【285】嵐の前
「座れ」
扉を開けたところで、足が止まった。いつもの紙束は机の端へ寄せられ、中央には帝国全図が広がっている。その上に薄い軍の配置図。北に赤が三つ、西に二つ、南に一つ。窓は閉まっているのに、燭台の油の匂いだけが濃い。フィンは壁際に立ち、ソフィアさまは椅子に浅く腰かけていた。茶器は冷め、白い湯気もない。
カイゼルの声は、切って落としたみたいに短い。わたしは机の前へ進み、地図を覗いた。赤印は学院から離れている。けれど線を引けば、どれも帝都へ向かう形になる。
「何かありましたか」
「情報部からの報告だ。保守派が動いている」
喉が張りついた。学院へ向けられた不満は知っている。議会の票も、食材庫の荒らしもあった。けれど『動いている』は、鍋の焦げで済む言葉ではない。
ソフィアさまが地図の一点を指した。爪の先が、赤印のすぐ横で止まる。
「旧魔術院の関係者が各地で集まっています。名目は旧交を温める会合、だそうですけれど……参加者に退役軍人が多い。武器の調達経路にも、不自然な動きがあります」
「中心は?」
「ルートヴィヒ直系の弟子たちです。北部三領に拠点がある。帝都近郊でも接触が確認されました」
「ルートヴィヒ本人は」
「帝都にいます」
ソフィアさまの返事は即答だった。
「直接指示を出した証拠はありません。ただ、周辺が動きすぎています」
カイゼルが腕を組む。燭台の火がその指の節で遮られ、地図の赤が一瞬暗くなった。
「学院を標的にしている可能性が高い」
「――学院を」
「保守派にとって、学院は独占体制を崩す象徴だ。飯の種を削られる。潰す動機なら、釣りが来る」
頭の中に、貯蔵庫の空棚が浮かんだ。あれを前触れと見なすべきだったのか。味見程度の嫌がらせで終わると考えていた甘さが、腹の底に残る。小麦袋が消えるのと、人が倒れるのとでは、同じ棚には置けない。
「学院は続けます」
口から出たのは、考える前の言葉だった。止める選択肢は、最初から皿に乗っていない。
「分かっている」
カイゼルの返答も早い。
「止めろとは言わん。だが備えろ」
「備え、というのは」
「護衛を二班増やす。見回りは鐘一つごと、夜も切らすな。生徒の通る道は絞る。逃がす先も決める。裏口の鍵は今夜替える」
フィンが机の脇から一枚の図面を出した。旧兵舎の見取り図だ。正門は赤く囲まれ、裏口に矢印、井戸脇の塀には汚い丸。二階の窓まで線が伸びている。ここまで手が入っている時点で、冗談では済まない。
実務の言葉が積まれていく。そこに情緒はない。ないから助かる。慰められるより、鍵と人数と道順の話の方がまだ聞けた。
「最悪の場合――」
カイゼルが言いかけ、わたしはその先を聞きたくないと思った。だが聞かないわけにはいかない。
「最悪?」
「武力衝突だ」
室内の音が消えた。フィンの喉仏が一度だけ動く。冗談の余地はない。皇帝の目だ。死者の数と国の損耗を、同じ卓に置ける目。厨房では見たことのない冷たさだった。
「いつ頃ですか」
「読めん。早ければ来週。三か月後か、半年後まで延びる可能性もある」
近い。遠い。どちらとも言えない答えが、一番厄介だ。仕込みの時間は取れないし、構え続ければ鍋が干上がる。
「生徒に知らせますか」
「まだ言うな」
わたしは地図の赤印を見たまま、学院の朝を思い浮かべた。井戸へ並ぶ列、畑へ出る足、二階へ運ぶ教科書。いつもの動線が、そのまま狙われる場所になる。考えたくないのに、頭は勝手に扉と窓の数を拾い始める。
ソフィアさまが先に口を開いた。
「不確定な情報で動揺させるべきではありません。ただ、警備が増えれば気づかれます。子どもでも分かりますから。説明は用意しておいてください。嘘を重ねると、あとで別の火種になります」
「分かりました」
「リーゼさん」
ソフィアさまの視線がまっすぐ来る。柔らかく見えるのに、逃がさない。
「あなたは授業を続けてください。学院の火を止めないことが、あちらには一番嫌でしょうから」
皮肉でも慰めでもない。戦略の言葉だった。
執務室を出た。廊下の床が長い。自分の靴音だけが妙に大きい。階段の手すりを掴んで、そこで手が震えているのに気づいた。怒りではない。怖い。武力。流血。エルマが鍋を覗き込む癖、トーマスが粉まみれで笑う顔、ヨハンの空いた席まで浮かぶ。廊下の角を曲がるたび、学院の窓と裏口を数えてしまう。
台所へ戻ると、玉ねぎの籠が待っていた。明日の仕込みがある。ひとつ取り上げ、まな板へ置く。震えた指では皮がうまく剥けない。爪の下に薄皮が入り、舌打ちしそうになる。息を吸い、包丁を握り直す。刃が入ると、考えは幅を失った。皮、根、半分、細かく。水で流した刃にも、まだ玉ねぎの匂いが残る。
刻んだ玉ねぎが、目にしみた。手は止めない。刃だけが音を立てた。




