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【284】町の食卓

「生徒たちが町の人に料理を振る舞います。学院の前に屋台を出します」


 学院の台所でいくら点をつけても、鍋の先にある顔は遠い。皿は机の上で終わらない。熱いだの薄いだの言われ、こぼされて、最後の匙まで飲まれるかどうか。そこまで見ないと、料理は半分だ。


 そう言うと、マティアスは返事より先に眼鏡を外した。布で片方ずつ拭く。面倒な話を聞いた時の手つきだ。


「失敗したら評判が落ちますよ」


「落ちるでしょうね」


「食あたりでも出したら?」


「薬師を待機させます。水桶も。火の番は兵士に借りて、材料は学院持ち。皿を割った分は……私の小遣いから出します」


「平然と赤字を積みますね」


「授業料です」


 マティアスは眼鏡を掛け直した。まだ渋い顔のまま、紙の端に何か数字を書きつける。


「町の人間は採点表より容赦ありませんよ」


「だからです」


 兵舎の前の通りへ長テーブルを引きずり出した。脚が石畳を鳴らし、兵士が竈を三台運ぶ。火口に息を吹き込むと灰が跳ね、前掛けの裾に黒い点がついた。


 二十九人の生徒が持ち場に散った。ヨハンの分だけ、テーブルの端が半歩ほど空く。誰もそこに荷を置かない。私も置かせなかった。今日は足を止める暇がないだけだ。


 通りの人間が寄ってくる。子どもが背伸びし、荷車引きが手綱を片手に持ち替える。向かいの雑貨屋は客の相手をしながら、目だけこちらに向けていた。薪、焼ける脂、葉物を切った青い匂い。看板より早く鼻へ届く。


「一人一品。材料は共有。時間は一刻。できたら、通りの人に食べてもらってください」


「値段は?」


 トーマスが粉袋を肩に担いだまま聞いた。


「取りません。味見です」


「ただ飯か。揉めますね」


「揉めたら兵士を呼びます。呼ぶ前に、あなたたちが皿を引っ込めなさい」


「客の選り好みは」


「子どもと老人に辛いものを出さない。酒の匂いがする人に刃物を近づけない。あとは、自分で見て」


 トーマスは鼻で笑った。


「料理の試験か、屋台の喧嘩か分からんな」


「どちらも食堂で起きます」


 鍋の蓋が鳴り、まな板の上で包丁が跳ねた。エルマは蕪のスープを選ぶ。入学試験と同じ料理だが、今日の蕪は学院の畑から抜いたものだ。根の先に残った土を爪で落とし、薄く切って、鍋へ滑らせる。手元に迷いはない。


 トーマスは軍用パンの改良版だと言っていた。粉に香草を混ぜ、耳のところを厚めにする。柔らかさより、荷袋の底で潰れないこと。鍋の湯気を横目に、彼は水を足しては、生地を拳で押し返した。


 見物の輪が狭まる。湯気は風にちぎれ、焦げた油の匂いも混じった。誰かの鍋で塩が足りない。別の鍋は火が強すぎる。生徒のひとりが慌てて竈から鍋をずらし、袖口を煤で汚した。


