【287】宣戦布告
議会にルートヴィヒが現れた。
その報せを持ってソフィアさまが研究所へ来たのは、鐘の音も消えたころだった。肩掛けを外す暇もなかったらしく、絹の外套から夜露と馬車の革の匂いがした。机の茶は冷めて膜を張っている。なのに、わたしの指先だけが鍋の縁に触れたみたいに熱い。
「今日の議会で、ルートヴィヒが正式に声明を出しました」
「声明、ですか」
「エッセンス学院の即時閉鎖。エッセンス使用の再管理化。賛同署名は十四です」
十四。議場では少数派だ。けれど塩はひとつまみで鍋全体に回る。誰の倉から出た塩かで、味も毒も変わる。
「十四人で足りますか」
「票なら足りません」
ソフィアさまは椅子を勧めても座らず、指先で茶碗の縁をなぞった。冷めた器に触れているのに、目だけが冴えている。
「ただ、彼らには旧魔術院の卒業生がついています。帝国北部の三領。倉庫と馬車を持っている家です。日当を払えば動く男も――ええ、います」
領主。馬車。日当。学問の話ではなくなっている。厨房で包丁の握り方をめぐって揉めていたところへ、槍を持った男が踏み込んでくるようなものだ。
「カイゼル陛下は」
「声明は受理しました。閉鎖命令は出していません。議会の多数決でも学院は継続です。紙の上では、何の問題もありません」
「紙の上」
ソフィアさまが息を止めた。唇を噛むでも、眉を寄せるでもない。その静けさがかえって悪い。
「紙の外で動かれるかもしれません」
その言葉が、冷えた鍋肌みたいに重く残った。外で風が鳴り、研究所の窓枠がかすかに軋む。
ソフィアさまが茶碗を両手で包んだ。飲まない。ただ、硬くなった指を器に預けている。
「リーゼさん。最悪の場合、学院に武装した者が来ます」
「どのくらい」
「読めません。十数なら衛兵で止められます。五十を越えたあたりから門が怪しい。百に膨れたら、逃がす順番ひとつで怪我人が出ます」
「生徒たちは」
「宮殿へ。名簿、寝具、粥を炊く鍋は用意します。女子寮の一角なら今夜から押し込めます。狭いです。床も硬い。けれど壁は厚い」
燭台が揺れるたび、ソフィアさまの頬の影が濃くなった。髪一本乱れていないのに、目の下だけが薄く青い。机の端には部屋割りの紙。名前の横に毛布の走り書きがある。寮から剥がす分、宮殿の物置から運ぶ分、薄すぎて二枚重ねにする印。誰かが先に手を汚して数えた跡が、わたしの背を押してくる。
ここまで用意して来たのか。頭を下げるべきだ。なのに腹の底で火が跳ねた。
「学院は」
「建物は、守れるかどうか分かりません」
窓は割れる。石壁だって削られる。棚が倒れれば、乾かした薬草も小麦の袋も泥をかぶる。けれど竈は、火を落とされたら終わる。どこででも焚けるという慰めは半分だけだ。薪、鍋、水、火を見ている手。それが途切れた瞬間、料理はただの荷物になる。
「避難計画は立てます。けれど、授業は止めません」
ソフィアさまの睫毛が揺れた。怒った顔ではない。言葉を選ぶのに、一度だけ喉が動いた。
「止めないで、とは言いません。ただ、あなたの命は一つです」
「わたしは大賢者です。自分の身は――」
「大賢者でも、剣には斬られます」
痛いところを真っ直ぐ刺してくる。優雅なのに容赦がない。貴族の言葉は薄い砂糖衣みたいで、中は刃だ。
ソフィアさまは扉の前で足を止めた。
「夜明け前にフィンが護衛を連れてきます。増員は六。門と教室棟に寄せますが、厨房口とあなたの近くにも置きます。細かい場所は動かして構いません。拒否だけはしないでください」
「……分かりました。邪魔なら、こき使います」
「それで結構です」
扉が閉まり、研究所に静けさが戻った。壁際の乾燥薬草がわずかに揺れて、苦い匂いが立つ。
竈に火を入れ、粉と水と塩を鉢に落とす。夜中でも薪ははぜる。粉を混ぜてから、水を入れすぎたと気づいた。いつもなら指が先に止まるのに、今夜は白い泥みたいな生地が掌へ貼りつく。塩も多い。舌に乗せる前から分かる。
「……違う」
捨てるのは癪で、粉を足した。押して、返す。また押す。肩が上がって、肘が固まる。生地に怒ってどうする。手首の力を抜いたところで、布をかけた鉢の中で、生地がむくりと膨らみ始めた。
廊下から靴音がした。一人分ではない。




