【292】ルートヴィヒの来訪
馬車の車輪が門の外で止まり、夜の石畳が低く鳴った。包囲四日目のことだ。
日が落ちてからの兵舎は、昼より音が通る。井戸の鎖、薪のはぜる音、皿の縁がぶつかる硬い音。湿った夜気を吸った石壁から、冷えと苔の匂いがしみ出していた。フィンが厨房口に立った時、わたしは鍋底の焦げを木杓子でこそげていた。
「ルートヴィヒ・フォン・アルトシュタット。本人です。会いたいと」
「——通してください」
「危険です」
「刃物を振り回す人じゃありません」
あの夜、分かった。老人は手を上げるより、規則と署名で相手の喉を締める。だから安全、という意味ではない。フィンの眉間は深くなったが、結局うなずいた。
ルートヴィヒが入ってきた。杖の先が石床を打つ。乾いた音が、竈の火の音に混じった。厨房へ入るなり、視線が棚、竈、吊るした鍋、袋の口へ流れる。挨拶より検分が先だ。豆の湿り具合まで数えそうな目だった。
「——包囲中でも、台所は止まりませんか」
「料理人ですから」
返すと、ルートヴィヒは鼻梁の上で眼鏡を押し上げた。燭台の光が、薄いレンズの端で冷たく折れる。
「聞きました。わたくしの部下に食事を出しているそうですね」
「お腹が空いている人がいたので」
「……それだけで?」
「それだけです」
呆れも皮肉も乗らない声だった。計算の途中に、あり得ない数字を見つけた学者みたいな顔をしている。
椅子を勧めた。ルートヴィヒは腰を下ろしても、背を預けない。わたしも向かいに座った。茶は出さなかった。湯を沸かす炭も、茶葉も、いまは学院のものだ。
「何をしに来ましたか」
「最後の提案です」
老人は手袋を外さず、膝の上で指を組んだ。
「学院を閉じてください。包囲を解きます。あなたの研究は続けて構わない。教科書も、いまは禁じない。ただ、門の看板を下ろしていただく」
「看板」
「人を集め、名前を付け、門を開けておくものです。署名一枚で人が集まる。事故が起きた時、その署名は責任を薄める紙にもなる。包囲も安くはありません。一晩ごとに飼葉が消える。護衛の手当、遅れた荷の違約金、車輪一本。こちらの帳面にも赤い線が増えている。だから払えるうちに終わらせたい」
言葉は丁寧なのに、勘定台の上へ硬貨を並べる音がした。
「理由は同じですか。危ないから」
「危ないから、では軽すぎる。署名した者が死体を数えずに済む仕組みになるからです。あなたならエッセンスを暴走させないでしょう。だが、あなたの生徒は? 焦げを削る手で、全員が同じ火加減を覚えると、誰が保証する」
「保証はできません。だから見ます」
「目を離した時に、人は動く」
机の上で、ルートヴィヒの節くれだった指が一度だけ擦れた。
「一度覚えた手つきが、門の外へ出ていくことを、怖いと思わないのですか」
答えがすぐ出なかった。鍋は吹きこぼれる。包丁は指を切る。火加減を見ろと言っても、笑って目を離す子はいる。全員が正しく使う保証なんて、ない。
それでも。
「信用しきれなくても——やります」
「なぜ」
平たい声なのに、竈の火が一段弱くなった気がした。
「食べることまで、鍵付きの棚に入れたくないからです」
膝の上の自分の手を見た。粉で荒れた筋が白く残り、爪の脇に焦げが入り込んでいる。
「旨い飯を、許可札を持った人間だけのものにしたくありません。危ないから台所を閉めても、腹は減ります。閉めた扉の前で、誰かが生の芋を齧るだけです」
「理想論です」
「はい」
認めると、ルートヴィヒの眼鏡の奥がわずかに細くなった。
「でも鍋は空になりません。理想だけじゃ腹は膨れない。だから、手を洗わせて、薪を足して、失敗したら床を拭かせます。火傷した指に油を塗って、焦げた鍋を削らせる。閉めるより、その方がまだましです」
そこで話が切れた。竈の薪が崩れ、火の粉が一つ跳ぶ。ルートヴィヒは音のした方へ顔を向けた。しばらく火を見ていた。
「あなたは、わたくしが何を恐れているか知っていますか」
「暴走事故でしょう」
「ええ。若い頃、三十七人が死んだ実験を見ました。わたくしは片付けまで立ち会った。焦げた鍋の匂いは洗えば消えます。焼けた人間の匂いは、六十年経っても残る」
その時だけ、手袋の指先が膝の上で曲がった。声の揺れは薄い。けれど、まっすぐ張った糸に刃を当てたみたいな音がした。
「だから閉じる?」
「閉じ込める。選ばれた者だけに扱わせる。被害は小さくなる」
「食べられる人も減ります」
「死ぬ人も減る」
同じ鍋を見ているのに、この人には爆ぜる鉄の塊に見えている。わたしには、今日の晩飯に見えている。どちらも嘘ではないから、たちが悪い。
ルートヴィヒが立ち上がった。椅子の脚が床を短く鳴らす。
「——残念です。なら、別の紙が動きます」
「別の紙とは」
「わたくしの口からは。言えば、あなたは先に塞ぐでしょう。ただ——あなたの生徒を守る準備はしておいた方がいい」
去り際、老人は竈を見た。橙の明かりが眼鏡の端で揺れる。
「いい火ですな。消えないことを祈ります」
足音が離れ、馬車の車輪が石を噛む。音が途切れても、厨房の冷えは戻らなかった。焦げを削った木杓子が、手の中で乾いている。わたしは竈の前へ行き、薪を一本押し込む。
鍋の蓋が、かたんと跳ねた。中身は縁ぎりぎりまで上がっていた。