 それでも人は離れない。上手い料理だけが町の食卓ではない。焦げた端を削り、薄ければ塩を足し、硬ければ汁に浸す。そうやって食べてきた顔が、鍋の中を覗き込んでいる。


 最初に焼き上がったのはトーマスのパンだった。表面はよく乾き、叩くと乾いた音が返る。彼は通りかかった商人の前へ皿ごと突き出した。


「食ってみてくれ」


「え、俺が?」


「嫌なら隣の子どもに渡す」


「いや、貰うけどよ」


 商人は苦笑しながら齧った。最初の一口で眉が上がる。硬くて、すぐには飲み込めない。二口目は少し小さく割った。


「うまいな。硬いけど、噛むほど味が出る」


「硬いのは仕様だ。柔らかいパンは運ぶ間に死ぬ」


「パンに死ぬって言うな」


「死ぬだろ。潰れて湿って、袋を開けるころには別物だ」


「……まあ、死ぬか」


 周りで笑いが起きた。トーマスは笑わず、パンの残りを布の上に並べ直す。売る気はないのに、手つきだけは商売人みたいだった。


 エルマの鍋からは、蕪の甘い匂いが立っていた。湯気が白く細い。彼女は器へ注ぎ、通りがかった老婆へ両手で差し出した。匙が器の縁に当たり、かすかに鳴る。指先が冷えているのか、緊張なのか。


 老婆は一口飲み、匙を止めた。


 エルマの喉が動いた。私も息を詰める。顔だけでは当たり外れが読めない客が、一番こわい。


「あんた、この蕪、どこの」


「学院の畑で育てました」


「……違うね。土の癖が南部だ」


 エルマが目を見開く。


「はい。わたし、南のクラインフェルトです」


「わたしもだよ。四十年前にこっちへ来た。蕪だけは、こっちのがどうにも水っぽくてね」


 老婆はもう一口飲んだ。今度は熱さを確かめる前に喉が動く。


「懐かしい味だ」


 エルマの肩が落ちた。鍋を持つ腕も、やっと揺れなくなる。泣きそうな顔ではない。仕事をひとつ終えた顔だ。


 ほかの皿にも、勝手な言葉が返ってきた。


「濃い。パンが欲しい」

「酸っぱい、いや、嫌いじゃないけど」

「腹には溜まる」

「肉はどこだ」

「子どもには胡椒がきついよ」


 褒め言葉ばかりではない。文句のほうが、手を動かす場所を教えることもある。酸っぱいと言われた生徒は鍋に鼻を近づけ、蓋の裏についた水滴を舐めて顔をしかめた。足りないと言われた生徒は塩壺へ手を伸ばし、途中で止まる。今足せば次の客には濃くなる。皿一杯分だけ直すのか、鍋ごと直すのか。迷いが手に出る。


 木匙が落ちた。拾った生徒がそのまま鍋へ戻しかけたので、私は手首を掴む。


「洗う」


「あっ、はい!」


 洗い場へ走る背中に、見物の子どもが笑った。笑われて覚えることもある。腹は立つだろうが、腹を立てる余裕があるなら次は落とさない。


 私は屋台の端に立ち、皿の戻りを見る。残されたスープの量、パンの割れ方、匙が止まった場所。採点表には書きにくいものばかりだ。町の声は親切ではない。けれど、器に残る量はあまり嘘をつかない。


 片付けで湯が濁り、灰が泥になった。エルマが鍋を洗いながら言う。手の甲は赤くなっていた。


「先生。わたし、これがやりたかったんだと思います」


「何が」


「知らない人に食べてもらって……何か返ってくること。おいしい、でも、違う、でも」


「そう」


 短く返した。長く言うと、たぶん嘘っぽくなる。宮殿で初めて料理を出した時も、相手の口へ運ばれるまで胸の中が騒いだ。ひと言で腹の奥が熱くなった。あれは、今でも慣れない。


 トーマスが売れ残ったパンを布に包み、数を数えている。


「四つ」


「三十焼いて、残り四つなら悪くありません」


「一つは焦げた。これは数に入れん」


 彼は焦げた底を爪で削り、自分の口へ放り込んだ。苦かったのだろう、片目だけ細くなる。


「次は二十六で足りるな」


「足りませんよ。今日、味を覚えた人がいます」


 トーマスは手を止め、通りの向こうを見た。商人がまだパンの欠片を噛んでいる。


「……なら、三十五か」


「粉代は?」


「先生持ちで」


「却下」


 会話がそこで切れた。竈の灰を掻く音が残り、どこかの子どもが「蕪のやつ、まだある?」と聞いている。エルマが慌てて鍋を覗き込んだ。底に、匙一杯分だけ残っていた。

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