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【290】グスタフの背中

 見張りの交代がまだ半分も済まないうち、門が叩かれた。外の連中ではない。叩き方が違う。力任せで、遠慮がなく、戸板の芯まで殴る音だ。


 フィンの護衛が槍を構える。わたしは手のひらを横に振って止めた。知っている音だった。包丁の背でまな板を呼ぶような、あの人の癖。


 門を開けると、グスタフが立っていた。背中に麻袋を三つ、肩に一つ。麻縄が外套に食い込み、額から落ちた汗が髭の先で止まっている。息は荒い。分厚い前腕には石灰の粉までこびりついていた。


 門の内側へ入るなり、グスタフは外套の列、竈の煙、貯蔵庫の口を見た。誰も説明していないのに、眉間が一度だけ寄る。便利だが、隠し事はできない顔だ。


「通してくれんのか、あいつら」


「……来たんですか。いや、どうやって」


「裏の壁だ」


 兵舎の裏壁は三メートルある。この巨体で越えたのか。しかも荷物つきで。壁の上に白い擦れ跡が残っているのが見えた。たぶん本当に越えてきた。


「中身」


「小麦粉、塩、卵、干し肉。宮殿の厨房から持ってきた。鍋も一枚」


「許可は」


「聞く暇があったか」


 言い切った後で、グスタフは鼻を鳴らした。


「盗みです」


「俺の厨房だ。俺のものだ。帳簿は……あとで怒鳴られる」


 論理は滅茶苦茶だ。だがありがたい。麻袋を抱えると、縄が腕にずしりと食い込む。粉の重みで肘が下がった。小麦粉だけで十キロは超える。卵は藁の箱に二十個。ひとつ、殻に白い粉がついていただけで割れてはいない。干し肉から燻煙の匂いが立ち、誰かの腹が短く鳴った。


 生徒たちが目を丸くしたまま運び込む。トーマスが袋を担ぎ、エルマが卵箱を胸に抱え、アリアが塩袋の口を指で押さえた。貯蔵庫に積むと棚板がぎしりと鳴る。帳面の端で引き直す。内側だけなら七日近い。外へ汁を出し続けるなら五日、盛り方を間違えれば四日で底が見える。卵はごちそうではなく、交渉一回分の体力になった。


「状況は聞いた」


 グスタフは濡れた髭を手の甲で拭った。


「――馬鹿なことをしているな」


「馬鹿なことって――」


「囲んでいる連中に飯を出したそうだな」


「出しました。エルマの提案で」


「エルマ。あの農家の娘か」


「はい」


 グスタフは黙った。エルマの指が卵箱の縁をつかむ。爪の下に藁が刺さっている。


「いい判断だ」


 意外で、問い返すより先に口が開いた。


「グスタフさんが、そう言うんですか」


「飯を食った相手を殴れる人間は少ない」


 グスタフの声は相変わらず低く、鍋底を擦る木杓子みたいに太い。


「あの連中は傭兵じゃない。元学者だろう。襟と名前で食ってきた連中だ。もらった皿を蹴れば、自分の名札にも泥がつく。腹も鈍る。門の前で半拍、槍が遅れれば十分だ」


 エルマの肩から力が抜けた。褒められた顔ではない。助かった、という顔だった。


「ただし盛るな。見栄で大椀にするなよ。椀半分で、粉一握りが消える」


「はい」


 返事はわたしとエルマで重なった。


「今日は何を作る」


「パンです。小麦粉があるので。スープは干し肉を薄く」


「薪は」


「半日分です」


「焼きは二回で終わらせろ。三回目は煙が目立つ。手伝う」


 言うなり前掛けを締める。紐を引く手が無駄なく速い。さっきまで粉袋を遠巻きにしていた生徒たちが、ばらばらに手を洗いに走った。帝国一の料理人が、包囲された学院で一緒に粉を捏ねる。その現実が、竈の火みたいに厨房を押し返した。


 鉢に粉をあけると、白い煙が舞う。塩を混ぜ、水を注ぐ。グスタフの手は大きいのに、生地の扱いは細かい。掌の付け根で押し込み、折り返し、また押す。生地の表面が荒れ、すぐにつやを取り戻した。


「肘。上げるな。力が逃げる」


 トーマスが肩ごと直される。エルマは見様見真似で手首の角度を合わせた。アリアの生地は水が多い。グスタフが指でつまむと、どろりと垂れた。


「粉。二握り……いや、おまえの手なら三」


「はい」


「卵箱をどかせ。濡れる」


 アリアが慌てて肘で箱を押し、卵が中でこつりと鳴った。全員が一瞬止まる。割れていないと分かると、息だけが戻った。


 わたしも生地を捏ねながら、横目でグスタフを見る。汗がこめかみを流れても、拭かない。目の前の生地の膨らみだけを見ている。声をかけようとしたが、背中の動きが先に答えていた。押す場所、待つ間、手を抜かないところまで。


 発酵を待つ間にスープも回す。干し肉を刻むと、脂が刃に白くつく。鍋に落とせば匂いが立ち、厨房中の腹が反応した。窓際の護衛まで鼻を鳴らす。外にいる連中にも届くだろう。届かせる量で、こちらの腹も削れる。


 トーマスは二度聞いて、三度目は黙って手を直した。エルマは熱気を読むグスタフの手元ばかり見ている。指先を口へ当てず、竈の前に掌をかざすあの癖を、もう真似し始めていた。


「先生、焼き台、空きました」


「こっちの生地から入れて。小さいのは外用、焦がさないで」


 竈に差し込んだ最初の丸パンが、熱で表面を張らせていく。ぱん、と小さな音がして、皮に裂け目が入った。隣でグスタフが焼き色を確かめ、何も言わず次の天板を差し出す。


 焼ける匂いに、生徒たちの肩がいっせいに上がった。腹が鳴ったのはトーマスか、わたしか。グスタフは聞こえないふりで天板を戻した。


「次、三十。外へ出す分は小さくしろ。恨まれん大きさで」


 返事が重なり、ひとつ端が焦げた。グスタフの背中が竈の前で揺れる。


「焦げは俺が食う」


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