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【289】竈を守る

 門の外は五十人まで膨れていた。数え違いであってほしかったが、エルマが窓を変えて二度数え、同じだった。


 空気は乾いているのに、畑の土だけが昨夜の露を抱いて重い。鍬を入れるたび刃に黒い土が貼りつき、手首へずしりと返ってくる。エルマは葉をかき分け、膨らみのある蕪だけを抜いた。指先が迷わない。トーマスは黙って葉を切り揃え、籠へ投げ込む。中庭は兵舎の内側だから、外からは見えない。けれど井戸の釣瓶が軋む音も、鍬が土を噛む鈍い音も、向こうには届いているはずだった。見えない畑を掘る音ほど、嫌がらせになるものはない。


 昼は蕪と乾燥豆のスープにした。豆は昨夜から水に浸してある。指で押すと芯がぐずりと割れた。鍋の蓋を取ると、蕪の甘い湯気に、乾燥ハーブの青い匂いが混ざる。贅沢ではない。けれど腹に残る塩気と、噛んだ時の蕪の熱さが要る。


「先生」


 鍋をよそっていた手を止めないまま、顔だけ向ける。


「……逃げた方がいいんじゃないですか」


 トーマスは椀を受け取らずに立っていた。視線だけが窓と裏口を測っている。


「逃げて、どこに行くんですか」


「宮殿に。皇帝陛下の保護下へ。ここで五十を相手にする筋じゃない」


「宮殿に行ったら、ここの竈は誰が守るんですか」


 トーマスの眉間に皺が寄った。


「竈は——建物です。壊されても、また作れます」


「竈は建物じゃないです」


「先生」


「火を落とした竈は冷えます。灰も湿る。種火も消える。ここで食べるつもりで来る人が、もう入れなくなる」


 トーマスは口を開きかけて、やめた。匙で豆をひとつ潰す。元兵士の彼は、引くことを恥だとは思っていない。だから余計に、わたしの無茶が見えている。言い返さないのは納得したからではない。鍋の前で怒鳴っても、火は早くならないからだ。


 配膳の終わりに、窓の外で列が乱れた。一人が膝から泥へ落ちる。両脇を抱えられ、後ろへ運ばれていった。立ちっぱなしで、水も食料もろくに持っていなかったらしい。外套の裾が濡れて、足を引くたび土を擦った。


 エルマが窓辺で唇を噛んだ。目だけが、その人を追っている。


「——あの人たち、ご飯食べてないんじゃないですか」


「食べていません。水桶も見えない。交代の足音もない」


 包囲にしては兵站が粗い。五十人を半日立たせるだけでも、水桶二つでは足りない。パンをちぎる手も、塩袋を持つ者も見えない。こちらを焦らせる見世物にして、自分たちの膝が先に折れるところまでは数えていない。


「……先生」


「何」


 エルマは袖の先を握り、離し、また握った。爪の跡が布に残る。


「あの人たちにも——ご飯、出しちゃだめですか」


 蕪を切る手が止まった。刃先に白い汁が滲む。


「なんで」


「だって……お腹空いてる人がいるのに、こっちだけ湯気の中で食べてるの、変です。あの人、包丁も槍も持ってませんでした。立ってるだけで、唇が白くて」


 馬鹿だ、と喉まで出かけた。相手は包囲している。こちらが鍋を出せば笑われるか、踏み込む口実になる。毒を入れたと言い張られる余地だってある。


 けれど鍋の蓋の下で蕪が煮えている。倒れた人間の膝についた泥まで、見てしまった。


 トーマスが鼻から息を吐いた。


「罠だったら」


「騒がれますね。毒だ、恩を着せる気だ、なんでも」


「じゃあ——」


「でも、出します。門は開けない。石の上に置くだけ」


 エルマは息を吸い損ねたみたいに口を開け、すぐ頷いた。袖を握っていた指が赤い。


「蕪のスープ。大鍋で。五十人分。椀は古いのを使って」


 トーマスが額を掻いた。


「馬鹿げてますが、手伝います」


「分かってます。豆は半袋まで。塩は匙二つ。三つ目は戻してください」


 大鍋を引きずり出し、豆の袋を開ける。乾いた豆が木鉢に落ちて、ぱらぱら跳ねた。蕪を追加で刻み、葉も刻む。捨てる部分はない。五十人分を作れば、こちらの椀は浅くなる。腹は鳴る。それでも空の鍋を見せるよりましだ。


 スープ用の蕪を洗う水が土色に濁る。エルマは葉の傷んだところだけを爪で摘み、使えるところを残していく。五十人分となると、包丁の音まで変わった。軽い刻みでは追いつかない。まな板へ刃が深く入り、木台ごと震える。


 火床に薪を押し込み、息を吹きかける。赤くなった炭がぱっと明るく返した。エルマが蕪を洗い、トーマスが豆を運び、アリアが塩壺を抱えて走る。


「先生、鍋の蓋、こっちです」


「置いて。あと水。こぼしてもいいから早く」


 返事の代わりに、まな板が鳴った。誰かが桶を蹴って水が跳ね、トーマスが短く舌打ちする。鍋底で、戻りきっていない豆が硬く転がり、蓋の隙間から蕪の青い匂いが逃げた。


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