【283】音
中庭を横切ってくる足音が、石畳で跳ねた。軽すぎる。鍋を火にかけたまま走っている時の音だ。
扉が鳴って、エルマが厨房へ飛び込んできた。息は切れ、前掛けの片方の紐が外れかけ、頬だけが赤い。手には林檎。朝露で濡れた皮が、まだ指を冷やしている。
「先生、あの――分かりました。たぶん」
砥石の上で包丁が止まった。刃先から水が一筋、まな板へ落ちる。
「何が聞こえた?」
「林檎です。甘いって……ここ、甘いって言ってます」
笑いたいのに唇が強ばっている。爪の間には畑の土が残り、林檎の皮へ薄い茶色の筋がついていた。畑から寮へ戻って、そのまま走ってきたのだろう。
「椅子には座らないで。立ったまま言って」
「はい。畑を見たあと、寮で林檎を触ってたら、急に。音じゃなくて、声でも……ないんですけど、ここが甘い、って」
胸を押さえかけた手が、途中で開いた。答えがそこに貼りついているみたいに。
「切ってないのに?」
「はい。日に当たった側が、甘いって」
林檎を受け取り、表皮を指でなぞる。陽を受けた側に熱の名残はある。けれど、エルマが拾ったのはそれだけではなかった。大賢者の感覚で探ると、彼女のエッセンスが林檎の輪郭へ細く触れている。糸みたいに頼りない。だが、切れていない。
「……嘘じゃないです」
「分かってる。嘘にしないために確かめる」
ここで本当かと問い返せば、指がほどける。わたしは作業台の布巾を脇へやり、朝食用の籠から林檎を三つ出した。窓際にあったもの、水桶のそばで冷えたもの、籠の底で重みを受けていたもの。ぱっと見は似ている。違うのは置かれた場所と、皮に残った温度だ。
「別ので。ひとつ選んで、手で包んで。目は、開けても閉じてもいい」
エルマは息を吸い、真ん中の林檎を取った。走ってきた時の荒さが抜ける。農具を持つ時の手だ。両掌で包み、親指を動かさず、重さだけを受け止める。かまどの薪が、ぱち、と鳴った。
「……甘い」
「どこが」
「右。右の肩のところです。下は、ええと、水っぽい。左は酸っぱいです。皮、薄いかも」
当てものの口ぶりではない。迷いながら、舌を使わずに味を拾っている。
「包丁を持って。切って確かめなさい」
「え、今ですか」
「今。菓子に回す分が一個減るんだから、外したら昼の賄いで食べます」
拍手を待つ顔になりかけたので、その前にまな板を寄せた。エルマは慌てて包丁を取り、右側から刃を入れる。断面が開き、果汁がにじんだ。部屋に、酸味のある甘い匂いが広がる。
右を薄く切って口へ入れる。エルマの目が見開かれた。
「甘い……」
「左は」
左を齧る。今度は眉が寄った。
「酸っぱいです。全然違う」
「下」
中心に近いところを確かめ、彼女は何度も頷いた。
「水っぽい。合ってました」
そこでやっと目元が緩んだ。まばたきが増える。泣く前に、わたしは次の籠を引き寄せた。
「人参でもやって」
「え」
「一つできたら次。料理は林檎で終わらない」
エルマは瞬きを繰り返し、それから笑って人参を受け取った。指先が、皮についた土を落とすほど震えている。
授業の鐘が鳴る前に、隠しようがなくなった。エルマが聞こえた、と。二十八人の目が一斉に彼女へ向く。まっすぐ祝った顔は半分もない。羨む者、焦って机の下で拳を握る者、疑っているのに見たい者。台所の空気が一段、詰まった。
ざわつきの中で、エルマは人参を胸の前で抱え込み、耳まで赤くしていた。笑いかけて、すぐ顎を引っ込める。祝わせすぎると、その場で順位表ができる。だから、湯気が上がる前に蓋をする。
「焦らないでください」
黒板の前に立ち、できるだけ平らな声を出した。
「エルマは二か月かかった。もっとかかる手もあります。聞こえないままでも料理人にはなれます。隣の手元ばかり見ていたら、自分の鍋が焦げます」
「でも、先生」
「焦げます」
トーマスが腕を組んだまま、人参を見ている。貴族の少年は唇を噛みすぎて、血の色がにじみそうだった。マティアスだけが、興味深そうに記録を取り始める。反応はばらばらだ。それでも、紙の上だけだった遠い技が、同じ寮で寝起きする娘の手の中で鳴った。
授業が終わる頃には、何人かが林檎へ触る時間を増やしていた。机に赤い果実が並び、沈黙の質まで変わる。菓子に回す分が二つ減った。誰も文句を言わない。マティアスの講義ノートの横にまで林檎が転がっているのを見て、わたしは笑いかけた。
エルマは人参を持ったまま、まだ呼吸の置き場を探している。わたしは作業台の上の林檎の種を脇へ寄せ、人参を一本転がした。土がぱらりと落ちる。
「……土が、うるさいです」
上等。
わたしは布巾を投げた。
「洗ってから、もう一回。水の匂いに負けないで」




