。本人は罰の続きとして噛むしかない。
「……分かりました。安全管理の授業を作ります。座学だけにはしません。焦げた鍋と、折れた器具と、何人倒れたかの数字も持ってきてもらいます」
「厳しいですね」
「あなたが言い出したんです」
ルートヴィヒの喉が動いた。安堵か、諦めか、判別がつかない。
「ありがとうございます」
言った後、ルートヴィヒは息を吐いた。白い息が眼鏡の縁をかすめる。外套の肩が一段落ち、襟元だけがやけに大きく見えた。
それだけ言って頭を下げた。深くはない。外套の肩がずれ、膝が追いつかない礼だった。門の外で、学院に向かって頭を下げる。その重さは見た目より大きい。
門の脇では、昨夜手伝っていた元包囲者の一人が、ほうきを止めてこちらを見ていた。ルートヴィヒはその視線にも気づいたはずだが、振り返らない。
「——では」
杖を突き、歩き出す。宮殿の方へ。背中は細いのに、崩れない。舗道の継ぎ目で杖が滑りかけ、靴音が乱れた。わたしが一歩出ると、老人は肩だけでそれを制した。
「大丈夫です」
振り返らずに言う。声は乾いていた。
そのまま角を曲がり、姿が見えなくなった。
ほうきを持った男が、気まずそうに葱の切れ端を指した。
「ここも、掃きますか」
「お願いします。石の目に入ると、あとで臭います」
男は頷き、ほうきの先を濡れた跡へ押しつけた。




