【282】退学
ヨハンがいない。
点呼の前に分かった。旧兵舎の厨房には三十脚の椅子が並び、三十枚の前掛けが釘に掛かる。椅子を引く音、井戸水で手を洗う音、誰かの咳。今朝は、そのうち一つが鳴らなかった。
ヨハン・フォン・リヒテンベルク。貴族の三男。入学試験で鹿肉のローストを焼き、焼き汁の鍋肌まで木べらで集めていた子だ。返事は小さい。けれど、ないと分かる。
「ヨハンは?」
アリアが前掛けの紐を結びかけた手を止め、封書を差し出した。何人かが入口を見る。遅刻なら、あの子は走ってきて真っ先に手を洗う。扉は動かなかった。
「門番からです。使いの者は、渡したらすぐ帰ったそうです」
「本人は」
「来ていません」
封蝋はリヒテンベルク家のものだった。蝋が厚い。爪を入れると、ぱき、と割れて赤い欠片が机に散った。
「退学届です。家の事情で、これ以上の通学は認めない、と」
文面は丁寧だった。丁寧すぎて、油の一滴も跳ねていない。『家門の方針により、これ以上の通学は叶いません』。整った文字。ヨハンの字ではない。あの子の字は、急ぐと終いが跳ねる。
机の端には、昨日の計量匙が一つ残っていた。ヨハンは使った道具を必ず戻す。砂糖の匙を塩の箱のそばへ置くことさえ嫌がる子だ。忘れ物というより、手首を掴まれて作業場から引かれたように見えた。
林檎の訓練で、一番長く目を閉じていた。聞こえなくても、掌を離さなかった。派手な質問はしない。鍋の縁についた泡や、洗い場へ飛んだ水を先に見つける。そういう子が、家の紙一枚で消える。
家の事情、か。三男なら家の帳尻に使いやすい。旧魔術院へ借りがあれば、馬車一台と親の署名で済む。リヒテンベルク家はルートヴィヒの影響圏にも近い。偶然と呼ぶには、封蝋の匂いが濃すぎた。
「先生……ヨハン、戻ってきますか」
エルマが聞いた。声を潜めたせいで、かえって厨房中に通る。トーマスが腕を組み、足先で床の煤をこすった。誰かが木べらを握り直す。二十九人ぶんの息が、同じところで詰まっている。
ここで家を罵れば、火の粉は生徒に飛ぶ。学院は守ると言い切れば、どの家が次の封書を寄越すか数えなければならない。慰めの言葉で鍋は温まらない。
「約束はできません」
エルマの唇が震えた。トーマスが顔を上げる。
「ただ、今日の名簿からは消さない。蕪を洗って。スープにします」
「今、それですか」
トーマスの声が掠れた。
「今です。手は止めると冷える。冷えた手で包丁を握る方が怖い」
何人かが息を呑む。もっと別の言葉を待っていたのだろう。わたしも、できるなら別の言葉を出したかった。けれど舌の上に乗る前に、どれも焦げる。
蕪は三十個届いていた。籠の底で一つ余る。返品しても銅貨数枚、明日にはしなびる。傷のある小さいのを賄い用に脇へ寄せ、残りを二十九人に配った。
包丁がまな板を打つ音はいつもより短い。皮を剥く手が厚すぎて、白い身まで落ちる。湿った薪から煙が出て、誰かが咳き込んだ。スープの甘い匂いが立っても、空気はなかなか戻らない。
「そこ、削りすぎ。食べるところまで捨てない」
エルマが肩を跳ねさせる。
「すみません」
「謝るより、刃を寝かせる」
ヨハンの席は空いたままだ。見ないと決めても、鍋を回るたびに壁の前掛けが視界へ入る。白い布は声を出さないくせに、未使用の鍋より場所を取った。
「火、弱いです」
トーマスがエルマの鍋を指した。いつもなら突き放すところを、今日は薪束まで持ってくる。エルマは無言で受け取り、一本だけ足す。二本入れかけて、やめた。
授業が終わると、片付けは早すぎた。誰もヨハンの前掛けへ触れない。壁の釘に掛かったまま、白布だけが一枚、影を細く落としていた。
流しの縁には水が残っていた。いつもならヨハンが仕上げに拭く場所だ。砥石も濡れたまま、豆の桶も空だ。目立たない仕事ばかりが、いなくなった途端に足元へ転がってくる。
布を取ると、エルマの手が伸びかけて止まった。
「私がやります」
「今日はいい。明日から当番表を直します」
「ヨハンの分も、ですか」
「仕事の分です。人の分は空けておく」
エルマは返事をしなかった。ただ、桶をこちらへ寄せてくれた。
窯の火が落ちても、厨房を出られなかった。窓の外は暗く、井戸の鎖が風で鳴る。ヨハンの前掛けを釘から外す。洗いたての石鹸と、干しきれない布の匂いが残っていた。
前掛けを畳み、棚のいちばん上に置く。箱の蓋は閉めない。
明日の豆はいったん二十九人分に量った。手が止まったので、半合だけ戻した。




