【295】百万人の食卓
兵舎の前で火を足している間に、炊き出しは帝都のあちこちへ勝手に伸びていた。
市場の端、広場の石畳、貧民街の雨樋の下。橋の欄干には鍋を吊るす鎖が渡され、門番の詰所の横では割れた煉瓦を積んだだけの竈が赤くなっている。誰が最初に火をつけたのか、もう追えない。学院の生徒に教わった町人が自分の街区で火を熾し、隣が匂いにつられた。薪を半束借り、鍋を二つ持ち寄り、足りない塩は市場の店主が舌打ちしながら量って寄越した。噂より先に湯気が走った。
報告は机にぶつかる勢いで飛び込んだ。南区は魚飯、ただし魚が足りず干し小魚まで削っている。西門前は豆粥、豆が固い。橋の袂では焼き芋が焦げ、広場の鍋は肉より玉ねぎのほうが多い。フィンの護衛が地図へ赤を打つたび、点が滲む。制圧図というより、腹を空かせた街の献立表だった。
カイゼルの排除命令は、使わずに済んだ。包囲はほどけた。四十人の包囲者は、三千人の炊き出しの中へまぎれた。槍で押し返す相手は消え、さっきまで敵だったはずの男が、井戸端で鍋の煤を落としている。腕まくりまでして。
市場から戻った屋台主たちは、兵舎に礼もそこそこ、自分の街区へ鍋を回すと言って散った。残ったのは生徒と、手伝い慣れていない町人が数人。それから、次の報せを運ぶ足の速い子どもたちだ。紙の命令書より、焦げた砂糖の匂いのほうが遠くまで人を動かしている。
たしかめたくなって、わたしは兵舎の屋根へ上がった。梯子の木は昨夜の煤で黒く、握るとざらりと爪の間に入る。瓦は日を吸いはじめていたが、膝をつくとまだ冷えが残っていた。端まで這うように進み、帝都を見渡す。
煙が立っていた。
数えきれない。東も西も、塔の影の向こうも、細い煙が空へこぼれていく。白いのは乾いた薪、青っぽいのは湿った薪だろう。途中でちぎれ、別の煙に混ざる。台所の煙だ。誰かが腹を空かせた誰かへ、飯を出そうとしている煙だった。
風向きが変わる。魚の脂、豆の甘い湯気、焦がした砂糖。南の市場からは獣脂の重さも混じる。宴会ではない。鍋の縁に肘を押しつけられ、焦げる前に食べろと急かされているような、帝都じゅうの狭い夕食だった。喉の奥が熱くなる。
耳の奥が鳴った。大賢者の感覚が、こちらの都合を聞かずに開く。小麦粉を練る掌、蕪を切る刃、芋の皮が火ではぜる音。肉の脂が落ち、魚が塩を吸い、豆がまだ芯を残したまま鍋の底で暴れる。塩が溶ける。水が沸く。包丁が板を叩く。数が多すぎて、どれも半端に刺さってくる。
「……っ、まって」
膝が抜けかけた。屋根の端へ片手をついて座り込む。瓦の熱が掌へ移り、爪の下に煤が入る。大鍋を百個同時に覗かされるより重い。都市全体が厨房になって、湯気ごと頭の奥へ押し込まれてくる。
耳だけではなかった。足裏までざわつく。石の下を通る水みたいに、熱が街じゅうを巡っている。わたし一人で制御できる量ではない。そもそも、制御するものでもない。分かっているのに身体が勝手に聞きに行く。大賢者の性質は、こういう時ほど余計な手を伸ばす。
屋根瓦の縁を掴んだ。落ち着け、と頭で唱えるより、硬いものを握るほうが早い。都市ひとつ分の熱を前にしても、わたしの手は結局、鍋底を返す形しか覚えていない。
百万人の食卓。
帝都の人口は、およそ百万人。全員の口へ届くはずがない。穀物も薪も足りない。釜戸の数だって限りがある。届かない椀の方が多い。それでも今日、空腹の人間へ鍋を差し出す手が、街のあちこちで増えている。学院だけでは絶対に届かなかった量だ。
そう考えかけて、焦げの匂いに首を振った。
下から声が割れた。
「先生——! せんせい、どこですか!」
エルマが梯子のところから顔を出した。額に汗。頬に煤。息が上がりすぎて、声の端が切れている。
「みんな探してます。スープ、焦げます。たぶんもう、底が」
「どの鍋」
「東側の仮設竈、二番目! 火を落としたんですけど、薪が、奥に——」
それはまずい。あの竈は火の回りが強い。奥へ入った薪は、外から水をかけても蒸すだけだ。
「行く。蓋、開けさせないで」
梯子を降りる。手が急いて、一段飛ばしかけて足袋の裏が滑った。途中でトーマスと肩をぶつけ、彼が抱えていた木の匙が一本落ちる。拾う暇はない。下へ着くなり、鼻を焦がす苦い匂いがした。表面ではない。底だ。
「蓋を外さない! 火を引いて、奥の薪! そこ、足で蹴らない!」
叫びながら鍋の柄へ手を伸ばす。熱で指先が痺れた。木杓子を差し込んで底を返す。表面はまだ無事。底の一角だけ、色がつき始めている。間に合う。
「水じゃなくて出汁! 出汁の桶、どれ!」
「これ、半分しか——」
「半分でいい、先に寄越して!」
アリアが桶を抱えて走ってきた。縁から跳ねた出汁がわたしの腕へ落ちる。熱い。構わず鍋へ流し、底をさらう。木杓子の先で焦げかけた膜が薄く剥がれ、苦みが少しだけ引いた。その横で、誰かがパン籠を倒す。木の音。悲鳴。転がった丸パンを、煤まみれの子どもが両腕で押さえ込んだ。




