【294】炊き出し
屋台主たちの噂は、帝都中を回っていた。
学院が包囲されている。なのに生徒たちは、包囲している者へまで飯を出した。市場の屋台主が食材を担いで駆けつけた。そこまでは人の口だ。広がったのは、むしろ煙と匂いだった。兵舎の竈から上がる湯気が東区の屋根を舐め、濡れた洗濯物と石壁の間に入り、腹を空かせた鼻先へ届く。噂より先に、胃が反応した。
門の前に人が並んだのは、日がまだ屋根の端に引っかかっている頃だった。包囲の連中ではない。町の人だ。籠や樽や麻袋を抱え、肩で息をしている。芋、豆、傷物の林檎。焼き過ぎたパンの箱に、細かく割れた麺、形の悪い人参が突っ込まれている。売り物にならない半端ものばかりだ。だが鍋へ入れば同じだ。
「炊き出し、してるんだろ。手を貸す」
「うちにも芋が残ってた。持ってきた」
「パン屋だ。焦げた。……削れば食える」
気づけば三百人近くが兵舎の周りに詰まっていた。包囲の四十人は、逆に群衆へ飲み込まれた。囲んでいる側が囲まれている。外套の列は線にならず、籠を避け、桶を避け、人波に押されるたび苛立った顔で振り返るだけだ。
列の中には、学院へ恨みを持っていたはずの旧魔術院寄りの商人もいた。前に市場で嫌味を言ってきた男だ。豆袋の口を抱え込み、汗で滑る縄を直している。売れば銅貨になるはずの豆を、今日は列の後ろで差し出すつもりらしい。空腹と匂いの前では、立場は案外あっさり剥がれる。
わたしは厨房から出た。煙で喉がひりつく。中庭を見回すと、長テーブルが足りない。鍋も足りない。竈は論外だ。
「テーブルを外へ。全部です。椅子はいりません。竈も運ぶ。足りない分は――レンガ、積みます」
言うと、町の人たちは返事より先に動いた。煉瓦が腕から腕へ渡り、水桶が跳ね、薪の乾いた音が続く。門扉の脇に二基。中庭の隅に三基、と思ったら一つは傾いて組み直し。壁際には石を噛ませて二基。泥だらけの手で積んだのに、火が入ると形になる。台所は人の数だけ増殖する。
エルマが土のついた頬で走ってくる。
「先生、鍋の高さ低いです。これ、木が焦げます」
「下に石。平たいのを噛ませて」
「はいっ」
トーマスは薪割りの若者から斧を取り上げ、柄の握りを直させていた。アリアは板切れに配給表を書きつける。椀の数が足りない列には印をつけ、パンを半分に割る列は別にする。市場の屋台主たちは、学院の生徒に任せられる仕事と、まだ危ない仕事を顔つきだけで仕分けた。教える側が急に三十人増えたみたいだった。
大鍋を運ぶたび、石畳へ湯がこぼれて白く曇った。誰かが「熱い」と声を詰まらせ、別の手が鍋耳へ布を押し込む。子どもたちは薪の屑を拾い集め、年寄りは座ったまま豆の筋を取る。指揮者はいない。けれど腹を満たす段取りだけは、人が勝手に覚えている。
炊き出しが始まった。
煮込み鍋は、底から掬えば芋が崩れ、豆が重く杓子に残った。スープは三百杯近くまで薄める。パンは足りないので割る。焼き芋は桶ごと回し、火の強い竈に近い者から取らせた。パン籠を開けると、削った焦げの下から白い断面が覗く。裂けた芋の皮から甘い湯気が立ち、列に並ぶ人々の喉が上下した。
食べるだけでは済まなかった。学院の生徒たちは鍋の縁や水場の横で、手を止めずに教えていた。蕪を厚く切った子には、火が通らないと断面を見せる。塩を掴み過ぎた男の手首を、エルマが慌てて押さえる。木杓子は底をこする。同じ場所を掻かない。焦げの匂いがしたらすぐ声を出す。二か月の学院で覚えたことが、湯気の中で町の手へ移っていく。アリアは帳面を小脇に挟み、子どもの芋の皮を一枚、自分で剥いて見せた。
匙の音が増えた。さっきまで受け取る側だった女が、隣の鍋へ木杓子を突っ込む。皮剥きを覚えた子どもが、桶を抱えて走る。広がった台所は、火力より手数でどうにかするしかない。
わたしは配給表の端を押さえ、空いた欄に炊き上がりの時刻を書き足した。兵舎でも広場でも路地でも、手を洗う桶と刃物を置く台があれば授業は勝手に始まる。困る。鍋の数も布巾も足りない。けれど火を止めるより、手を増やす方が早かった。
包囲の連中は半分以上が帰っていた。残った者も立っているだけで、外套の裾を握ったり、足先を竈へ向けたりする。誰か一人が鍋の匂いへ首を向けるたび、隣の者もつられた。空腹は規律を薄くする。
エルマがその一人にパンを差し出した。男は一度、包囲の仲間を見た。それから受け取り、観念したように齧った。噛んだ瞬間、肩の力が落ちる。
「……手伝っても、いいですか」
「手、洗ってから」
元包囲者は井戸で手を濡らし、竈の前に立って芋の皮を剥き始めた。刃の角度が悪くて身を厚く削っている。隣にいた屋台の女将が舌打ちし、包丁を取り上げて握り直させた。
「違う。親指を立てるな、芋ごと落ちる」
「は、はい」
男の耳が赤い。エルマが横から芋の向きを直してやると、男は礼を言うタイミングを逃し、皮を落とす速度だけを上げた。
剥かれた皮が足元の桶へ落ち、湿った音を立てた。




