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【286】街道の封鎖

 北からの食糧輸送が止まった。


 朝の市場から戻ったアリアは、籠を抱えたまま戸口で肩を上下させていた。頬に張りついた髪から水が落ち、前掛けの胸元に暗い染みを作っている。扉が開いた瞬間、濡れた外気と、籠の底で押し潰れた青菜の青臭さが厨房へ流れ込んだ。


「北の街道、封鎖です。馬車が通れないって」


 籠を受け取る。軽い。底板がすぐ指に当たり、卵の箱も乳の瓶もないと手のほうが先に分かった。


「理由は」


「橋の修繕——そう言っています。でも商人たち、誰も信じていません。軍の旗を持った連中が立っていて、荷台の覆いまでめくられたそうです。粉袋に槍を刺したとか」


 アリアが唇を噛んだ。前掛けの端を揉む指に白い筋が浮く。軍の旗。旧魔術院の手だ。ソフィアさまの警告が、耳の奥で嫌な音を立てた。


 学院の貯蔵庫を開けた。乾いた豆の袋、吊るした干し肉、根菜の木箱。冷えは残っているのに、棚の間が広く見える。小麦粉は半樽。米は二袋。塩はある。油の壺は、持ち上げると底で薄く鳴った。二十九人の生徒と教官分、夜番の口も数に入れれば十四日。市場で買い足して引き延ばすつもりだったが、その市場にも北の荷が来ない。帝都の胃袋は北に寄りかかりすぎている。帳面の端を爪で押しても、鍋の底に残った煮汁みたいに、数字は増えない。


 床板へ膝をつくと、布越しに冷えが刺した。麻袋の口を開き、米へ指を差し入れる。乾きは悪くない。豆も保つ。問題は油と、生の野菜。香りが落ちる前に使わなければ、味が痩せる。炒め物は減らす。焼き色より煮汁。蕪の葉は塩で揉んで刻み、皮は出汁へ回す。手の中の米粒を戻す頃には、献立の線が勝手に細くなっていた。


 卵は十八、と思ったら一個割れていた。昼のつなぎに回して、まともに使えるのは十七。乳は朝だけ、それも水でのばす。干し豆を増やせば腹は持つが、生徒たちの顔が曇る。なら香草を惜しまず入れる。口に入れてくれれば勝ちだ。皿に残された豆は、腹の足しにならない。


 カイゼルへ報告に行くと、執務室の机には地図が広げられていた。赤い印が北街道の橋に刺さっている。窓際の燭台の火が揺れるたび、印の影が傷のように細く伸びた。


「知っている。別の街道は押さえた。迂回させる。だが——早くはない。半日で済めばいい、下手をすれば三日だ」


「学院の食糧が持ちません」


 帳面を差し出すと、カイゼルは椅子に戻らず、立ったまま頁をめくった。指が止まらない。読むというより、削る場所を探している。


「宮殿の備蓄から回す。フィンに手配させる」


「宮殿の厨房と兵舎の分が削れます。議会も、学院だけ優遇したと騒ぎます」


「騒がせろ。腹は膨れん」


 言い切るまでが早い。蕪を落とす包丁みたいだった。


「問題にさせない。俺が決めた」


 蓋を開けて湯気を逃がすのではなく、鍋ごと掴む人だ。助かる。指は火傷する。それを分かった上で、まだ掴みにいく。


 学院に戻り、朝の実技の前に全員を集めた。厨房はまだ火を入れる前で、昨夜の灰の匂いが残っている。曇り空の光が鍋の縁だけを白くしていた。


「北の街道が止まっています。今日の買い籠を見た人は分かりますね。食材は減ります」


 ざわめきが広がる。誰かの腹が鳴った。妙に大きくて、笑う者はいなかった。


「でも授業は止めません。食材が減る時こそ、手を動かします。山ほど材料がある時しか作れない料理人は、台所では役に立ちません」


 不安そうな顔は残った。残ったまま、足だけ動き始める。アリアは黒板へ当番表を書き、トーマスは倉庫の鍬の柄を点検し、年少の生徒たちは籠を取り合って中庭へ走った。外で誰が道を塞いでいるかより、今どの籠へ何を入れるかの方が、空腹には切実だ。


 緊張した顔の列の端で、エルマが手を挙げた。袖口に土がついている。爪の間にも黒いものが残っていた。朝、畑を見てきたのだろう。


「先生。畑のハーブが使えます。蕪も穫れます。玉ねぎは小さいですけど、数はあります」


「ありがとう。午前は土を掘ります。午後に切って煮ます。食材は、自分たちで確保する」


 トーマスが腕を組み直した。アリアは帳面を胸に抱え、他の生徒たちも互いの顔を見たあと、黙って動く。包丁を拭く布を畳む者、籠を取りに走る者、井戸へ桶を運ぶ者。わたしは戸棚を開け放った。隠したところで、腹は空く。なら鍋の中まで見せてしまえばいい。


 窓の外では低い雲が垂れ、風が戸板を一度跳ねさせた。年少の子が肩をすくめる。灰が舞う。けれど木箱を抱える腕は、次々に厨房を出ていった。


 エルマが戸口で振り返った。


「先生、畑の鍬、二本で足りますか」


「足りないと思って使って。一本は根菜、一本は畝直し。柄が割れたら、倉庫の予備に差し替えて」


「はい」


 返事と同時に、木箱を運ぶ音が廊下に響いた。


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