【291】壁の向こう
昼のスープは大鍋二つにした。八十人分を越すくらい。内側の三十一人に先に配り、残りを門の外へ回す。
朝から薪の減りが早い。竈の口を覗くたび、赤い火床が腹を空かせた獣みたいに薪を噛んでいた。鍋の中では蕪の角が消え、豆が割れ、干し肉の脂が表面に丸い輪を作っている。塩を落として舌にのせる。薄い。もう一つまみ。まだ水っぽい。薪代と塩代の勘定が頭をよぎったが、ここを惜しむと、ただの湯になる。
トーマスが鍋を持って門を開けた。両腕に力が入り、前腕の筋が浮いた。鍋の縁で湯が揺れる。外の連中が一斉に身構えた。トーマスは視線を返しただけで、昨日と同じ石の上へ鍋を置く。ぐらりともさせない。
「飯だ。食いたければ食え」
兵士の言い方だ。命令形。けれど敵意は乗っていない。ただの通達。戦場で水場を告げる声に近い。
誰も動かない。数は覚えている。初日は一人。昨日は片手で足りた。今日は腹の鳴る音の方が早い。
鍋の湯気は門の外へ流れ、立ったままの顎を撫でていく。目の焦点が鍋肌を追う。喉が鳴る。鼻先だけ先に降伏する。理屈で踏ん張っている人間ほど、身体の裏切りが目立つ。
一人が列を離れた。若い男だ。外套の裾が擦り切れている。鍋に近づき、木匙を取り、一口飲んだ。
「……熱い」
その顔が、拍子抜けするほど普通だった。熱いに決まっている。今しがた火から下ろした鍋だ。吹けばいいのに、男は次を急いだ。
二人目が出る。三人目は横から手を伸ばした。十五人まで数えたところで、わたしはやめた。匙が足りない。器を返せと誰かが低く言い、別の誰かが黙ってパン用の皿を差し出す。まだ立っている連中も、足の向きだけは鍋へ傾いていた。
エルマが二つ目の鍋を持って出た。腕が震えている。熱で頬も赤い。それでもこぼさない。パン籠も抱えていた。丸パンは四十と少し。全部出せば夕食の分が減る。
「パンもあります。……熱いので、割ってください。焼きたてです」
布をめくった途端、匂いが広がった。小麦の甘さ、焦げた皮、内側に残った蒸気。誰かが唾を飲む音がした。さっきまで腕を組んでいた男が、組んだ手を解いた。
さらに何人かが動いた。半分ほどがスープとパンを手にしている。食べる顔は、包囲の顔ではない。眉間の皺が浅くなり、顎が下がる。拳を作ったままでは、パンを割れない。
一人、食べながら泣いている者がいた。外套の下は、学院で見るような地味な服だ。襟元の擦れ方から、机に向かう時間が長い人間だと分かる。
「なんで泣いてるんですか」
エルマが聞いた。相手が大人だろうが包囲側だろうが、そのまま聞く。
「……なんでも。いや、美味い。熱いし」
声が詰まる。鼻先まで赤い。わたしは門の内側から見ていた。美味くて泣くのは分かる。腹が空いていると、温かい塩気は目の奥に来る。
パンをちぎった断面から白い湯気が抜ける。泣いていた男が指で押し、戻ってきた柔らかさに一度止まった。止まったくせに、目元を袖で拭うとすぐ次を噛んだ。隠す余裕がない。昨夜どころか、朝も抜いている顔だった。
わたしは外へ出なかった。出れば施しになる。学院長の名札が前に出た瞬間、皿は説教か懐柔に化ける。生徒たちが持ち、置き、門の外へ、開いた手で差し出すから効く。わたしの靴が敷居を越えれば、相手は鍋ではなく面子を食べる羽目になる。
フィンが横に来て、小声で言った。
「この光景、議場で見せたいですね」
「見せたら、湯気にまで条文が付きます」
「でしょうね」
皮肉っぽく笑った後で、フィンもパンを一つ包囲側へ渡した。護衛の手つきではない。包み方が下手で、布の端が焦げた皮に貼りついた。
暮れかけて、外の人数が四十人に減っていた。十人帰った。食べた側からだった。立ち続ける気力が失せたのか、何のために立っているのか分からなくなったのか。どちらでもこちらの損は減る。
人が抜けた場所には、靴跡と、こぼれたスープを吸った黒い染みが残る。敵の数を数えるより、その隙間の方が目に残った。
厨房へ戻り、鍋を洗う。豆の膜が湯に浮き、油が虹色に散る。スープで勝った気になっても、鍋底の焦げは残る。エルマは袖を肘までまくり、熱湯に顔をしかめながら手を動かしていた。
「なんで食べさせたいの」
尋ねると、エルマは泡だらけの手を桶の縁に置いた。すぐには答えない。指先が赤い。
「分かりません。でも……空腹の人を見て、何もしない料理人は、料理人じゃない気がして」
それだけ言うと、エルマは布で木匙を拭いた。布が油を吸って重くなる。桶の湯はまた白く濁り、豆の皮がくるくる回った。外ではまだ誰かの咳がしている。次の鍋は水で伸ばすしかない。わたしは塩壺を振った。底で固まった塩が、頼りない音を一つ立てた。




