【293】援軍
議会から排除命令の紙が届くより先に、門の外へ別の音が押し寄せた。包囲五日目だった。
仕込み包丁を握ったところで、厨房の窓が小さく震えた。包囲の連中が揉めている声ではない。木箱の角が石畳を噛む音、荷車の軋み、値切り損ねた客みたいな怒鳴り声。窓を開けると、湿った風に、生肉の鉄くささと焼いたパン、砕けた香辛料の鼻に痛い匂いが混ざって流れ込んだ。
門の前に見知らぬ人間が立っていた。包囲の黒い上着ではない。前掛けだ。料理人——いや、屋台の人間。一人ではない。十人ほどと思ったら、市場通りから荷を肩に食い込ませた者たちがまだ来る。二十。もっと。包囲の輪を避ける気配がない。避けると邪魔だと言いたげな足だった。
先頭に見覚えのある顔があった。市場で肉を焼いている屋台の主人。胸板が厚く、声だけで人垣を割る男だ。ヘルマン。
「おい。あんたが学院の先生か」
「そうです」
門の内側まで出ると、包囲していた男が棒の柄を握り直した。隣の男が肘で止める。食材を担いだ市民を殴るには、人目が多すぎる。朝市帰りの目は口も動く。向こうにも、そのくらいの損得は分かるらしい。
「うちの嫁が言うんだ。先週の公開試験で、おたくの子が蕪のスープを出したってな」
ヘルマンは鼻の頭をこすった。照れているのではなく、怒っている時の仕草に見えた。
「七十年前に食った故郷の味だとよ。泣いて帰ってきて、その日の屋台番を忘れた。俺が一人で肉を焼いた。迷惑な話だ」
言い終える前に、背負っていた袋を地面へ落とした。どすん、と鈍い音。布に白い脂が滲む。塩をまぶした塊肉。腸詰め。脂。皮つきの骨まである。
「俺たちは料理人じゃねえ。ただの屋台の親父だ」
嘘だ。毎朝、火と客の機嫌を相手にしている人間が料理人でなくて何だ。口を挟む前に、ヘルマンが顎で袋を示した。
「けど、飯を食わせることなら知ってる。学院だろうが屋台だろうが、腹は腹だろ」
後ろで魚屋の主人が木箱を降ろした。蓋の隙間から鯖の尾がはみ出す。八百屋の女将が芋袋をわたしの足元へ置き、香辛料売りの老人は瓶の割れを指で確かめて舌打ちした。野菜、果物、パン、魚、干物、酢、香草。市場の通りが、そのまま石畳を踏んでこちらへ曲がってきたみたいだった。包囲の輪の外から別の荷車が押し込まれ、子どもが一人、焼き立ての丸パンを胸に抱えて走ってくる。
「差し入れだ。市場の連中からかき集めた。全部じゃねえぞ、売り物も残した。昼に屋台を閉めたら俺たちが干上がる」
そこでヘルマンは、後ろの連中を親指で指した。
「で、こいつらは手が空いた。いや、空けた。文句はあとで聞く」
屋台主たちが前掛けの紐を締め直した。結ぶ位置が低い。火の前で動く人間の手だった。
包囲の連中は紙の命令書を懐から出しかけ、それを戻した。肉の匂いが強すぎる。『民間人の寄付』を止める字は、たぶんそこにない。作れば夕方には噂になる。帝都の腹は、議会の建前よりずっと正直だ。
市場の連中は誰も晴れがましい顔をしていない。魚屋は手拭いで鼻を拭き、八百屋は靴底の泥を階段で落とし損ね、パン屋の腕には粉が残っている。助けに来た英雄というより、遅れた仕込みに割り込む顔だ。わたしの肩から、変な力が抜けた。
厨房へ入れた途端、兵舎は市場の裏口になった。ヘルマンたちは火床の癖を見て薪を足し、鍋底の厚みを指で叩き、勝手にまな板の位置までずらし始める。兵士が一人、置き場を聞こうとして、木箱を持たされた。
「何人だ」
「中が三十。外が、たぶん四十」
「たぶんってなんだ」
「増えたり減ったりします。あと、外にも出します」
「外の、あいつらにもか」
「はい」
魚屋の包丁が止まった。アリアが帳面から顔を上げる。
「正気か、先生」
「空腹の敵は、よけい大声を出します」
ヘルマンの口元が歪んだ。笑っているのか、歯に肉の筋でも挟まったのか分からない。
「七十人か。粥なら鍋二つでごまかせる。肉は薄く。骨は捨てるな。塩は惜しむな、けど振りすぎるな。水を飲まれると桶が死ぬ」
「屋台三日分ですね」
「手間は勝てる。金は知らん。あとで市に付け回す」
魚屋の主人が樽から鯖を掴み出し、銀色の腹をまな板へ叩きつけた。水が跳ねてトーマスの袖にかかる。
「うわっ」
「洗えばいい」
八百屋の女将は葉物の泥を払い、鍋の担当へ放る。香辛料売りの老人は勝手に匂い袋を開け、鼻先で確かめながら肉用とスープ用を分けていった。生徒たちは息を詰め、目だけで追い、すぐ手を出した。
エルマは隣の屋台主に肉の筋を指で押さえられ、「違う、そこは喧嘩する」と手首ごと直された。代わりに蕪の火の通り方を教えると、屋台主は黙って頷き、鍋の端へ場所を空けた。トーマスはパンを焼きながら魚屋と目利きの話をしている。アリアは帳面を抱え、流れ込む量に追いつこうと必死だ。三樽、一袋半、瓶八本——いや七本、一本はひび。床は泥だらけになったが、誰も足元を見ていない。
竈は全台埋まった。八つの火口が口を開け、鉄鍋の腹が赤く光る。脂が落ちて爆ぜ、湯気でまつ毛が湿った。生徒と屋台主が同じ鍋を覗き込み、肘がぶつかるたびに具材がこぼれる。謝る暇はない。拾えるものは拾い、駄目なものは捨て、次の手が鍋へ伸びている。
「先生、塩どこだ!」
「二段目の右。違う、それ砂糖!」
「魚の血、どこへ流す!」
「裏口の樽を使って。蓋は足で押さえて!」
「足で!?」
「手がふさがってるなら足!」
声が飛び交う。指示というより、台所の呼吸だ。返事を投げながら、頬が熱くなっているのに気づいた。笑っていたらしい。戦争を仕掛けられている最中に、鍋の数で困っている。笑うところではない。けれど腹は減るし、鍋は足りない。わたしは笑ったまま、空いた火口を目で探した。
包囲の外からさらに荷車が着き、誰かが大鍋を抱えて駆け込んできた。入口で蓋が外れ、中から木杓子が一本転がる。
「鍋、借りてきたぞ! 返す時は焦げ落として返せってさ!」
木杓子は包囲の男の靴先に当たった。男が拾い上げる前に、パンを抱えた子どもがひょいと奪い返す。
「それ、うちの」
わたしは大鍋を受け取り、空いている火口を指した。
「そこ。水を半分。骨から先に」
ヘルマンが喉の奥で笑った。
「ほら、戦場になったぞ、先生」
返事をする前に、鍋の底で骨が鳴った。




